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孫軟児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

孫 軟児(そん なんじ)は、中国の民間伝承に登場する趙雲の妻。趙雲の死にまつわる伝承にて確認される。

趙雲の死と妻の刺繍針[編集]

大まかなあらすじは、「戦場で一度も負けなかった趙雲の身体には傷一つなかった。そこで妻(孫軟児)が戯れで刺繍針で傷をつけたところ、血が止まらなくなり趙雲は死んでしまった」といった内容である。この伝承には地方により似通ったパターンが存在するが、趙雲の墓があるとされる大邑県と趙雲の故郷である正定県の物語では妻の名前はない。全て1980年代頃に収集されている。

四川省成都市・大邑版[編集]

三国時代の有名な将軍、趙子龍は大邑県の東門の外にある錦屏山のふもとに埋葬された。彼のお墓の前には子龍寺が建てられた。趙子龍は生涯で数百回戦ったが、一度も負けたり怪我をしたことはなかった。彼の死は、戦死でも病死でもなかった。ある日、子龍と妻は楽しくおしゃべりをした。子龍は「自分の身体には刀や槍、戟、矢の傷跡が一つもなく、針先ほどの小さな傷跡さえもない」と言った。妻はその話を楽しく聴いていたが、完全には信じられなかった。そんな妻に、「信じられないなら調べてもいいよ。」と、子龍は衣服を解き始め、妻に身体を見せようとした。彼があまりに真剣なので、妻は「お歳なんだから、服なんて脱いだら風邪をひきますよ!」と慌てて諭した。

その夜。妻は子龍の言葉を思い出し、彼の体に本当に傷がないのかを見てみたくなった。子龍が眠りにつくのを待ってから彼女は燈を持ち、手、脚、身体のすみずみまで注意深く観察したが、彼の身体には針の先ほどの傷さえ見つけることができなかった。彼女は幸せな気持ちになり、明日になったら子龍をからかってやろうと思い、子龍のおへその横に針を少し突き刺して、さらに口紅を塗った。

翌日。妻が目を覚ますと、子龍がまだぐっすり眠っているのを見て、起きるよう何度も呼んだが起きてこなかった。彼女は布団を開けて子龍に呼びかけても反応がないので、屈み込んで様子を見た。すると、彼女はあまりの恐怖に叫んでその場で気絶した。子龍の腰からは大量の血だまりが流れ出し、全身は冷え、硬直して死んでいたのだった。

趙子龍はなぜ針で刺されただけで死んでしまったのか。それは趙子龍は天から地上に降り立った『燈籠星』だからだ。彼は90年以上生き、数百回の戦いを生き延びたが、針で燈籠の殻に穴を開けてガスが放出されたから、燈籠は消え、趙子龍は死んだのだ。』[1]

河北省正定版[編集]

1970年に秦家庄村で採録。大邑版より10年ほど古い時期に記録されている。大邑版とほぼ同じ内容で、「趙雲が身体に傷がない事を豪語し、妻が寝ている趙雲の身体を確認して戯れで針を刺し、翌朝趙雲が死んでいた」といった流れである。

相違点は、正定版では趙雲の年齢は84歳となっており、妻が針で刺した場所は「へその横」ではなく「額」になっている。「天から地上に降り立った」の部分は同じだが、『燈籠星』ではなく『水瓶星』となっており、「趙雲の妻は趙雲の皮膚を刺した。それは水の入った瓶を割ったのと同じことであるから、水が漏れて趙雲は死んでしまった。」と書かれている。[2]

その他[編集]

民間伝承の刺繍針』によると、ある夜、趙雲が戦場から帰ってくると孫軟児はお風呂を沸かせて待っていた。孫軟児が「本日も、お勤めご苦労様でした。子龍池で汲んだ霊泉水を沸かしたお風呂をご用意いたしました。冷めないうちにどうぞ、白龍白龍駒、趙雲の愛馬)には霊泉水の用意があります」と言うと、趙雲は「ありがとう」と言い、返り血や土埃で汚れた衣服を脱ぎ、湯気が立ち籠める湯船に浸かった[要出典]

孫軟児は浴場の隣で蝋燭を灯して、服の破れた場所に目立たないように刺繍をしながら、ふと、月明かりのもとで夫の身体が水晶の如く透き通り、鎧服(がいふう、鎧兜(甲冑)や衣服)から解き放たれた白い肌が桃色に染まっていくのに気が付いた[要出典]

孫軟児は不思議に思い「長年、戦場を駆け抜けたのに、あなたの背はなぜそのように白いのですか?」と尋ねると、趙雲は笑いながら「私は戦友から常勝の兵などと呼ばれ、大きな怪我をしたことがない。陛下から賜りし鎧や妻である君が織ってくれた服に守られた肌の傷は小さく、いつもこの子龍池の霊泉や君の笑顔で癒されているからだよ」と答えた[要出典]

孫軟児は「今日は常勝将軍様に傷を付けちゃおうかしら?」などと冗談を言いながら、刺繍針を趙雲の肩にちくりと一針刺した途端、肩から鮮血が泉のように噴き、滝のように流れ出して止まらなくなった。慌てて持ち出した薬箱の薬草や包帯を試してもほとんど効き目はなく、最期を悟った趙雲は妻を責めず、それまでの労に礼を言い遺し、それからすぐに顔から血の気が引いて死んでしまった。孫軟児は声が嗄れるほどに泣き、子供たちの制止を振り切り、自らの行いを責めながら刀を喉元に突き立て、趙雲の亡骸の傍らで自刃して死んだ[要出典]

趙雲の訃報は趙統、趙広の息子2人によって諸葛亮らに届けられ、「我が四友(劉備関羽張飛、趙雲)、ここに奪われり」と悲哀の余り倒れる。その昏睡の中で諸葛亮は、趙雲と孫軟児が睦まじく微笑みながら、劉備と関羽と張飛に導かれる姿を夢に見て目を覚ます、といった顛末になっている[要出典]

関連事項[編集]

「軟児」の名は、映画『三国志』で趙雲の妻の名称に採用されている。姓は不明。

関連映画[編集]

関連書籍[編集]

  • 『江陵県志』
  1. ^ 『中国民間文学集成・四川巻・成都市大邑縣巻/4「趙子龍之死」』成都:成都市大邑縣修正辦公室、1989年、261-263頁。 
  2. ^ 『中国民間文学集成・正定縣故事巻/第一巻(歴史人物傳説・趙雲之死)』石家荘:石家荘市正定縣三套集成編輯委員会、1988年1月、138-139頁。