高田世界館
高田世界館 Takada Sekaikan | |
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本町通りに面した高田世界館の入口と、奥まった位置にある本体の建物。入口の雁木の上部には「高田日活」の文字が消え残っている。2019年3月30日撮影。 | |
情報 | |
正式名称 | 高田世界館 |
完成 | 1911年 |
開館 | 1911年11月 |
収容人員 | 200人 |
設備 |
ドルビーサラウンド DLP、35mm映写機 |
用途 | 映画上映、各種催し |
旧用途 | 芝居小屋 |
運営 | NPO法人街なか映画館再生委員会 |
所在地 |
〒943-0032 新潟県上越市本町6丁目4番21号 |
最寄駅 | えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン高田駅 |
最寄IC | 上信越自動車道上越高田IC |
外部リンク | http://takadasekaikan.com/ |
特記事項 |
略歴 1911年11月:高田座開館 1916年:常設映画館化 2009年3月31日:高田日活廃業 同年6月24日:街なか映画館再生委員会がNPO認定 |
高田世界館(たかだせかいかん)は、日本の新潟県上越市にある映画館である[1][2][3][4]。1911年(明治44年)11月、高田市下小町(現在の上越市本町6丁目)に芝居小屋高田座(たかだざ)として開館した[1][3][5][6][7][8][9]。1916年(大正5年)には常設映画館となり[3][10]、以降、世界館(せかいかん)と名称を変更[6][11][12][13][14][15]、1940年(昭和15年)前後には高田東宝映画劇場(たかだとうほうえいがげきじょう)と改称している[8]。第二次世界大戦後は、高田セントラルシネマ(たかだセントラルシネマ)と改称、セントラル映画社(英語: CMPE)の配給するアメリカ映画を中心に上映した[16]。セントラル映画社解体後は、高田松竹館(たかだしょうちくかん)[17]、高田映画劇場(たかだえいがげきじょう)を経て[18][19]、高田日活(たかだにっかつ)と改称した[6][7][8][20]。2009年(平成21年)3月31日に同館は一度廃業したが、街なか映画館再生委員会が特定非営利活動法人認定を受け、現在は同委員会が運営を行っている[1]。市内最古の映画館であり、開館以来の洋館建築は全国でも最古の映画館の一つとして知られ、経済産業省の近代化産業遺産に認定、および国の登録有形文化財に登録された建物である[1][3][6][7][8]。
沿革
[編集]- 1911年11月:芝居小屋高田座竣工・開館[1][3][5][6][7][8]
- 1916年:常設映画館化[3][10]
- 1940年前後:高田東宝映画劇場と改称[8][21][22]
- 1947年前後:高田セントラルシネマと改称[16][23]
- 1953年前後:高田松竹館と改称[17]
- 1962年:高田映画劇場と改称[18][19]
- 1975年:高田日活と改称[6][20]
- 2009年
- 2011年1月26日:国の登録有形文化財に登録[1][3]。
データ
[編集]- 所在地 : 新潟県上越市本町6丁目4番21号[9][25](同県同市本町6丁目字下小町51番14号[1])
- 経営 :
- 構造:木造二階建 [1][17][18][19][20][25]、瓦一部鉄板葺、建築面積331平方メートル[1]
- 観客定員数:1階席136名・2階席64名(計200名、2014年[9])
概要
[編集]1911年の創業
[編集]1911年(明治44年)11月、新潟県高田市下小町(のちの高田市本町6丁目51番地、現在の上越市本町6丁目4番21号)に芝居小屋高田座として、新築竣工、開館した[1][5][6][7][8][9]。設計は野口孝博である[7]。信越本線(現在のえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン)の高田駅の東に位置し、「本町通り」(現在の新潟県道198号青柳高田線)に前庭をもって面しており、背後に儀明川の流れる場所に登場した同館は、当時「白亜の洋館現る」と評された[1][8]。同館の開館は、同年9月1日、同市が市制を開始したばかりの時期であり、その背景には陸軍第十三師団が同地に誘致され、1908年(明治41年)11月6日に配置されたことが挙げられる[7][26]。「本町通り」には、同館のほかにも、牛丸食堂(現在の大島電機、竣工1905年)、旅館の高田館(現存せず、竣工1907年)、高田市庁舎(現存せず、竣工1914年)、高田警察署(現存せず、竣工1915年)、高田ホテル(現存せず、竣工1924年)等、多くの洋館が立ち並んだという[7][10]。同市内には他に高盛館という芝居小屋があったが、高田座が映画を一部手掛け始めた頃にはまだ浪花節の上演などを行っていた[10]。第二次世界大戦後の資料である『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』の同館(高田松竹館)の欄には、1914年(大正3年)5月に創立したとの記述がある[17]。
1916年(大正5年)には常設映画館となり[3][10]、正確な時期は不明であるが世界館と改称している[6][8][11]。1917年(大正6年)12月には、高盛館が改装されて、常設映画館となり、電気館(茶町、現在の本町2丁目、のちの高田シネマ[注 1])に変わった[27]。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には、すでに「世界館」として、松竹キネマと帝国キネマ演芸の作品を上映する電気館とともに掲載されている[11]。同館の現在の公式ウェブサイトには「日活世界座」であった旨の記述があるが[8]、同書以降1930年代に至るまで、同時代に発行された年鑑の類には「世界館」という表記以外は見当たらず[11][12][13][14][15]、同館が改称した1940年代に発行された資料でも旧館名として「世界館」と記されている[21]。同書によれば、当時の同館の興行系統は日活であった[11]。同館の興行系統、同館の経営についても、以降、1930年(昭和5年)発行の『日本映画事業総覧 昭和五年版』まで、前者は日活であり、後者は杉本勇吉の個人経営であり支配人も兼務した旨の記述が掲載され続けた[11][12][13][14]。観客定員数についての記録は、1940年代になるまで見られない[11][12][13][14]。
