高島茂徳
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高島 茂徳(たかしま しげのり、弘化3年4月10日(1846年5月5日) - 明治9年(1876年)10月24日)は、江戸時代末期(幕末)の静岡藩士。明治時代前期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中佐。通称は四郎兵衛・四郎平。
生涯
[編集]弘化3年(1846年)4月10日、福田好政の三男として江戸牛込に生まれる。
慶応2年(1866年)11月29日、砲術家高島秋帆の養嗣子となった。沼津兵学校では英語を担当していた(三等教授方)というが、詳しいことは不明である。
大砲差図役頭取として明治維新を迎えた後、明治3年(1870年)に新政府に出仕して創設初期の陸軍砲兵科中佐となり、その後陸軍卿山縣有朋にその奇才を見込まれて明治9年(1876年)6月19日、熊本鎮台司令部の参謀長に抜擢された。
しかし、同年の10月24日の神風連の乱において、自宅で神風連・石原運四郎らの襲撃にあった。不意の襲撃に驚き、雨戸を押し開けて庭に飛び出したが、屋敷を囲んでいた一隊に「そら出た」と追いかけられ、泉水に落ちたところを水野貞雄に首を刎ねられたという。享年31。
年譜
[編集]- 弘化3年4月10日(1846年5月5日)、東京・牛込で生まれる。
- 元治1年(1864年)11月29日、砲術家高島秋帆の養嗣子となる。
- 慶応3年(1867年)8月25日、長男・茂秀が誕生(明治34年(1902年)2月6日没)。
- 明治2年(1869年)、次男・右満弟(外祖父塩野谷景高の養子となる)が誕生(明治3年(1870年)7月11日没)。
- 明治3年(1870年)、新政府に出仕。
- 明治7年(1874年)11月22日、三男・茂松が誕生(大正4年(1915年)12月22日没)。
- 明治8年(1875年)2月8日、熊本鎮台参謀長に任ぜられ、衛戍司令官も兼務。
- 明治9年(1876年)10月24日、敬神党(神風連)が挙兵、自宅に襲撃を受けて死亡。
家族
[編集]- 実父:福田好政(栄寿) - 幕府同心
- 実母:飯山喜勢子
- 養父:高島秋帆(敦)
- 養母:池田香
- 実兄:福田重固(しげかた、1833-1910) - 旧名・作太郎。勘定方役人から歩兵頭にまでなった人物で、文久遣欧使節にも加わり、静岡藩では用人を務め、維新後は内務省で電信事業に従事した[1][2]。
- 妻:塩野谷紀子(1847年 - 1908年)
- 子
- 長男:茂秀(1867年 - 1902年)
- 次男:右満弟(1869年 - 1870年)
- 長女:俊子(1871年 - 1873年)
- 三男:茂松(1874年 - 1915年)
参考文献
[編集]- 樋口雄彦編著『幕臣 福田重固・高島茂徳兄弟』(福田達 発行、2006年)
- 鈴木喬監修『神風連資料館収蔵品図録』(神風連資料館、1987年)ほか
脚注
[編集]- ^ 高島茂徳の死『明治史料館通信』Vol13. No2, 通巻50号、1997年7月25日
- ^ 福田重固(ふくだしげかた) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー