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佐伯清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さえき きよし
佐伯 清
佐伯 清
キネマ旬報社『キネマ旬報』第245号(1959)より映画『空港の魔女』ロケシーン。画面右から久保菜穂子、佐伯清、高倉健
生年月日 (1914-09-19) 1914年9月19日
没年月日 (2002-07-16) 2002年7月16日(87歳没)
出生地 日本の旗 日本 愛媛県松山市
職業 映画監督
活動期間 1935年 - 1972年
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佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002年7月16日)は、愛媛県松山市生まれの映画監督である。代表作は昭和残侠伝シリーズ

来歴・人物

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愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り[1]片岡千恵蔵片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。同期に助監督として活躍した市川崑とは兄弟分の関係で弟のように可愛がっていたという[2]日活太秦撮影所新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。

1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー[1]東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが[1]、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。プログラムピクチャーの監督として、バラエティーに富んだ作品を数多く残している。1963年(昭和38年)は千葉真一主演の『柔道一代』、『白い熱球』を監督した。1965年(昭和40年)、高倉健主演の『昭和残侠伝』を演出[1]。以降20本の任侠映画を生み出す[1]。1972年(昭和47年)12月30日に封切られた『昭和残侠伝 破れ傘』が、劇場用映画最後の作品となった。

1960年代後半からの東映のポルノ路線、1973年(昭和48年)『仁義なき戦い』以降の任侠路線から実録路線転換にハラを立て[3]、1975年(昭和50年)に『キネマ旬報』誌上で、「現実に日本全国で起こっているやくざの抗争、こんなものは箸にも棒にも掛からぬ程汚くて、僕のドラマの対象にはなりません。乾ききった今日の世相風俗、毎日の流行に目を血走しらせて、自分の足元を見ない若者達、私は何本かの実録ものやポルノ映画を見ましたが、あんな汚らしい映画の中から、果たして次に何が生まれて来るのでしょう。SEX、実録、それも結構、でも、せめて映画ではもっと夢やロマンを見つけたいと思いませんか!」などとぶちまけた[3]

作品

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脚注

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  1. ^ a b c d e 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI(Internet Archive)
  2. ^ 『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、P26
  3. ^ a b 「顔と言葉 東映任侠映画落日の日に思う事 佐伯清」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1975年4月上旬号、63頁。 

参考文献

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外部リンク

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