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鷲羽丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鷲羽丸(わしゅうまる)は、日本国有鉄道(国鉄)鉄道連絡船宇高連絡船船舶である。

紫雲丸型の船舶で、同型船には紫雲丸眉山丸がある。宇高航路においては、初の車載客船でもあった。

船名の「鷲羽」は岡山県鷲羽山に由来する。

船歴

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太平洋戦争後、宇高連絡船は輸送量が増加し、従来の船舶では需要の増大に対応できなくなったことから、大型船の導入が計画され、1946年(昭和21年)から3隻の大型船の建造が進められた。

播磨造船所で建造[1]。1947年3月11日起工[2]。1948年2月28日進水[2]。同年5月29日竣工[2]1948年(昭和23年)6月25日就航[3]。紫雲丸型では3番目の就航であった。

1950年3月13日、昭和天皇の四国巡幸(昭和天皇の戦後巡幸)に際し「鷲羽丸」がお召し船となり、四国へ向かう天皇を乗せた[4][5]

この直後の同年3月25日0時53分、直島荒神島間の直島水道にて、鷲羽丸(下り貨物1021便)と紫雲丸(上り貨物1020便)が衝突。鷲羽丸の船首が紫雲丸の船尾車両甲板下の3等客室前部右舷に突き刺る。紫雲丸は横倒しになり、1時4分に沈没。死者7名。

1952年9月23日、高松鉄道桟橋沖で「福浦丸」と接触[6]。1953年1月18日、高松港赤灯台台下に乗り上げた[6]

1954年4月29日、「鷲羽丸」は「第一チュンシン丸」[7]と衝突した[8]。「鷲羽丸」は、その日の2時20分に高松港を出港して宇野港へ向かっていた[9]。西航する「第一チュンシン丸」を認め500メートルまで接近したところで船長は右転を命じた[10]。一方の「第一チュンシン丸」船長は当初、北航する「鷲羽丸」の前方を横切れると思っていたが、その後無理と判断して左転を命令[10]。両者は接近し、双方で機関停止などが命じられるも衝突した[10]。「鷲羽丸」に被害はなかったが、「第一チュンシン丸」は浸水して水船となり、高松港へ曳航された[10]

1956年8月13日、高松港口白灯台台下で漁船と接触[11]

1967年10月24日、休航[12]。1968年1月20日、高松港西防波堤に係船[12]。同年7月15日に甘糟産業汽船に2230万円で売却された[12]

要目

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  • 総トン数:就航時1456.2t 終航時1514.2t
  • 全長:76.2m
  • 全幅:13.2m
  • 定員:就航時1500名(1等室20名、2等室167名、3等室1313名)終航時1690名(2等室255名、3等室1419名)
  • 貨車:ワム型15t積貨車 14両
  • 航海速力:14.5kt

脚注

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  1. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』337ページ
  2. ^ a b c 『播磨造船所50年史』467ページ
  3. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』282ページ
  4. ^ 『宇高航路50年史』16ページ
  5. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、102頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  6. ^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』285ページ
  7. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』286ページでは「天信号」(24トン)
  8. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』187-188ページ
  9. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』187ページ
  10. ^ a b c d 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』188ページ
  11. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』288ページ
  12. ^ a b c 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』292ページ

参考文献

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  • 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
  • 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年
  • 播磨造船所50年史編纂室(編)『播磨造船所50年史』播磨造船所、1960年