コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

新潟第二師範学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高田師範学校から転送)

新潟第二師範学校 (にいがただいにしはんがっこう) は第二次世界大戦中の1943年昭和18年) に、新潟県に設置された師範学校である。

本項は、前身の新潟県高田師範学校などを含めて記述する。

概要

[編集]
  • 1899年明治32年) に新潟県第二師範学校として創設された。
  • 1901年新潟県高田師範学校と改称されたのち、1943年に官立移管により新潟第二師範学校となった (当初は男子部のみ設置)。
  • 第二次世界大戦後の学制改革で新制新潟大学高田分校1951年から教育学部高田分校) となった。
  • 新潟大学教育学部高田分校は1982年4月で廃止されたが、代わりに上越教育大学が設置され (1978年10月開学、1981年4月授業開始)、附属校は上越教育大学の附属校となった。

沿革

[編集]

新潟県立期

[編集]

新潟県第二師範学校、新潟県高田師範学校

[編集]

1897年公布の師範教育令 (明治30年勅令第346号) により、各府県に複数の師範学校が設置可能となったため[1]、すでに大規模校となった新潟県師範学校を抱えていた新潟県は、男子師範学校の増設・女子師範学校の設置 (女子部の分離独立) を決定した。最終的に、第二師範学校の設置先は高田、女子師範学校は長岡に決定した。

  • 1899年
    • 1月13日: 新潟県第二師範学校設置。
    • 4月8日: 新潟県第二師範学校、開校[2] (男子のみ、本科4年制)。
    • 初代校長: 阿多広介。なお、開校当初は本誓寺に仮校舎を置いていた[2]
    • 第二師範の開校に伴い、新潟市の新潟県師範学校は新潟県第一師範学校と改称した。
    • 同年中に中頸城郡高城村地内 (現・上越市西城町1丁目)に取得した用地(東西150間、南北100間、面積13,351坪)にて校舎建設着工[3]
  • 1901年
    • 4月1日新潟県高田師範学校と改称。附属小学校設立[4]
    • 同年中:仮校舎から一部完成の新校舎に移転[3]
  • 1902年
    • 6月16日:校舎完成に伴う落成式を挙行[3]
    • 同年中: 附属小学校を設置[5]
  • 1907年4月: 師範学校規程公布[3]により本科第一部・本科第二部を設置。
    • 本科第一部: 修業年限4年、入学資格は3年制高等小学校卒業者。
    • 本科第二部: 修業年限1年、入学資格は中学校卒業者。
  • 1925年4月: 本科第一部を5年制に変更 (入学資格を2年制高等小学校卒業者に変更)。
  • 1926年4月: 専攻科を設置 (1年制)。
  • 1931年4月: 本科第二部を2年制に延長。
  • 1934年9月: 新潟県国民精神文化講習所の研究室を校内に設置。
  • 1935年7月11日: 火災で校舎全焼[6]
  • 1938年9月28日: 新校舎落成 (鉄筋コンクリート造)[6]

官立期

[編集]

新潟第二師範学校

[編集]

歴代校長

[編集]
新潟県高田師範学校
  • 阿多広介:1899年2月20日 - 1902年2月13日
  • 武井悌四郎:1902年3月14日 - 1904年12月6日
  • 太田秀穂:1905年1月10日 - 1911年5月5日
  • 小柳三郎:1911年5月5日 - 1913年6月7日死去
  • 中村豊吉:1913年6月20日 - 1917年7月6日
  • 佐々木金久:1917年7月6日 -
新潟第二師範学校
  • 熊谷美登利:1943年4月1日[10] -
  • 井上宮久:不明 - 1945年7月25日[11]
  • 内山良男:1945年7月25日[11] -
  • (事務取扱)岩崎修一:1947年4月23日[12] -

校地の変遷と継承

[編集]

前身の新潟県高田師範学校から引き継いだ高田市西城町 (現・上越市西城町1丁目) の校地を使用した。同校地は後身の新制新潟大学高田分校 (1951年4月から新潟大学教育学部高田分校) に引き継がれた。高田分校は新潟市の五十嵐キャンパスに統合されることになり、1978年上越教育大学が高田分校内で発足した[13]附属高田小学校附属高田中学校1981年から上越教育大学に移管され、高田分校は1982年4月に廃校となった。

現在、上越市西城町の旧校地には上越教育大学附属小学校、隣接の高田城本丸には同附属中学校が存在する。

著名な出身者

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『新潟大学二十五年史 : 総編』(1974年) 29頁-30頁では、第二師範学校が設置された理由として、師範教育令に伴って公布された定員令 (明治30年勅令第347号のことか?) で1校の生徒数上限が400人と定められたため、と説明されているが、少なくとも勅令第347号には定員上限は定められていない。参照:国立公文書館 → デジタルアーカイブシステムで 「師範学校生徒定員・御署名原本・明治三十年・勅令第三百四十七号」を検索
  2. ^ a b 『上越市史 通史編5 近代』(2002年3月31日、上越市発行)年表16頁より。
  3. ^ a b c d 『上越市史 通史編5 近代』(2002年3月31日、上越市発行)311頁より。
  4. ^ 『上越市史 通史編5 近代』(2002年3月31日、上越市発行)年表17頁より。
  5. ^ 『新潟大学二十五年史 : 総編』(1974年) 35頁
  6. ^ a b 『目で見る 上越・糸魚川の100年』(1992年10月29日、郷土出版社発行)154頁。
  7. ^ 『上越市史 通史編5 近代』(2002年3月31日、上越市発行)年表26頁より。
  8. ^ a b 『上越市史 通史編6 現代』(2002年3月31日、上越市発行)年表10頁より。
  9. ^ 『上越市史 通史編6 現代』(2002年3月31日、上越市発行)114頁。
  10. ^ 『官報』第4865号、昭和18年4月2日。
  11. ^ a b 『官報』第5565号、昭和20年8月1日。
  12. ^ 『官報』第6092号、昭和22年5月9日。
  13. ^ 上越教育大学沿革。2012年12月20日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 新潟大学二十五年史編集委員会(編) 『新潟大学二十五年史 : 総編』 新潟大学二十五年史刊行委員会、1974年、20頁-37頁。
  • 官報

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]