陳到
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陳到 | |
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蜀漢 亭侯・征西将軍・永安都督 | |
出生 |
生年不詳 豫州汝南郡 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Chén Dào |
字 | 叔至 |
主君 | 劉備→劉禅 |
陳 到(ちん とう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。字は叔至。豫州汝南郡の人。
概要
[編集]劉備が豫州刺史を務めていた頃からの家臣で、白毦兵または白耳兵と称される精鋭部隊[1]の長を務め、名声・官位ともに趙雲に次いだため忠節勇武な武将として称えられた。
建興元年(223年)、劉備の死後に永安都督・征西将軍の官位に昇り、亭侯に封じられた。
建興4年(226年)、李厳が永安から江州に陣営を移動させたが、陳到は引き続き永安に駐留し、守備を継続している[2]。在官のまま死去した[3]。
『三国志』での明確な記述は以上である。蜀では史官をおいていなかったため記録が散逸しており、陳寿が『蜀書(三国志)』を編纂する際に使えた資料はかなり少なかった。蜀の名臣を讃える楊戯の『季漢輔臣賛』では、陳到の「忠誠」を評価している[4]。また、趙雲共々「選り抜きの兵を指揮して、勲功をあげた猛将」と賞賛されている[4]。
小説『三国志演義』には登場しない。
脚注
[編集]- ^ 『太平御覧』巻三四一
- ^ 『華陽国志』では、永安都督・亭侯になったのはこの時となっている。 華陽國志/卷七 (中国語), 華陽國志/卷七#劉後主志, ウィキソースより閲覧。 - 四年,永安都護李嚴還督江州,城巴「部」〔郡〕〈劉、李本作都。〉大城。〈元豐本作「城巴郡大城」。張、吳、何、王、石本作「還督江州巴郡」,無「大城」字。張佳胤所妄改也。〉李嚴更作大城,見《巴志》。以征西將軍汝南陳到督永安,封亭侯。是歲,魏文帝崩。明帝立。
- ^ 華陽國志 巴志 (中国語), 華陽國志/卷一#巴東郡, ウィキソースより閲覧。 - 嚴還江州,征西將軍汝南陳到為都督。到卒官,
- ^ a b 季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。 - 征南厚重,征西忠克。 統時選士,猛將之烈。
参考文献
[編集]「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7