鳥居坂の戦い
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鳥居峠の戦い(とりいとうげのたたかい)とは織田信長軍と武田勝頼軍の戦いである。
天正10年(1582年)2月2日、武田勝頼・信勝親子、武田信豊は木曽福島城の木曽義昌の裏切りを知って、1万5千の兵をもって甲斐新府城から出陣し、上原城に入城した。
2月3日、織田軍が侵攻を開めた。2月16日、武田軍は、今福昌和が藪原から鳥居峠へと兵を進めた。織田軍は、木曽義昌や遠山友忠父子が加わり、奈良井から鳥居峠へと進軍。
両軍は鳥居峠で激突したが、織田軍の勝利となり、跡部治部丞、有賀備後守、笠井某、笠原某ほか、40余りの武将首を取った。
木曽口からの援軍は、織田長益、織田孫十郎、稲葉貞通、梶原景久、塚本小大膳、水野藤次郎、簗田彦四郎、丹羽氏次で、以後木曽義昌と鳥居峠を占拠した。
参考文献
・信長公記