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本木荘二郎

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高木丈夫から転送)
もとき そうじろう
本木 荘二郎
別名義 渋谷 民三 (しぶや たみぞう)
高木 丈夫 (たかぎ たけお)
藤本 潤三 (ふじもと じゅんぞう)
藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)
生年月日 (1914-06-19) 1914年6月19日
没年月日 (1977-05-21) 1977年5月21日(62歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区新橋
(現在の東京都港区新橋)
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区
職業 映画プロデューサー映画監督脚本家
ジャンル トーキーピンク映画
活動期間 1938年 - 1977年
配偶者 倉橋ふさえ (離婚)
浜田百合子 (離婚)
主な作品
酔いどれ天使
野良犬
羅生門
生きる
次郎長三国志』シリーズ
七人の侍
生きものの記録
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本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー映画監督脚本家である[1]。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)品川照二渋谷民三(しぶや たみぞう)[2]等がある[1]

来歴

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生い立ち

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1914年(大正3年)6月19日東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区新橋)の洋装品関係の商家に生まれる[3][4]。芝区立桜川小学校(旧制、のちの港区立桜川小学校、現在は合併して港区立御成門小学校)、東京府立第一中学校(旧制、現在の東京都立日比谷高等学校)、浦和高等学校 (旧制)の入試に失敗して[5]早稲田第二高等学院(旧制、2年制・文科、現在の早稲田大学高等学院・中学部)、早稲田大学文学部仏文科(現在の同大学文学部文学科フランス語フランス文学コース)に学ぶ[3]。学生時代には学生運動をした[4]

大学卒業後の1938年日本放送協会アナウンサーとして入局したが、学生運動仲間で大学の先輩だった山本薩夫から東宝映画(現在の東宝)が助監督を募集をしていることを教えられ、受験を勧められる[4]

黒澤明のプロデューサー

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野良犬』(1949年)の制作を記念して撮影された写真。左から三船敏郎志村喬黒澤明菊島隆三、本木荘二郎。

1938年(昭和13年)4月、東宝映画に入社、製作課に配属される[6]。入社後は撮影所近くの下宿で生活したが、自分の部屋から3歳年上の黒澤明の部屋で暮らすようになり、兄弟のような親しい関係になる[4]

1940年(昭和15年)6月5日に公開された伏水修監督の『支那の夜 前篇』で「製作主任」としてクレジットされた記録がある[1]。1941年(昭和16年)、劇映画部演出助手の辞令を受ける[6]。戦時体制を迎えた1942年(昭和17年)には、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)監督の『婦系図』『続婦系図』、翌1943年(昭和18年)には同監督の大作『阿片戦争』や『ハナ子さん』の演出助手を務めている[1]

東宝にプロデューサーシステムを導入した森岩雄常務からの君はプロデューサー向きだとの勧めで[7]、1944年4月には「企画担当」の辞令を受け[6]、1944年3月公開の山本嘉次郎監督『加藤隼戦闘隊』のチーフ助監督を最後に演出部を離れた。初プロデュース作品は同年の佐伯清監督の『天晴れ一心太助[7]。続けて成瀬巳喜男監督の『勝利の日まで』を製作[1]

翌1945年には黒澤明監督で時代劇『雑兵物語』を企画したが[7]、4月に召集令状を受けて入隊、同年8月には終戦により復職した[6]。その間に『雑兵物語』は『虎の尾を踏む男達』として完成していた[7]

1946年2月、「協同製作者」に就任[6]今井正監督の『民衆の敵』、山本嘉次郎黒澤明関川秀雄の3人が監督した『明日を創る人々』の製作に名を連ねている[1]。同年、東宝争議が起きており、11月には大河内伝次郎長谷川一夫らが労働組合を脱退、1947年(昭和22年)3月には、新東宝設立という事態になっており、東宝撮影所では製作が不可能になりつつあった。同年7月1日には、黒澤明単独監督作での初のタッグである『素晴らしき日曜日』が公開される[1]。争議の動きを受け、本木製作、黒澤明監督の『酔いどれ天使』が公開された1948年(昭和23年)4月には、東宝を依願退職した[6]。山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉らの「映画芸術協会」の設立に参加する。この「映画芸術協会」の幹事長たる本木は黒澤明の『野良犬』『醜聞』『羅生門』を手がける。

