高木友三郎
高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)4月5日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は、日本の経済学者、ジャーナリスト。法政大学教授、北日本新聞主筆・会長。
略歴
[編集]1887年(明治20年)4月5日、富山県に生まれる。
1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
同年、不動貯金銀行に入社。翌年、増田ビルブローカー銀行に転動。市場調査、株式売買を担当。
1917年(大正7年)大阪毎日新聞入社。経済部副部長を務める。
1918年(大正8年)東京帝国大学大学院法学部ドイツ法律学科に入学し、金井延もとで経済学・経済政策を研究。
同年10月、法政大学に、わが国初の経済学部を創設。経済学部教授に就任する。
1921年(大正10年) 東京帝国大学大学院卒業後、~1925年、イギリス・ドイツに留学。ベルリン大学在学。
1933年(昭和8年)、学位論文『生の経済哲学』で経済学博士(法政大学)を取得する[1]。
1936年(昭和11年)内閣調査局専門委員、企画院委員を務め[2]、1938年(昭和13年)に法政大学経済学部長に就任する。
この時期、法政大学の他に、中央大学、大同文化学院、東亜専門学校、嘉悦女子高等商業にて、経済学原論、世界経済、経済時事、景気変動論等の講義に務める。
1941年(昭和16年)から北日本新聞(富山県の新聞)主筆として「月曜論壇」を執筆。
戦争中に大日本帝国政府に就職したとして、戦後のGHQによる公職追放を受けて教授職から離れる中、弁護士資格を取得。法博孫田秀春弁護士の元、主に労働法事件を担当。
1951年(昭和26年)追放解除により、日本大学法学部教授、法政大学名誉教授として復職。
1953年(昭和28年)日本大学経済学部教授、並びに同大学院教授に就任。
1958年(昭和33年)北日本放送(富山市)取締役に就任。 北日本新聞取締役会長に就任。
1969年(昭和44年)勲三等旭日中綬章を受章
1974年(昭和49年)5月12日死去、87歳。
著書
[編集]- 『世界景氣は日本から 世界恐慌と日本財界』(同文館、1931)
- 『經濟斷交怖るるに足らず 東亞モンロー主義への驀進』(千倉書房、1932)
- 『生の経済哲学』(森山書店、1934)
- 『躍進日本の経済知識』(森山書店、1934)
- 『戰争的世代と産業』(日本文化中央連盟、1939)
- 『最近商品学』(帝国書院、1939)
- 『新體制の經濟』(第一書房、1940)
- 『戰爭・經濟・生活』(実業之日本社、1940)
- 『統制国民経済学』(中文館書店、1940)
- 『世界再建と物価・景気』(ダイヤモンド社、1941)
- 『世界戰の見透しとわが經濟生活』(拓南社、1941)
- 『國民經濟學』(千倉書房、1942)
- 『海上權と日本の發展』(興亜日本社、1942)
- 『世界情勢と最近の支那問題』(日本工業倶楽部、1943)
- 『新版國民經濟學』(千倉書房、1944)
- 『経済学入門』(千倉書房、1947)
- 『最新経済通論』(増進堂、1949)
- 『米ソ對立下の投資對策 大インフレ時・その全財產をどう振向けるか』(金融通信社出版部、1951)
- 『よりよき人生よりよき生活-幸福への道』(実業之日本社、1953)
- 『文化哲学と経済学』(東洋経済新報社、1962)
- 『経済学原論』(千倉書房、1964)
- 『日本民族のヴィジョン-日本歴史の新展開』(鹿島研究所出版会、1969)
参考
[編集]- kotobank > 高木友三郎とは
- 『現代人名情報事典』(平凡社、1987)
- 高木友三郎のドイツ留学 飯田隆