高橋是清自伝
『高橋是清自伝』(たかはしこれきよじてん)は、日本の政治家である高橋是清の自伝。1920年代に上塚司が、高橋の口述を編集したものである。
作成経過
[編集]以下は1936年1月付けの高橋の序文。
私は最初自分の伝記を公刊するの考えは少しもなかった。ただ子孫に残すために、その概略を綴っておきたいと、数年前から暇を見ては、日記、手帳、往復文書など諸般の資料を整理して来た。
何しろ、維新前に遡ってからの諸資料であるから、誠に多種多様でかつ広汎なものである。それを順々に整理して、資料になりそうなものはすべて上塚君[注 1]に渡しておいた、すると上塚君はそれを分類し、各資料について私に話を聞きに来る、それに対して私は記憶を呼び起こして口述する、上塚君はそれを筆記し、清書して持って来る。それをまた私が補正するというようなわけで..(後略)
出版経過
[編集]1929年1月から東京朝日新聞・大阪朝日新聞夕刊に、「是清翁一代記」として連載され、この名で1929 - 1930年に書籍化された[1]。
1936年、上塚は『一代記』を再編集し、2月9日『高橋是清自伝』として再出版した[2]。『一代記』の222節を17章にまとめた、節題を修正した、「吾輩」を「私」にした、本文中の写真類を省いた、などの小改訂である。
内容
[編集]中公文庫の上巻(1-10章)は、いろんな仕事をした7転8起の経歴。下巻(11-17章)は、日本銀行に入って自らの金融力を育てていく経過と言える[要出典]。
- 1 私の生い立ち時代
- 1854年 - (0歳)[注 2] 絵師の子に生まれて4日後、足軽、高橋家の養子になった。
- 6 養牧業 - 翻訳稼ぎ - 相場
- 1877年 - (22歳)だまされて乳牛事業に投資し借金。翻訳をして生計。銀の先物取引でまた損害[注 4]。
- 8 欧米視察の旅
- 1885年 - (31歳)欧米を視察し、アメリカの特許制度を学ぶ。特許局長となり、特許条例を改正。
- 10 ペルー銀山の失敗とその後の落魄時代
- 1888年 - (34歳)官を退職し、ペルー銀山に投資。しかし掘り尽くされた廃坑と判明し、16000円の負債。
- 11 実業界への転身とその修行時代
- 1892年 - (37歳)日本銀行に入る。最初は正社員でなく日銀本店の建築現場の事務主任。
中断の経緯
[編集]『高橋是清自伝』は1906年1月の記事で終わっている。
その直接の理由は、記述者の上塚司が、1930年に外務省の南米アマゾナス州調査団長として、日本を去ったためである。1932年には上塚は衆議院議員となり、以後10年間議員を続けた。
以下は1930年6月6日の上塚の擱筆文。
斯くて、手記者がいよいよ南米に向ふべく東京を出発する前日、即ち六月二日に至って漸く第五回日露戦費外債募集の所まで書き進める事が出来た。(中略) 元来、手記者の予定は下巻に於ては翁がペルー銀山失敗後官界を去って日本銀行に入らるる所より始めて、第六回即ち明治四十年三月最後の日露戦費整理公債の発行までの間を叙する考へであったが、時間が無い為に此の最後の一項を省かざるを得なくなったのは誠に遺憾である。翁は第六回戦費公債募集後明治四十年五月十日帰朝、(中略)同九月には勲功に依て特に男爵を授けられた。此の後の翁の公私生活は遍く人の知る所であるが、尚傳ふべき事は甚だ多い。是れに就いては他日筆を改めて記録に残し度いと思ふ。
続作としての『随想録』
[編集]高橋は1913年に第1次山本内閣ではじめて大蔵大臣を引き受けてから、1936年まで、7つの内閣で、10年近く蔵相を勤めた。
その華やかな後半生を語るものとして、『自伝』ほど網羅的ではないが、同じく上塚が編集した、1936年3月の『随想録』[8]がある。
この年2月26日に、高橋は陸軍の反乱将兵に暗殺されたため、これは高橋の遺作となった。上塚はその序文に「先生の書き遺され、語り遺されし随想・清談の文章を、いまの私には、激しき慟哭の思いを伴わずしては、全く読み得ないのである。」と書いた。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 上塚司は1924年 - 1928年、大臣高橋の秘書だった。
- ^ 以下満年齢。したがって『自伝』内の数え年とは異なる。
- ^ 1863年の奴隷解放宣言後であり、終身奴隷ではなく、3年間の転職自由がない住み込み労働契約。月4ドルの給料が払われた。そのため、高橋もしばらく転職禁止条件に気づかなかった。
- ^ 当時政府がインフレを止めるために銀売り円買いをするから、円を買っておくと得だといわれて投資したが、政府が円買いをやめてしまい損をした。
- ^ スメサーストによれば、「伝統的な農業を基礎とした下からの産業発展を優先させる(中略)前田の考え方は、経済成長が国防に優先するという高橋の考え方の基礎を形作った」[4]。
- ^ 日清戦争の戦費は約2億円。そのうち1億5000万円が公債でまかなわれた[5]。
- ^ 1930年の再金解禁時のような金の海外流出は、これにより防ぐことができた。
- ^ この時の外債が売れたのか、高橋は触れていない。実は外債は売れず、値崩れ防止のため、日本自身が買い支えなければならなかった[5]。
- ^ 高橋は詳しく描いていないが、築地の料亭で、元老の井上馨、首相の桂太郎、蔵相の曾禰荒助らの重臣が、固辞する高橋を説得する下りは、高橋の伝記の名場面とされる。たとえば板谷敏彦にそのような記述がある[6]。
- ^ 幸田真音の小説『天祐なり』の題は、シフが購入を決めてくれたことへの高橋の感慨。
- ^ 日露戦争の戦費約17億円(通常の年間予算の11倍余)のうち、公債が14億円。そのうち外債が約7億円(第4回起債までの8000万ポンド)となった(板谷、2012年[7])。外債は後日、英ポンドに換えねばならない。日本は日露戦争で賠償金がとれなかったので、外貨獲得のために、第一次世界大戦の好景気まで、戦時増税を続けねばならなかった。
出典
[編集]- ^ 高橋是清口述 『是清翁一代記 上下』 朝日新聞社 、1929年・1930年(下巻のみネット公開されている。)
- ^ 高橋是清『高橋是清自伝』千倉書房 1936 国会図書館デジタルコレクション
- ^ “国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online”. ndlonline.ndl.go.jp. 2023年7月25日閲覧。
- ^ リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』東洋経済新報社、2010年、pp.106 - 107
- ^ a b 富田俊基『国債の歴史』東洋経済新報社、2006年、pp.263 - 264
- ^ 板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い』新潮社、2012年、pp.116 - 119
- ^ 板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い』新潮社、2012年、p.132
- ^ 高橋是清(著)、上塚司(編)『随想録』千倉書房、1936年