高橋隆篤
高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月8日[1][2] - 1951年(昭和26年)9月24日[1][2])は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医中将。
経歴
[編集]秋田県出身[1][2][3]。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる[1]。郁文館中学校(現郁文館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業[1]。1915年(大正4年)2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる[1]。1916年(大正5年)12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した[1]。
1918年(大正7年)9月、伝染病研究所勤務となり、1919年(大正8年)4月、獣医中尉に昇進[1]。1920年(大正9年)9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年(大正14年)8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる[1]。以後、獣医学校教官、陸軍科学研究所員、第1師団獣医部員、獣医学校教官兼科学研究所員を歴任し、1930年(昭和5年)8月、二等獣医正に昇進した[1]。科学研究所員専任を経て、1933年(昭和8年)8月、関東軍司令部付(臨時病馬収容所所長[要出典])となり満州に赴任し、1935年(昭和10年)3月、一等獣医正に進んだ[1]。
1935年8月、獣医学校教官に転じて帰国。1937年(昭和12年)2月15日、陸軍武官官等表の改正により獣医大佐となる[1][4]。同年3月、獣医学校幹事に就任し[3]、同年5月、第14師団獣医部長に発令され日中戦争に出征した[1]。1938年(昭和13年)9月、第21軍獣医部長に転じ、1939年(昭和14年)3月、獣医少将に進級[1][3]。1940年(昭和15年)2月、南支那方面軍獣医部長に、同年8月、第3軍獣医部長を経て、1941年(昭和16年)3月、関東軍獣医部長に就任[1][2][3]。1942年(昭和17年)12月、獣医中将に進み終戦を迎えた[1][2][3]。
その後、シベリア抑留となり、1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受け[5]、1949年(昭和24年)12月、ハバロフスク裁判で重労働25年の刑に処せられる[1]。1951年、脳出血[要出典]のためソ連イワノボ収容所で死去した[1]。享年65。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、96頁。
- ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』425頁。
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』553頁。
- ^ 昭和12年2月12日勅令第12号。『官報』第3032号、昭和12年2月13日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 「吉野好武外九千三百五十七名満洲国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113503900
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。