1951年、『白痴』の撮影中に労働争議が終わった東宝に専属プロデューサーとして復帰し、この頃に女優の浜田百合子と再婚。東京都世田谷区弦巻に豪邸を建て、運転手付きで車に乗った[8]。東宝では、1952年(昭和27年)10月9日には本木製作、黒澤監督の『生きる』、同年12月4日には本木製作、マキノ監督の『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』が公開された[1]。他にも黒澤の『七人の侍』『生きものの記録』などをプロデュースしたが、1957年1月15日に公開の『蜘蛛巣城』を最後に訣別、この作品が黒澤との最後の仕事になった[9][10]

東宝からの契約解除

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黒澤とのコンビで製作した『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭のグランプリを受賞、『七人の侍』ではヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞して、藤本真澄田中友幸とともに東宝の三大プロデューサーと称され、その筆頭格だった[4][10]

しかし豪邸で派手な生活をした上に、1953年スターリン暴落で株式投資に失敗し、その穴埋めに予算を私的流用したことが発覚。さらに原作料や成瀬巳喜男菊島隆三らスタッフへの未払いも起こしていた。多額の使途不明金に加えて、領収書の文書偽造もあったため、警察沙汰になりかけたが、不透明な会計は予算超過を繰り返す黒澤作品の予算の穴埋めも一因だったという[9]。事の次第を聞いて呆れ果てた黒澤は「ああ金にだらしがないんでは仕様がねえよ」と語り、本木をかばうことは出来なかった[11]

1957年、東宝とのプロデューサー契約が解除[12][10]。浜田とも離婚し、豪邸も手放した。『釈迦を求めて』『レイテ沖海戦』を企画したが、採用する会社はなかった[13]

流用事件のほとぼりが冷めた頃、東宝資本の製作会社「宝塚映画」(現・宝塚映像)の社長職を打診されたが、本木はこれを拒んでいる[14]。その理由は明かされていない[15]

その後は、PR映画、教育映画、テレビ番組の下請けなどとともに、ストリップショーを撮影した短編のショー映画を手掛けていたが、岩波映画プロデューサーの大井由次からの助言でピンク映画に乗り出すこととなる[13]

黎明期のピンク映画へ

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1962年11月、国新映画なる映画会社が製作した成人映画肉体自由貿易』の高木丈夫として本木は監督デビューした[13]

以降、高木丈夫名ではシネユニモンド、1968年(昭和43年)からは加えて「品川照二」の変名も駆使して、製作者・監督・脚本家として、200本に近いピンク映画を量産した[1][10]。1971年(昭和46年)からは、ジョイパックフィルム(現在のヒューマックスシネマ)の成人映画レーベル「ミリオンフィルム」に活動の場を移し、翌1972年(昭和47年)からは「岸本恵一」を名乗る[1]。1975年(昭和50年)からは、大東映画大蔵映画でも監督作を生み、その際の変名を「藤本潤二」あるいは「藤本潤三」とした[1]。ピンク映画の監督名としては「本木荘二郎」の名前は決して使わなかった[16]。のち女流ピンク映画監督として名を馳せる浜野佐知は十代終わりの1960年代後半頃に本木に助監督として仕えていた。「すっごくスケベな人で、セクハラありありの現場」「もうおじいさんで、女の子のそばにいられるだけで幸せ、という人で、別に悪さするわけじゃないんです」「移動するときに、手をつないでくるのには往生しましたが」とし、性描写の具体的な演出指示が勉強になったと感謝、「本木さんのHの文法と、梅沢薫さん(浜野が本木の次に師事した監督)の映画の文法を合体して、今の私がある」と回想している[17]。ただ、当時の本木は50を過ぎたばかりだったので、ピンク映画業界では高齢だったとはいえ、かなり老け込んでいた様子もうかがえる。

この間の1970年1971年には、森岩雄の指示により、一般映画『柔の星』『おくさまは18歳 新婚教室』を製作して東宝が配給したものの、作品的にも興行的にも成功せずにこの2作品のみで終わっている[18][10]

死去

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1977年(昭和52年)5月20日午後6時30分、東京都新宿区の居所付近の病院で診察を受け、心筋梗塞との問診を受ける[19]。翌5月21日午前4時頃、同区内の第二淀橋荘7号室(自室)で心不全により死去する[19]。満62歳没。

遺体を発見したのは、第二淀橋荘の女性管理人である[20]。晩年はピンク映画も赤字で借金に追いまくられ、昔の撮影所仲間を訪ねて借金をしたり[11]ピンク映画仲間には寸借詐欺のようなことをする困窮ぶりで[21]、ピンク映画に進出していた作家の団鬼六も制作費持ち逃げの被害に遇っていた[22]。死亡時には健康保険証も住民票も預金もなく、終の棲家も他人名義で借りた部屋の又借りであった[20]。遺品は、東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈された[23]

