高橋庄之助
高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元治元年5月30日[1])- 1930年(昭和5年)[2][3])は、明治から昭和初期の弁護士、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]上野国甘楽郡[4][5]野上村(群馬県[6]北甘楽郡額部村[3]野上[2]を経て現富岡市[3]野上)で、高橋曽米吉の末子として生まれた[7]。高橋玄硯[5]、新井又右衛門[5]から漢学を学び[4][7]、1887年(明治20年)に上京して明治法律学校に入学し[4][5][7]、1889年(明治22年)同校を卒業[2][3][6][8]。
同年、代言人試験に合格して代言人(弁護士)となる[2][4][5][6][7]。東京市下谷区西町(現東京都台東区東上野)に住み[2]、弁護士会常議員会長となり[2][3]、下谷区会議員、東京市会議員なども務めた[2][3][4][6][7]。1897年(明治30年)専売特許製瓦 (株) を設立して社長に就任し[4][6][7]、その他、日本漁獵監査役、海産貿易監査役などに在任[7]。また、1890年(明治23年)5月、小久保喜七、小池平一郎と共に北海道を視察し、帰京後各所で報告会を催し、北海道開拓について啓発活動を行った[4][5]。共済会孤児収容所幹事も務め、慈善事業にも参画した[2][3]。
1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、立憲政友会)で当選[2][3][9]。1904年(明治37年)3月、第9回総選挙で落選し[2][3][9]、衆議院議員に1期在任して[6][7]政界を引退した[2][3]。
日露戦争後、朝鮮に渡り、京城府(現ソウル特別市)で弁護士として活動し、苗園の経営も行った[2][3]。
国政選挙歴
[編集]- 第5回衆議院議員総選挙(群馬県第5区、1898年3月、国民協会)落選[2][10]
- 第6回衆議院議員総選挙(群馬県第5区、1898年8月、憲政党)落選[2][10]
- 第7回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、1902年8月、立憲政友会)落選[2][9]
- 第8回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、1903年3月、立憲政友会)当選[2][9]
- 第9回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、1904年3月、無所属)落選[2][9]
著作
[編集]- 安藤兼吉との共著『受験必携民事訴訟法々理図解』高橋庄之助・安藤兼吉、1894年。
脚注
[編集]- ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十八回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1903年、8頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『群馬県人名大事典』305頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『群馬新百科事典』486頁。
- ^ a b c d e f g 『新撰衆議院議員列伝』130頁。
- ^ a b c d e f 『在野名士鑑 巻の2』130-131頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』379頁。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 初版』478頁。
- ^ 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』270頁。
- ^ a b c d e 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』10頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』79頁。
参考文献
[編集]- 山田倬 (秋村) 、武部竹雨 (弁次郎) 編『在野名士鑑 巻の2』竹香館、1893年。
- 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。