高木守富
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦13年1月29日(1763年3月13日) |
死没 | 天保5年2月24日(1834年4月2日) |
改名 | 豊松(幼名)、守富 |
別名 | 善左衛門(通称) |
墓所 | 東京都杉並区永福の栖岸院 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
氏族 | 高木氏 |
父母 | 高木守節 |
妻 | 林忠篤娘 |
子 | 内藤忠意、正義、守孝、守影 |
高木 守富(たかぎ もりとみ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。石高は5,000石。通称は善左衛門。官位は従五位下・伊勢守、近江守。剣術家で玉影流を開いた。
略歴
[編集]河内国丹南藩祖・高木正次の弟・守次の系統。丹南藩分家筋の大身旗本・高木守節の子として誕生した。幼名を豊松。
父・守節(当時中奥小姓)が34歳で没し、明和5年(1768年)11月4日5歳にして家督を継ぐ。天明6年(1786年)12月18日、従五位下・伊勢守に叙任された。小姓組番頭、西丸書院番頭、本丸書院番頭、大番頭、駿府城代などを歴任した。天保5年(1834年)、72歳で没した。墓所は麹町の栖岸院(現在は杉並区永福に移転)。家督は正室所生の四男守影が継いだ。
若いころより武芸を好み、一心流、一宮流、信心流、直心影流など心五流を修めて、玉影流を開いた。
子孫は守影、守庸と続き、守庸の次男の正善は丹南藩主正坦の養嗣子となり、同藩最後の13代藩主となった。
参考文献
[編集]- 『別冊歴史読本 幕末明治剣客剣豪総覧』新人物往来社
- 『日本人名大辞典』講談社