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鹿児島大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
空襲によって焼け野原となった鹿児島市街

鹿児島大空襲(かごしまだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍によって行われた、鹿児島県鹿児島市と周辺に対して行われた都市無差別爆撃総称。鹿児島市に対する空襲は1945年(昭和20年)の3月から8月にかけて8回行われており、合計で死者3,329人、負傷者4,633人の被害を出した[1]

鹿児島市に対する空襲の中では同年6月17日に行われた空襲は鹿児島市内一円に対して行われ死者2,316人、負傷者3,500人となり、最大の被害を与えた[1]

概要

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鹿児島県は本土最南端に位置しているうえ、知覧、万世、串良などの特攻基地を設けられていたため、地方都市の中でも鹿児島市は特に空襲が激しかった。

6月17日、120機のB-29マリアナ諸島から発進し、午後11時、鹿児島市上空に飛来。6月17日の空襲で死者2316人、負傷者3500人、市街地の44.1パーセントが損壊し、最終的な死者は3300人、市街地の93パーセントが焼失した[1]

1971年、みなと大通り公園に民間人犠牲者の慰霊碑「人間之碑」が立てられた。毎年6月17日に献花式が行われる[2]

空襲の略表

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アメリカ軍により終戦直後に作成された鹿児島市の地図

被害

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建造物

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鹿児島県庁舎
鹿児島市公会堂

鹿児島大空襲で被害を受けた建造物は、全焼20,497件、半焼169件、全壊655件、半壊640件となっている[6]。被害を受けた主な施設を以下に示す。

公共施設
日本軍関係施設
鉄道施設
商業施設
教育施設
  • 中学校 - 13校
  • 小学校 - 11校

脚注

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  1. ^ a b c 一般戦災死没者の追悼|鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県) - 総務省、2015年7月25日閲覧。
  2. ^ 太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑「人間之碑」への献花 - 総務省、2015年7月25日閲覧。
  3. ^ 鹿児島市史第2巻 p.776
  4. ^ 鹿児島市史第2巻 pp.776-777
  5. ^ a b c d e f g 鹿児島市史第2巻 p.777
  6. ^ 鹿児島市史第2巻 p.779
  7. ^ 南日本新聞』 2012年2月21日付 17面(373ワイドタウン)
  8. ^ 鹿児島市史第2巻 p.633

参考文献

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  • 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史Ⅱ』鹿児島市、1970年。 

関連項目

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