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曹拠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曹 拠(そう きょ、生没年不詳)は、中国三国時代の皇族。本貫豫州沛国譙県[1]。父は曹操。母は環夫人。同母兄は曹沖、同母弟は曹宇[2]

生涯

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後漢代の建安16年(211年)、曹操の領邑15000戸が、子の曹植・曹拠・曹豹に分割され、曹拠は范陽侯に封じられる[3]。建安22年(217年)には宛侯に移った。

異母兄の曹丕が魏の帝位に即いた後の黄初2年(221年)、曹拠の爵位は公に昇る。黄初3年(222年)に章陵王となるが、以降は義陽彭城済陰と国替えされる。彭城王時代の徐庶であった。

黄初5年(224年)、諸王の領邑が単位まで縮小されることとなり、曹拠は定陶県に改封される。太和6年(232年)、曹叡の時代に入ると、諸王の領邑は単位に拡張され、曹拠は彭城王に戻った。

景初元年(237年)、禁制の品物を作らせた罪で領邑2000戸を削られたが、景初3年(239年)には元の領邑に戻される。

嘉平6年(254年)、曹芳が廃位されると、司馬師は曹拠を後継に据えようとしたが、郭皇太后の意見が通り、帝位には曹髦が即いた[4]

正元景元年間に何度も加増を受け、領邑は4600戸に昇った。

三国志演義

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羅貫中の小説『三国志演義』では、司馬師が曹芳を廃位するに先立ち、曹芳の後継者候補として名前のみ挙げられる[5]

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  • 曹琮 - 曹沖の跡を継いだ。魏の平陽公[6]
  • 曹範 - 曹整の跡を継いだ。魏の成武公[7]
  • 曹闡 - 曹範の跡を継いだ[7]

出典

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脚注

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  1. ^ 『三国志』魏書 武帝紀記載、父の曹操の本貫。s:zh:/三國志/卷01
  2. ^ 『三国志』魏書 武文世王公伝 s:zh:三國志/卷20
  3. ^ 『三国志』魏書 武帝紀注『魏書
  4. ^ 『三国志』魏書 斉王紀 s:zh:三國志/卷04#齊王
  5. ^ s:zh:三國演義/第109回
  6. ^ 『三国志』魏書 鄧哀王沖伝 s:zh:三國志/卷20#鄧哀王沖
  7. ^ a b 『三国志』魏書 郿戴公子整伝 s:zh:三國志/卷20#郿戴公子整