1940年(昭和15年)前後、東宝映画の封切館となり高田東宝映画劇場と改称している[8][21][22]。1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本における全ての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、全ての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない[21]。同書によれば、同館の経営は高田秀嶺であり、高田は支配人を兼務した[21][22]。高田は元活動写真弁士であり、戦後に同館の館主となった熊谷栄美子の義父である。当時の同館の観客定員数は490名であった[21][22]。同市内の映画館は、かつての電気館(のちの高田シネマ)が「松竹館」と改称して存続していたが[21][22]、戦後、高田東宝映画劇場から高田セントラルシネマを経て、高田松竹館と改称した同館とは、「松竹館」を名乗る時期が重なっていない[17]。同市では、大戦の終了まで長く2館体制が続いた[11][12][13][14][21][22]。
戦後
[編集]1960年(昭和35年)の高田市の映画館(5館)[注 2] |
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高田松竹館(本町6丁目) |
高田シネマ(本町2丁目) |
高田中央劇場(仲町3丁目) |
高田東映劇場(仲町2丁目) |
高田文化劇場(大町2丁目) |
戦後は比較的早い時期に復興し、1947年(昭和22年)前後には高田セントラルシネマと改称、セントラル映画社(CMPE, セントラル・モーション・ピクチュア・エキスチェンジとも)の配給する映画を上映する、アメリカ映画専門館になった[16][23]。セントラル映画社は1951年(昭和26年)12月27日には解体されており[29]、その後は、アメリカ映画とともに松竹の作品を上映する映画館に変わり、高田松竹館と改称した[17]。当時の同館の経営は、熊谷兼市の個人経営であり支配人も熊谷が兼務しており、観客定員数は398名であった[17]。1962年(昭和37年)には高田映画劇場と改称している[18][19]。
1971年(昭和46年)4月29日、高田市は、直江津市と合併して上越市になった。1975年(昭和50年)に高田日活と改称している[6]。当時の同館の経営は熊谷興業、同社の代表は熊谷典之、熊谷は同館の支配人も兼ねており、興行系統は日活その他、同館の観客定員数は370名であった[20]。当時の日活は既に日活ロマンポルノの時代に突入しており[30]、同館は成人映画館に業態を変更している[7][20][25]。2014年から支配人を務める上野迪音(みちなり)は、子供は近づいてはいけないような場所になったが、成人映画館として固定的な需要があったことで取り壊しなどを免れることにつながったのではないかと語っている[31]。
「高田日活」は常設映画館としての同館の最後の名称であり、同館の現在の公式ウェブサイトには途中「高田劇場」あるいは「テアトル高田」であった旨の記述があるが[8]、同時代の『映画年鑑』等の資料には見当たらない[17][18][19][20][25]。1987年(昭和62年)1月24日、1917年以来70年間、同館のライバル館であった高田シネマ(経営・高田興業)は、同一経営の高田ムービータイムとともに閉館している[32]。1966年(昭和41年) - 1989年(平成元年)の時期に改修を行っている[1]。
館名 | 所在地 | 備考 |
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高田世界館 | 本町6丁目4-21 | 旧「高田日活」 |
直江津第一劇場 | 中央3丁目1-6 | 1951年開業[34] 2013年閉鎖・解体[35] |
JMAX THEATER | 富岡3524 | 金子興業運営・8スクリーン |
2009年(平成21年)3月31日、熊谷栄美子が代表を務める熊谷興業が経営する同館は、閉館、廃業した[6]。新潟県中越沖地震があった2007年(平成19年)に廃業・取壊しの危機が起きたときから、同館を支援していた岸田國昭を中心に結成された街なか映画館再生委員会が、閉館の年の6月24日、特定非営利活動法人認定を受け、同館の経営を行うようになった[4][24]。これを機に高田世界館と改称している[4]。同年には経済産業省の近代化産業遺産に認定され、2011年(平成23年)1月26日には国の登録有形文化財に登録されている[1][3]。
以後、保存の為市民から寄付や作業スタッフを募り、定期的に修繕工事が行われている。主に2009年(平成21年度)観客席、2011年(平成23年度)は屋根の瓦、2014年(平成26年)正面の外壁修繕、2015年(平成27年)はトイレ、2016年(平成28年度)は外壁の耐震工事が行われている。
先の近代化産業遺産に取り上げられた以降は、メディアの露出も徐々に増えてきている。テレビの取材はもちろん、映画のロケーション撮影にも使用されている。
2016年(平成28年)時点、毎週火曜日の休館日(祝日などは開館する場合がある)を除き上映活動を続けている[8]。また、演劇や落語の寄席、学校行事等のイベント会場としても頻繁に用いられている。
常駐スタッフは1人だがテレビで取り上げられてからはボランティアで運営に関わる人間がいる。古風な建物故見学者も多く、昨今では館内の見学ツアーが不定期に組まれている。
ギャラリー
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入口
-
館内
-
フィルム映写機
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 奈良県大和高田市の高田キネマとは異なる。
- ^ 1960年の映画館(北陸・甲信越地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[28]。
- ^ 2010年の映画館(北陸・甲信越地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[33]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “登録有形文化財(建造物)高田世界館”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2015年9月20日閲覧。
- ^ “高田世界館”. 2015年9月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 花と雪の城下町高田 上越市(2014年3月3日閲覧)
- ^ a b c “思いの少ない素人のほうがいい - NPO法人街なか映画館再生委員会委員長岸田國昭さん”. 新潟県NPO・地域づくり支援センター (2010年4月23日). 2016年10月23日閲覧。
- ^ a b c d 高田[1914], p.543.
