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鬼ヶ谷才治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鬼ヶ谷 才治
右からの1人目の前頭の時の鬼ヶ谷
1896年頃、大砲万右エ門(左から3人目)の横綱土俵入りでの鬼ヶ谷(一番右)
基礎情報
四股名 鬼ヶ谷 雪藏→鬼ヶ谷 才治
本名 鈴木 才治
生年月日 1855年4月19日
没年月日 (1931-02-02) 1931年2月2日(75歳没)
出身 伊予国宇摩郡
(現:愛媛県四国中央市
身長 163cm
体重 80kg
BMI 30.11
所属部屋 時津風部屋(大坂相撲)
雷部屋(東京相撲)
得意技 突っ張り、引き、捻り
成績
現在の番付 引退
最高位 小結
幕内戦歴 105勝119敗28分12預146休
データ
初土俵 1886年1月場所
入幕 1887年1月場所
引退 1907年1月場所
備考
2015年8月29日現在

鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日安政2年3月3日) - 1931年昭和6年)2月2日)は、 伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)出身の元大相撲力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。

経歴

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1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた[1]。その後は平幕を長く務め、1904年1月場所では6勝2預2休の好成績を挙げ、優勝同点に相当する成績[2]を残した。

1907年1月場所を最後に現役を引退したが、この時既に51歳となっており、新入幕から20年もの長きに渡って幕内の座を守り続けたことから、その功労と驚異的な持久力を称えて協会から特別表彰を受け、銀杯を授与された。引退直後の同年5月場所千秋楽には相撲記者団体「振角会」からの表彰も受けた。

引退後は年寄・田子ノ浦を襲名し、初代・2代両方の梅ヶ谷の良き相談役を務めるなど、様々な面で雷部屋を支えた。1931年2月2日に死去、75歳没。

人物

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鋭い出足を生かした突っ張りが得意で、時に引き落とし蹴手繰りも見せたほか、例え組んだとしても投げ、捻りが強かった。

梅ヶ谷藤太郎(2代)が雷部屋に入門して以降、英才教育を受けさせたのは鬼ヶ谷だった。徹底的に相撲の基本を指導し、幕下昇進後は早くも師匠と共に横綱土俵入りの指導まで行ない、1903年5月場所後に横綱昇進が決定すると、鬼ヶ谷は土俵入りで露払いを務めた。

「鬼ヶ谷」という四股名ゆえ、彼の世話になった者は節分などでは「鬼は外」とは言えなかったそうである(梅ヶ谷藤太郎 (2代)の項を参照)。

主な成績 

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  • 幕内在位:41場所
  • 幕内通算成績:105勝119敗28分12預146休 勝率.469

四股名

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  • 鬼ヶ谷雪藏(1886年1月 - 1888年1月)
  • 鬼ヶ谷才治(1888年5月 - 1907年1月)[3]

脚注 

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  1. ^ 横浜新報著作部 編『当世力士銘々伝』鬼ヶ谷才治,横浜新報社,明36.2. 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ この場所で優勝相当成績を挙げたのは常陸山谷右エ門(7勝1敗2休)、梅ヶ谷藤太郎_(2代)(7勝1敗1預1休)の両横綱で、いずれも1敗している。
  3. ^ 鬼ヶ谷才治[1]

関連項目

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