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鳥谷部春汀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鳥谷部 春汀(とやべ しゅんてい、元治2年3月3日1865年3月29日) - 明治41年(1908年12月21日)は、明治時代の日本のジャーナリスト。本名は銑太郎、春汀と号する。

略伝

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南部藩士・木村忠治の子として、陸奥国三戸郡五戸村(現青森県三戸郡五戸町)に生まれる。幼時より母方の鳥谷部氏を嗣ぐ。

明治24年(1891年)に東京専門学校(現早稲田大学)を卒業し、翌年には島田三郎の知遇を得て、毎日新聞社に入社し社説を担当する。明治27年(1894年)に退社し、明治28年(1895年)に近衛篤麿から雑誌『精神』(後に『明治評論』)を託され、人物評を連載し始める。明治30年(1897年)から雑誌『太陽』の記者となり、人物評を連載する。明治33年(1900年)に報知新聞社に移るがそこでも人物評を続ける。明治41年(1908年)、享年44で没する。東京本郷駒込の吉祥寺に葬る。

森銑三は、春汀のことを「明治の硬派の文人の中でも最も敬意の表せられる人」と書いている[1]

参考文献

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  • 木村毅・編『明治人物論集』(『明治文学全集』に収録)

著書

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  • 『春汀全集』全3巻(1909年、博文館)
  • 『春汀文集』(1908年、隆文館)NDLJP:1081891
  • 『内地雑居改正条約案内』(1899年)

脚注

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  1. ^ 森銑三『落葉籠』中公文庫、2009年、下・80p頁。 

外部リンク

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