- ^ a b c d e f g h i j k 河西[2010], p.109.
- ^ a b c d e f g h i 歴史的な建物と景観を活かしたまちづくり 上越市(2014年3月3日閲覧)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 歴史 街なか映画館再生委員会(2014年3月3日閲覧)
- ^ a b c d アクセス 街なか映画館再生委員会(2014年3月3日閲覧)
- ^ a b c d e 新潟[1969], p.4.
- ^ a b c d e f g h i 年鑑[1925], p.470.
- ^ a b c d e f g 総覧[1927], p.668.
- ^ a b c d e f g 総覧[1929], p.277.
- ^ a b c d e f g 総覧[1930], p.573.
- ^ a b 昭和7年の映画館 新潟縣 42館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)2014年3月3日閲覧
- ^ a b c d e 年鑑[1951], p.365.
- ^ a b c d e f g h i j k 総覧[1955], p.51.
- ^ a b c d e 便覧[1962], p.74.
- ^ a b c d e 便覧[1963], p.72.
- ^ a b c d e f g h i 便覧[1975], p.71.
- ^ a b c d e f g h i j k 年鑑[1942], p.10-54.
- ^ a b c d e f g h i 年鑑[1943], p.464.
- ^ a b c d 年鑑[1950], p.143.
- ^ a b 街なか映画館再生委員会 NPO法人データベース(2014年3月3日閲覧)
- ^ a b c d e f 便覧[2001], p.74.
- ^ 河西[2010], p.22.
- ^ 高田[1958], p.330.
- ^ 『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年。
- ^ 年鑑[1953], p.127.
- ^ 生きつづけるロマンポルノ 日活(2014年3月3日閲覧)
- ^ [建モノがたり]高田世界館(新潟県上越市)創業112年不遇の時代が幸い『朝日新聞』夕刊2023年7月4日2面(2023年7月11日閲覧)
- ^ “直江津にレンタルのゲオ 9月下旬OPEN”. 上越タウンジャーナル. (2012年9月6日) 2016年10月23日閲覧。
- ^ 日本映画製作者連盟配給部会『映画年鑑 2010年版別冊 映画館名簿』時事映画通信社、2009年
- ^ 第16回 上越市公文書センター出前展示会「60年前の戌年 - 昭和33年(1958年)の出来事」 (PDF) 上越市公文書センター、2018年2月14日
- ^ “第一劇場”. 地区連日記. 直江津地区連合青年会 (2013年10月2日). 2018年11月24日閲覧。
参考文献
[編集]- 『高田市史』、新潟県高田市教育会、1914年発行
- 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局、東京朝日新聞発行所、1925年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『映画年鑑 1950』、時事通信社、1950年発行
- 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1953』、時事通信社、1953年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『高田市史 第2巻』、高田市史編集委員会、1958年発行
- 『映画年鑑 1962 別冊 映画便覧』、時事映画社、1962年発行
- 『映画年鑑 1963 別冊 映画便覧』、時事映画社、1963年発行
- 『新潟県百年史 下巻』、新潟県史研究会、野島出版、1969年発行
- 『映画年鑑 1975 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1975年発行
- 『映画年鑑 2001 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、2001年発行
- 『せめぎあう地域と軍隊 - 「末端」「周縁」軍都・高田の模索』、河西英通、岩波書店、2010年2月24日 ISBN 4000283790
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
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高田日活 壁面 2009年撮影 | |
高田日活 正面脇 2009年撮影 |
- 高田世界館 - 公式ウェブサイト
- 高田世界館 (@takadasekaikan) - X(旧Twitter)
- 高田世界館 (takadasekaikan) - Facebook
- 高田世界館 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 高田世界館 - 「港町キネマ通り」(2016年8月取材)
座標: 北緯37度7分2.9秒 東経138度14分41.6秒 / 北緯37.117472度 東経138.244889度