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糜芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
麋芳から転送)
姓名 糜芳
時代 後漢時代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 子方(字)
本貫・出身地等 徐州東海郡朐県
職官 中郎将彭城国相〔曹操〕
武陵太守?〔劉備〕
将軍南郡太守〔劉備〕
→将軍〔孫権〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 劉備孫権
家族・一族 兄・糜竺 姉妹・糜夫人

糜 芳(び ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の将軍、政治家。子方徐州東海郡朐県(江蘇省連雲港市)の人。兄は糜竺。妹は糜夫人劉備の夫人)。本来の(または靡)と読まれるという。劉備に仕えた後、に仕えた。

オーストラリア国立大学の中国歴史学者のレイフ・ド・クレスピニー英語版は、糜芳が劉備・曹操孫権という三国の指導者に仕えた珍しい経歴の主であると指摘している。

生涯

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兄の糜竺と共に劉備に仕えた。劉備が曹操を頼った時、糜芳は曹操から彭城国相に任じられたが、劉備が曹操から離反するとまたそれに付き従い、官位を去った[1]

劉備が益州に入った後、関羽荊州総督となった。糜芳は南郡太守に任じられ、公安を守る士仁(演義では「傅士仁」)と共に荊州の防衛を任された。しかし関羽が彼らを軽んじていたこともあり、かねてから折り合いが悪かった。219年、関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行なうだけで、全力で支援しようとしなかった。また、南郡城内で火事が発生し、軍器を多数焼失したことがあった。これらの不始末を聞いた関羽は「戻ったら罰してくれる」と、糜芳を激しく咎めた。これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、内心不安になったという。このことを聞いた孫権が糜芳に誘いをかけると、糜芳は孫権と内通するようになった。糜芳は使者をだして孫権の兵を迎え入れた(上記は『三国志』「蜀書」関羽伝)[2]。糜芳は城を守っていたが、先に降伏した士仁が呂蒙と一緒にいるのを見ると、降伏したとの記録もある。また韋昭呉書でのみ、城を守ろうとする麋芳を呂蒙が説得して降伏させたとあり(上記は『三国志』呉志「呂蒙伝」が引く『呉書』と陳寿が編纂する前に韋昭が記した『呉書』)[3]。降伏、内通の経緯ついては諸説あり、『三国志』関羽伝、呂蒙伝、虞翻伝はそれぞれ内通、降伏に関する記述が若干異なる[4][5][6]

これ以後、糜芳は孫権の将軍となり、呉に仕えることになった。「呉書」賀斉伝によると、223年に孫権の命で賀斉配下の武将となり、呉からに寝返って反乱を起こした晋宗を討伐したという記述がある[7]

『三国志』に引用された『季漢輔臣賛』によると糜芳らは蜀呉二カ国で裏切り者として笑いものになったという。 「呉書」虞翻伝によると、糜芳は呉に仕えるようになってから、虞翻と船ですれ違ったことがあった。糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「(旧主の劉備に対して)忠信(節義)を守れなかった者が、何によって主君に仕えるというのか。二城(南郡・公安)を任されながらそれを失った者が、将軍を名乗ってよいと思っておるのか」と罵倒した。糜芳は姿を見せず返答もしなかったが、急いで虞翻の船を避けさせた。また、ある時に虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないということがあった。虞翻はまた腹を立て「(城門を)閉めるべき時に開けて降伏をしながら、開けておくべき時に門を閉ざしている。物事の道理をわかっておるのか」と再び罵倒した。糜芳はこれに恥じ入り、門を開けさせた[8][9]

三国志演義

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小説『三国志演義』でも、兄と共に劉備配下として活躍する一方、長坂の戦いでは劉備の家族を取り戻そうと敵中に入った趙雲の行為を、裏切りと早合点し劉備に讒言している。劉備が呉討伐を開始した時、自分と傅士仁を殺してに戻ろうとする荊州出身の兵士を恐れ、劉備の親戚であるから処刑されないと考え、傅士仁と共に馬忠を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻る。しかし、関羽を裏切ったことへの劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に斬り殺されている。吉川英治の小説『三国志』では、関羽の子関興に引き渡され、父の仇として斬り殺される。

注釈

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  1. ^ 『三国志』蜀志糜竺伝 竺弟芳為彭城相,皆去官,隨先主周旋。
  2. ^ 『三国志』蜀志関羽伝
  3. ^ 『三国志』呉志呂蒙伝
  4. ^ 『三国志』呉志呂蒙伝 先遣蒙在前。蒙至尋陽,盡伏其精兵舳艫中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行,至羽所置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知。遂到南郡,士仁、糜芳皆降。 [一]呉録曰:初,南郡城中失火,頗焚燒軍器。羽以責芳,芳内畏懼,權聞而誘之,芳潛相和。及蒙攻之,乃以牛酒出降。
  5. ^ 『三国志』呉志虞翻伝 呂蒙圖取關羽,稱疾還建業,以翻兼知醫術,請以自隨,亦欲因此令翻得釋也。後蒙舉軍西上,南郡太守糜芳開城出降。
  6. ^ 『三国志』呉志呂蒙伝においては、注を含めると見解は統一していない。『三国志』呉志呂蒙伝では「士仁、糜芳皆降」(士仁・糜芳はいずれも投降した)と記されている。また『三国志』呉志呂蒙伝が引く『呉録』には、南郡の失火で軍器を焼失し、関羽から責任を問われたため、糜芳はそれに畏怖した。孫権がこれを聞いて誘うと、糜芳は通じた。呂蒙が攻めると、牛や酒を差し出して降伏した。『三国志』呉志呂蒙伝が引く『呉書』では、糜芳は城を守ったが、呂蒙が士仁の姿を彼に見せると、ついに降服した。韋昭呉書でのみ、城を守ろうとする麋芳を呂蒙が説得して降伏させたと、それぞれ記されている。
  7. ^ 『三国志』呉志賀斉伝 初,晉宗為戲口將,以眾叛如魏,還為蘄春太守,圖襲安樂,取其保質。權以為恥忿,因軍初罷,六月盛夏、出其不意,詔齊督糜芳、鮮于丹等襲蘄春,遂生虜宗。後四年卒,子達及弟景皆有令名,為佳將。
  8. ^ 『三国志』呉志虞翻伝
  9. ^ このことについては虞翻の項も参照のこと。虞翻は呂蒙とともに糜芳を降伏させた張本人である。『三国志』呉志虞翻伝 翻數犯顏諫爭,權不能悦。又性不協俗,多見謗毀,坐徙丹楊涇縣。 『三国志』呉志諸葛瑾伝 虞翻以狂直流徙。

参考資料

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  • 『三国志』
  • 『三国志演義』