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高麗神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高麗(こま)神社

神門
地図
所在地 〒340-1243
埼玉県日高市大字新堀833番地
位置 北緯35度53分54.9秒 東経139度19分22.1秒 / 北緯35.898583度 東経139.322806度 / 35.898583; 139.322806 (高麗神社)座標: 北緯35度53分54.9秒 東経139度19分22.1秒 / 北緯35.898583度 東経139.322806度 / 35.898583; 139.322806 (高麗神社)
主祭神 高麗王若光(こまのこにきしじゃっこう)[1](主祭神)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
社格県社
別名 出世明神
例祭 10月19日
地図
高麗(こま)神社の位置(埼玉県内)
高麗(こま)神社
高麗(こま)神社
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拝殿

高麗神社 (こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社旧社格県社

概要

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現在の埼玉県日高市の一部及び飯能市の一部にあたる高麗郡があるが、高麗郡及び上総郷は奈良時代に設置された土地である。高麗郡は716年(霊亀2年)に武蔵国高麗郡が設置された土地であり、朝鮮半島のゆかりの地である。中世武家時代の鎌倉時代以降、高麗郡の郡域が拡大して、日高市鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市川越市入間市狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった。668年新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた。703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されている(新編『埼玉県史』)。

高麗神社は、この高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。天正18年に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592年)に徳川家から社領として高麗郷内に3石を寄進された[2]。また、高麗大宮大明神大宮大明神白髭大明神と称されていた社号[3]は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある。

入口付近の敷地には、2005年(平成4年)10月23日に在日本大韓民国民団(民団)から寄贈された花崗岩製の将軍標がある。これは、1992年に設置された木製のものが破損し腐食したことから再寄贈されたものである。また、駐日大韓民国大使らの参拝もある。

この神社に参拝した政治家の6人が首相になったため、「出世神社」とも呼称される[4]

行幸啓

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2017年9月20日から9月21日にかけて、当時の天皇皇后が、在位中8度目の私的旅行として日高市深谷市渋沢栄一記念館行幸啓し、その際に高麗神社に親拝した[5]天皇の親拝は創建以来初めてで、韓国でも大々的に報じられた[6]。ほかに高麗家住宅巾着田を視察した[7][8]

交通

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参考文献

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  • 埼玉県立歴史と民俗の博物館 編『高麗郡 (Komagun) 一三〇〇年 : 物と語り : 渡来人の軌跡をたどる : 特別展』埼玉県立歴史と民俗の博物館、2016年。 NCID BB22011464 

出典

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  1. ^ 阪堂博之『新版 韓国 朝鮮を知る事典』平凡社、2014年、183頁。ISBN 9784582126471 
  2. ^ 埼玉県立歴史と民俗の博物館 2016, p. 38
  3. ^ 『新編武蔵風土記稿 巻之184 高麗郡之9』内務省地理局、1884年
  4. ^ 武士道の起源”. 日刊スポーツ (2021年2月9日). 2023年6月27日閲覧。
  5. ^ 天皇皇后両陛下 「高麗神社」参拝で伝えた平和への願い”. NEWポストセブン. 2023年5月17日閲覧。
  6. ^ 明仁天皇、高句麗人を祀った「高麗神社」参拝」『中央日報』2017年9月21日。2023年5月17日閲覧。
  7. ^ 両陛下、私的旅行で埼玉・高麗神社を参拝 - 読売新聞 2017年09月20日 15時34分
  8. ^ 両陛下が埼玉へ私的旅行 日高の高麗神社、見頃のヒガンバナを見て回られる 大勢の市民ら歓迎 - 埼玉新聞 2017年09月20日

付近の見所

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高麗家住宅

関連項目

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外部リンク

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