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高堂隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高堂 隆(こうどう りゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の官僚、政治家。升平に仕えた。兗州泰山郡平陽県の人。前漢の儒者高堂生の子孫にあたる。

人物

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若い頃に儒学生となり、泰山太守薛悌督郵に任命され、のち213年曹操に召された。歴城侯国のとして曹操の子の曹徽に仕え、曹操の死に際して曹徽が父の中にありながら狩猟を楽しんでいた時に激しく諫めた。のち平原王曹叡の傅役となり、曹叡の即位後に給事中博士駙馬都尉に任命された。散騎常侍侍中光禄勲を歴任し、その間曹叡が宮殿の建築を盛んに行うことに対したびたび諫めた。没年は不明だが、「三国志」魏書高堂隆伝に「蔣済封禅を実施するよう曹叡に進言し、曹叡が高堂隆に封禅の儀礼を作成させていたところで高堂隆が死去したので『天はわしの事業を成就させたくなかったのだろう』と皇帝が嘆いた」とあるので、曹叡の在世中(239年以前)の死去であると思われる。

なお、魏書方技伝に引用される馬鈞の記事には、馬鈞が指南車を完成させる前に、高堂隆と秦朗が「指南車などは昔の記録が適当に書いただけだ」と主張して馬鈞を嘲笑したと記録されている[1]

逸話

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  • 都の督軍が薛悌と論争したとき、薛悌を名前で呼んで怒鳴りつけた。高堂隆は剣の柄に手をかけて督軍を叱り、「昔、魯の定公が侮辱されたとき、仲尼(孔子)は階段を上がってたしなめ、趙王を弾かされたとき、藺相如秦王に缶(かめ。打楽器として使う。)[2]を叩かせた。下臣を前にして主君を名前で呼べば、道義では討ち果たすことになっている。」督軍は真っ青になり、薛悌は慌てて起(た)ち上がり彼を引き留めた。
  • 裴松之は考える。魏の台(尚書省)から「物故」の意味について質問があったとき、高堂隆は答えた、「この言葉の意味は先師から次のように聞いております。とはの意であり、とはの意であって、二度と何事もすることができないという意味です。」[3]

脚註

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  1. ^ 陳寿「三国志」ちくま学芸文庫版4巻P342
  2. ^ 素焼きの器。瓦盆
  3. ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」の注

参考文献

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