趙雲

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趙雲
蜀漢
中護軍・鎮軍将軍・永昌亭侯
出生 生年不詳
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年)11月
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
主君 公孫瓚劉備劉禅
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趙雲(長坂の戦い)

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、生年不詳 - 建興7年(229年)11月)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍(しりゅう・しりょう)[1]冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯。子は趙統趙広

生涯[編集]

公孫瓚の配下にいた頃、青州袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、2人は危機を免れることができたが、劉備の娘2人は曹純に捕らえられた(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 1]

建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 2]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された[注釈 3]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。諸葛亮は、箕谷では不戒の失があったとし、趙雲を含めた自身の人選が杜撰であったと上奏している(蜀志「諸葛亮伝」)。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

建興7年(229年旧暦11月、没した。子の趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。

陳寿は、黄忠と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰夏侯嬰に比している[注釈 4]

季漢輔臣賛』では「重厚な性質」とされ、陳到と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている[2]。趙雲別伝も含めた事跡から推測すると、牙門将軍に昇進する長坂の戦い以前は、かつて劉備のボディーガードだった関羽や張飛のように、近衛隊長・親衛隊長に近い存在で、その後は前線担当や地方駐屯の将軍に転じている。陳到も同様の職にあったため、並べて評価されたと考えられる。

趙雲別伝[編集]

正定県趙雲故里にある趙雲像
公孫瓚の下で活躍する趙雲

正史『三国志』(蜀書)趙雲伝に裴松之が引用した『趙雲別伝』には、趙雲について以下の記述がある。

公孫瓚配下時代[編集]

趙雲は身長八尺(約184cm)、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州の公孫瓚の配下となった。

当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲をからかって「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか」と言った。趙雲は「いま、天下は乱れ、いまだ誰が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したのではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した。

この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。劉備はつねに趙雲に接し受け入れたので、趙雲は自然と深く結び、託することができた。

その後、趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、[注釈 5]趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた。

劉備との再会[編集]

建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに目通りし、劉備は趙雲の来付けを喜び、同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して募兵させて、密かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた。

劉備配下時代[編集]

建安8年(203年)、博望坡の戦いで、敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が同郷の旧友であることから劉備に助命嘆願すると共に、法律に明るい人物として推挙した。その結果、夏侯蘭は軍正として登用されたが、趙雲は以降、夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近することはなかった。

建安13年(208年長坂の戦いにおいて、劉備が敗れると、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と言った。ほどなく、趙雲が到着した。

建安13年(208年)荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。また、天下にも女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。趙範はやはり逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった。その後、劉備は趙雲を留営司馬に任じて奥向きのことを取り締まらせた。

建安17年(212年)、劉備が入蜀したと聞くと、孫権は劉備の正妻となっていた孫夫人を呉に帰らせたが、孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。諸葛亮は趙雲に命じ、張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、趙雲は「益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば、自然と心服するでしょう」と反対したので、劉備はそれに従ったという。

漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じたため、劉備から「子龍は一身これすべて胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。

章武元年(221年)、を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した。

建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が自ら殿軍を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却したため、諸葛亮は恩賞として趙雲軍の将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残しておき、冬の備えとされますようお頼みします」と進言した。

死後[編集]

順平侯の諡を追贈することを劉禅に上奏した姜維は、「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者をと称し、仕事をするのに秩序があるのをと称し、災禍・動乱を平定するのをと称します。趙雲殿に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」とある。

趙雲別伝の信憑性と見解[編集]

『別伝』とは、後漢時代から東晋時代に至る人物について書かれた書物で、多くが著者不明のため、信憑性を疑う声がある。

趙雲は正史での記述が簡素なのに対し、『趙雲別伝』は記述が多いため、特に信憑性を疑う声がネットでは多くみられる。しかし引用した作品を厳しく批判したり、矛盾を指摘することがある裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また、正史と大きく矛盾する点なども見られないため、研究者の著作物でも『趙雲別伝』を正史として多くがそのまま取り扱っている。

