黄鍾瑛
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黄鍾瑛 | |
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プロフィール | |
出生: |
1869年10月24日 (清同治8年9月20日) |
死去: |
1912年(民国元年)12月4日 中華民国上海市 |
出身地: | 清福建省福州府閩県 |
職業: | 海軍軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 黃鍾瑛 |
簡体字: | 黄锺瑛 |
拼音: | Huáng Zhōngyīng |
ラテン字: | Huang Chung-Ing |
和名表記: | こう しょうえい |
発音転記: | フアン ジョンイン |
黄 鍾瑛(こう しょうえい)は中華民国の海軍軍人。辛亥革命後に成立した南京臨時政府において海軍総長を務め、北京政府でも初代海軍総司令となった人物である。旧名は良鏗、別名は鎏、号は賛侯。
事績
[編集]福州船政学堂と劉公島槍砲(銃砲)学堂で学び、卒業後は海軍に入隊する。各種艦船において艦銃砲員、操舵員、副艦長等の職務を歴任した後、艦船「飛鷹」の艦長に就任した。その後、艦船「鏡清」の艦長に転じ、海軍部駐上海参謀も兼任している。1911年(宣統3年)9月、巡洋艦「海籌」の管帯(艦長)に就任し、まもなく海軍臨時艦隊司令に抜擢された。
同年10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、黄鍾瑛は九江で反清の挙兵を行い、革命派から海軍司令部長に任ぜられる。1912年(民国元年)1月、南京臨時政府で海軍総長となり、北京政府合流後は初代海軍総司令に転じている。しかし同年11月、病気のため総司令職を離れ(暫時、徐振鵬が代理)[1]、12月4日、上海で死去した。享年44(満43歳)[2]。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
中華民国(北京政府)
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