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黒田吉之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
黒田 吉之
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 天和2年6月15日1682年7月19日
死没 宝永7年7月3日1710年7月28日
改名 左京、政之、吉之
戒名 範雄道洪乾光院
墓所 祥雲寺東京都渋谷区
官位 従四位下大隅守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
筑前国福岡藩世子
氏族 黒田氏
父母 黒田綱政、呂久姫
兄弟 吉之宣政、亀之助、女子(上杉吉寅(吉憲?)許嫁)
冨姫本多忠常養女)
奈安、
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黒田 吉之(くろだ よしゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての筑前国福岡藩[1]世子。左京[2][3]

略歴

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天和2年(1682年)6月、4代藩主・黒田綱政の長男として江戸で誕生[2][3]。母は立花鑑虎の養女[2]。初名は政之まさゆき[2]

元禄4年(1691年)2月15日、10歳のとき、将軍・徳川綱吉御目見得する[2][3]。同9年(1696年)11月26日、元服し、松平姓と綱吉の偏諱を与えられ、吉之に改名した[2][3]。また、従四位下大隅守に叙任した[2][3]

元禄12年(1699年)7月、大和国郡山藩藩主・本多忠常の養女(三河国挙母藩藩主・本多忠利の娘)と婚約、宝永2年(1705年)9月、結婚した[3][2]

同年2月、初めて福岡に入り、同年4月には、父とともに長崎に赴いた[3]

宝永7年(1710年)7月3日、父・綱政に先立って死去した[2][3]。29歳[2][3]。法号は範雄道洪乾光院[2]祥雲寺に葬られた[2]

代わって、弟・守山政則(宣政)が嫡子となった[3]

遺物として、書と、正室本多氏の娘との婚礼調度一部が今日まで伝わり(黒田資料)、福岡市美術館に所蔵されている。また、広尾祥雲寺にある吉之の墓標は、藩祖の黒田長政に次いで巨大である。

系譜

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脚注

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参考文献

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