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劉馥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉馥
後漢
揚州刺史
出生 生年不詳
豫州沛国相県
死去 建安13年(208年
拼音 Liú Fù
元穎
主君 曹操
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劉 馥(りゅう ふく ? - 208年)は、中国後漢時代末期の政治家。字は元穎豫州沛国相県の人。劉靖(字は文恭)の父。劉熙劉弘(字は叔和荊州刺史)の祖父。劉璠の曾祖父。『三国志』魏志「劉司馬梁張温賈伝」に伝がある[1]

事跡

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戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄・秦翊を説き伏せ、軍勢を率いて共に曹操に帰順した。曹操は大いに喜び、劉馥を司徒掾とした[2]

建安5年(200年)、曹操が置いた揚州刺史の厳象が、孫策が置いた廬江太守李術に殺害される事件が起きた。更に廬江で袁術残党の梅乾雷緒陳蘭らが数万の軍勢を集め、江・淮の間で郡県を破壊した[3]。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥なら東南の事を任せられるとし、厳象後任の揚州刺史として派遣した[4]。劉馥は単身で空城の合肥に乗り込んで政庁を設置し、雷緒らを懐柔して帰服させた[5]

数年のうちに恩恵と教化が大いに行なわれ、民衆は劉馥の政治を慕い、流民が江山を越えてくるほどで、帰順者は万単位にのぼった。更に学校を立て、屯田・灌漑事業を推進し、官吏も民衆も蓄えを得た[6]

建安13年(208年)、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、孫権の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した[7]。揚州の人々は、ますます劉馥を追慕したという。

劉馥の死後、雷緒らは曹操に反逆したが、夏侯淵張遼于禁張郃臧覇らに討伐された。

劉馥の子の劉靖は、高官を歴任して仮節・鎮北将軍・都督河北諸軍事に至り、死去すると征北将軍・建成郷侯を追贈され、景侯と諡された。子の劉熙が後を継いだ[8]

物語中の劉馥

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小説『三国志演義』では、揚州刺史としての功績が言及されている。しかし赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害される。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している[9]

ただし劉熙は、史実では劉靖の子、すなわち劉馥の孫にあたる人物であり、これは『演義』作者の脚色上の誤りと思われる。

参考文献

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脚注

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  1. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 劉馥字元穎,沛國相人也。
  2. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 避亂揚州,建安初,說袁術將戚寄、秦翊,使率衆與俱詣太祖。太祖恱之,司徒辟為掾。
  3. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江、淮間,郡縣殘破。
  4. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 太祖方有袁紹之難,謂馥可任以東南之事,遂表為揚州刺史。
  5. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 馥旣受命,單馬造合肥空城,建立州治,南懷緒等,皆安集之,貢獻相繼。
  6. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 數年中恩化大行,百姓樂其政,流民越江山而歸者以萬數。於是聚諸生,立學校,廣屯田,興治芍陂及茹陂、七門、吳塘諸堨以溉稻田,官民有畜
  7. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 又高為城壘,多積木石,編作草苫數千萬枚,益貯魚膏數千斛,為戰守備。
  8. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 馥子靖,黃初中從黃門侍郎遷廬江太守,詔曰:「卿父昔為彼州,今卿復據此郡,可謂克負荷者也。」轉在河內,遷尚書,賜爵關內侯,出為河南尹。散騎常侍應璩書與靖曰:「入作納言,出臨京任。富民之術,日引月長。藩落高峻,絕穿窬之心。五種別出,遠水火之災。農器必具,無失時之闕。蠶麥有苫備之用,無雨濕之虞。封符指期,無流連之吏。鰥寡孤獨,蒙廩振之實。加之以明擿幽微,重之以秉憲不撓;有司供承王命,百里垂拱仰辨。雖昔趙、張、三王之治,未足以方也。」靖為政類如此。初雖如碎密,終於百姓便之,有馥遺風。母喪去官,後為大司農衞尉,進封廣陸亭侯,邑三百戶。上疏陳儒訓之本曰:「夫學者,治亂之軌儀,聖人之大教也。自黃初以來,崇立太學二十餘年,而寡有成者,蓋由愽士選輕,諸生避役,高門子弟,恥非其倫,故無學者。雖有其名而無其人,雖設其教而無其功。宜高選博士,取行為人表,經任人師者,掌教國子。依遵古法,使二千石以上子孫,年從十五,皆入太學。明制黜陟榮辱之路;其經明行脩者,則進之以崇德;荒教廢業者,則退之以懲惡;舉善而教不能則勸,浮華交游,不禁自息矣。闡弘大化,以綏未賔;六合承風,遠人來格。此聖人之教,致治之本也。」後遷鎮北將軍,假節都督河北諸軍事。靖以為「經常之大法,莫善於守防,使民夷有別」。遂開拓邊守,屯據險要。又脩廣戾陵渠大堨,水溉灌薊南北;三更種稻,邊民利之。嘉平六年薨,追贈征北將軍,進封建成鄉侯,謚曰景侯。子熙嗣。
  9. ^ ウィキソース出典 三國演義 第四十八回 宴長江曹操賦詩 鎖戰船北軍用武 (中国語), 三國演義/第048回, ウィキソースより閲覧。  - 歌罷,眾和之,共皆歡笑。忽座間一人進曰:「大軍相當之際,將士用命之時,丞相何故出此不吉之言?」操視之,乃揚州刺史,沛國相人,姓劉,名馥,字元穎。馥起自合淝,創立州治,聚逃散之民,立學校,廣屯田,興治教,久事曹操,多立功績。當下操橫槊問曰:「吾言有何不吉?」馥曰:「『月明星稀,烏鵲南飛,遶樹三匝,無枝可依。』此不吉之言。」操大怒曰:「汝安敢敗吾興!」手起一槊,刺死劉馥。眾皆驚駭,遂罷宴。次日,操酒醒,懊恨不已。馥子劉熙,告請父屍歸葬。操泣曰:「吾昨因醉誤傷汝父,悔之無及。可以三公厚禮葬之。」又撥軍士護送靈柩,即日回葬。