高金蔵
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高 金蔵(こう きんぞう、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人・陰陽家。初めは僧侶で法名は信成。官位は従五位下・陰陽師。
経歴
[編集]高句麗からの渡来人で[1]、初めは法名を信成(しんじょう)と称する僧侶であった。文武朝の大宝元年(701年)勅を受けて、恵耀・東楼とともに還俗して本姓に復し、高金蔵と名乗った。
なお、持統朝から元明朝にかけて、僧尼令の規定に反する僧尼身分の剥奪とは異なる、上記のような還俗の記事が散見されることに関して、以下理由によりこれらの還俗が遣唐使の代替として、朝鮮半島とりわけ新羅を通じて大陸文化を摂取し、律令制の学芸部門の充実にあてられたのではないか、という推論がある(関晃[2])。
- 『書紀』『続紀』に見られる該当する人物が渡来系氏族の出身者である。
- その後、彼らが律令政府の学芸部門で主要な地位を占めており、当時の文化担当者層である。
- 遣唐使が派遣されなかった時期にこれらの措置が取られており、中には新羅に学問僧として派遣された者が含まれている。
その後時期は不明ながら、官人考試帳に陰陽博士・觮兄麻呂(以前同時に還俗した恵耀)や天文博士・王中文(以前同時に還俗した東楼)らとともに、陰陽師として占卜効験多者最により「中上」の評価されている記録がある(この時の官位は正七位下行陰陽師。年齢は58歳)。元正朝の養老7年(723年)従五位下に叙爵している。
官歴
[編集]『続日本紀』による。