採用者および見解[編集]

  • 司馬光: 『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。
  • 渡邉義浩: 『侠の歴史・東洋編(上)』「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」[3]
  • 矢野主税[4]: 『別伝の研究』「(略)、蜀志趙雲伝心注にひく雲別伝に、「雲別伝載後主詔臼。云々。」とあって、蜀の後主が雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られるのであって、これら(『荀彧別伝』)は共に、一般史書の欠を補う貴重な史料といわねばなるまい。(中略)別伝は当時、世上に流布していた人物評を基として書かれたという性格(勿論その編纂にあたっては種々の資料をその一家に求めたかも知れないが)によって、それら別伝はある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきものであったからではあるまいか。換言すれば、別伝とは門閥社会の、その人物に対する評価であったと考えられるのである」[5]

否定派の見解[編集]

史学者[誰?]は、趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なること、第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることからその内容を否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈しており[6]、李光地も、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈している[6]

三国志演義[編集]

成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。

正史『三国志』の趙雲は同巻に収められた五人の中で最も位が低く、劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、趙雲は翊軍将軍のまま据え置かれた[注釈 1]

しかし『三国志演義』においては、五虎大将軍として他四人と同格に位置付けられ、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。

身体的な特徴付けとして、初登場時に「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と、まだ少年ながらに体躯堂々たる偉丈夫として描写されている。

長坂では、単騎で大軍の中を単騎で駆け抜け、阿斗と甘夫人を救出する話が代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。ちなみに嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[7]

劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

民間伝説[編集]

Mask of Zhao Yun used in folk opera
演劇で用いられる趙雲の仮面

民間伝説によると、趙雲は「白龍」(はくりゅう)、もしくは「白龍駒」(はくりゅうく)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように開放し、大変喜ばれている。

また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたとなっている。『三国志平話』によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯に敵う者なし」という意味で名付けたことになっている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。

妻の身分は不詳。民間伝承によると、趙雲の妻に孫軟児なる夫人がおり、この夫人が戯れに刺繍針で趙雲の身体をつついたところ、血が止まらなくなり死んでしまった。河北梆子劇『青釭剣』によると、趙雲の妻に李翠蓮の名が見られる。

上記は正史や『三国志演義』では一切語られていないが、白龍の話は、映画『レッドクリフ』で採用されている。軟児の名は、映画『三国志』(2008年、中国・韓国)で採用されている。

書物[編集]

  • 坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』平凡社、平凡社新書325、ISBN 4-582-85325-0
  • 江陵県志
  • 加野厚志『趙雲子竜 中原を駆けぬけた三国志最強の戦士』幻冬舎、幻冬舎文庫、ISBN 978-4344400818

趙雲を主題とした作品[編集]

映画
テレビドラマ
小説
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 『華陽国志』によると翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり『關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。』と四将と並んで昇進したと記録されている。
  2. ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという
  3. ^ 盧弼『三国志集解』が注に引く南宋の胡三省曰く。『晋書』職官志によれば、鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位である。趙雲は鎮東将軍から鎮軍将軍に降格したようだが、晋の制度では昇格になってしまう。蜀漢の制度で鎮軍将軍というのは雑号将軍だったのだろうか。それなら降格になるのでつじつまは合う。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。
  4. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している。
  5. ^ 192年に常山郡は袁紹の統治領となった。

出典[編集]

  1. ^ 趙雲』 - コトバンク
  2. ^ ウィキソース出典 季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。  - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  3. ^ 鶴間和幸『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、20200407、243頁。ISBN 9784389501228 
  4. ^ Enpedia”. 矢野主税. 2024年5月16日閲覧。
  5. ^ 国会図書館サーチ”. 別伝の研究 矢野主税. 2024年5月16日閲覧。
  6. ^ a b 盧弼『三国志集解』による。
  7. ^ 嘉靖元(一五二二)年序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]