鴻池幸富
表示
鴻池 幸富(こうのいけ ゆきとみ、天保12年8月1日(1841年9月15日) - 大正9年(1920年)6月16日)は、江戸時代後期から明治・大正まで活躍した実業家。10代目鴻池善右衛門であり、近代鴻池財閥の初代総帥。善九郎、喜右衛門、丑之助、山中幸冨とも称した。
生涯
[編集]1841年、鴻池家の別家である山中家に、山中又七の長男として生まれたが、後に宗家の養子となった。嘉永4年(1851年)6月、家督を継いで10代目の善右衛門の名を襲名する。この頃、篠崎小竹の弟子となって勉学を学んだ。豪商であったため、幕府から海防費の名目で御用金供出を命じられ、浪士組の芹沢鴨から500両の軍用金を供出するように脅迫されるなど、幕末期は苦難を極めた。
慶応4年(1868年)2月、明治政府によって会計事務裁判所御用掛に任じられる。その後、通商司為替会社頭取などを務めた。明治6年(1873年)には大阪に国立銀行を設立すべく計画された「第三国立銀行」の発起人の一人となるが、ほかの発起人との意見が合わず、実現しなかった(1876年に東京で設立された第三国立銀行とは別銀行)。明治10年(1877年)、第十三国立銀行(現、三菱UFJ銀行)を創設するなど、日本における金融界、貿易界の創設・発展に尽力した。
明治17年(1884年)に健康面の理由から家督を子の善次郎(幸方、11代善右衛門)に譲り、喜右衛門に改名[1]。事業としての鴻池財閥の総帥の座は、別家を嗣いだ次男鴻池新十郎が継承している。
明治44年(1911年)8月、10代善右衛門幸富による産業振興の功績により、11代善右衛門幸方は男爵 に叙爵された。大正9年(1920年)、80歳で死去。
親族
[編集]- 娘 あゐ(1862年生) - 大阪の金物商・資産家の和田久左衛門 (1855年生)の妻。養子で次代の和田久左衛門 (1890年生)は三井高堅の弟。その妻・久子は大谷光瑩の娘。
- 息子 善次郎(1865年生) - 11代鴻池善右衛門(幸方)。妻のミチは三井高保の長女。
- 娘 大村内(ダイ、1870年生)- 10代大村彦太郎の妻[2]。
脚注
[編集]- ^ 10代目鴻池善右衛門幸富について知りたい。レファレンス協同データベース、2021年03月31日
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、585頁。
参考文献
[編集]- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 73-76頁
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。