「藤本潤二」の名で撮った大蔵映画『金髪性感地帯』、「岸本恵一」の名で撮ったミリオンフィルム『好色女子大生 あげちゃいたい!』は、没後の公開となった[1][19]

生前の本人が申し込みにより遺体は献体にされ、献体を終えた後は東京の伝通院の共同墓地に埋葬された[4]

同年6月23日、東京・港区の「南青山ダイアモンドホール」で「本木荘二郎を偲ぶ会」が開かれたが、黒澤明は姿を現さなかった。大蔵貢若松孝二小川欽也中村幻児西原儀一関孝二、らピンク映画時代の人脈、田中友幸佐藤一郎藤本眞澄本多猪四郎豊田四郎志村喬山田典吾橋本忍小国英雄ら東宝時代の人々の自筆による記帳に「黒澤明」の名はなかった[24]。ピンク映画時代に本木のつきあいのあった山本晋也が本多や田中に連絡をし、黒澤にも電話したが「本木とはお別れしたから」と答えて参列しなかったという[11]

15年間のピンク映画生活で約200本を監督したが、ほとんどが廃棄処分されて現存する作品は少ない[25]。2012年5月現在、本木の監督作のうち、「高木丈夫」名義の『毒のある愛撫』『女 うらの裏』『洋妾 らしゃめん』、「品川照二」名義の『セックスNo.1』、「岸本恵一」名義の『悩殺のテクニック』『発情女 乱れ斬り』『人妻悶絶』『人妻交換 熟れた悶え』『性熟期』の9作については、上映用プリントを東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している[26][27][28]

フィルモグラフィ

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野良犬』(黒澤明、1949年)
羅生門』(黒澤明、1950年)
白痴』(黒澤明、1951年)
生きる』(黒澤明、1952年)
七人の侍』(黒澤明、1954年)

特筆以外はすべて「製作」である[1]。監督作のほとんどが筆名である[1]

1940年代
1950年代
1960年代
1970年代

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 本木荘二郎日本映画データベース、2012年5月28日閲覧。
  2. ^ 昭和39年の俺たち p.127 2024年7月29日発売号(クレジットは9月号)
  3. ^ a b 藤川、p.5.
  4. ^ a b c d e f 鈴木、p.203
  5. ^ 藤川、p.21.
  6. ^ a b c d e f 藤川、p.22.
  7. ^ a b c d 鈴木、p.204
  8. ^ 鈴木、p.205
  9. ^ a b 鈴木、p.206
  10. ^ a b c d e 電撃ホビーマガジン編集部 編「東宝チャンピオンコラム ゴジラ映画以外の新作映画」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』KADOKAWAアスキー・メディアワークス)〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年11月29日、161頁。ISBN 978-4-04-866999-3 
  11. ^ a b c 鈴木、p.211
  12. ^ 藤川、p.39.
  13. ^ a b c 鈴木、p.207
  14. ^ 藤川、p.257。
  15. ^ 藤川、p.258。
  16. ^ 鈴木、p.208
  17. ^ 銀星倶楽部19「特集 桃色映画天国」p.87’ペヨトル工房1994年10月刊
  18. ^ 鈴木、p.210
  19. ^ a b c 藤川、p.8-10.
  20. ^ a b 藤川、p.11
  21. ^ 大崎善生「赦しの鬼 団鬼六 の生涯 第六回」『小説新潮』2011年12月号、p.427
  22. ^ 大崎善生「赦しの鬼 団鬼六 の生涯 第七回」『小説新潮』2012年1月号、p.445
  23. ^ 黒澤明のエロ映画 第一篇木全公彦マーメイドフィルム、2012年5月28日閲覧。
  24. ^ 藤川、p.18-20.
  25. ^ 鈴木、p.210
  26. ^ a b c d 高木丈夫東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年5月28日閲覧。
  27. ^ a b 品川照二、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年5月28日閲覧。
  28. ^ a b c d e f 岸本恵一、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年5月28日閲覧。

参考文献

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  • 藤川黎一『黒澤明vs.本木荘二郎 それは春の日の花と輝く』論創社、2012年4月 ISBN 4846011321
    この本は小説形式をとっており、完全なノンフィクション作品ではない。
  • 鈴木義昭『黒澤明に見捨てられた『本木荘二郎』小伝』『新潮45』2013年1月号、pp.202-211
  • 鈴木義昭『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』』山川出版社、2016年7月

関連項目

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外部リンク

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