黒田吉之
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 天和2年6月15日(1682年7月19日) |
死没 | 宝永7年7月3日(1710年7月28日) |
改名 | 左京、政之、吉之 |
戒名 | 範雄道洪乾光院 |
墓所 | 祥雲寺(東京都渋谷区) |
官位 | 従四位下大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 筑前国福岡藩世子 |
氏族 | 黒田氏 |
父母 | 黒田綱政、呂久姫 |
兄弟 | 吉之、宣政、亀之助、女子(上杉吉寅(吉憲?)許嫁) |
妻 | 冨姫(本多忠常養女) |
子 | 奈安、幸 |
黒田 吉之(くろだ よしゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての筑前国福岡藩[1]の世子。左京[2][3]。
略歴
[編集]天和2年(1682年)6月、4代藩主・黒田綱政の長男として江戸で誕生[2][3]。母は立花鑑虎の養女[2]。初名は
元禄4年(1691年)2月15日、10歳のとき、将軍・徳川綱吉に御目見得する[2][3]。同9年(1696年)11月26日、元服し、松平姓と綱吉の偏諱を与えられ、吉之に改名した[2][3]。また、従四位下大隅守に叙任した[2][3]。
元禄12年(1699年)7月、大和国郡山藩藩主・本多忠常の養女(三河国挙母藩藩主・本多忠利の娘)と婚約、宝永2年(1705年)9月、結婚した[3][2]。
同年2月、初めて福岡に入り、同年4月には、父とともに長崎に赴いた[3]。
宝永7年(1710年)7月3日、父・綱政に先立って死去した[2][3]。29歳[2][3]。法号は範雄道洪乾光院[2]。祥雲寺に葬られた[2]。
遺物として、書と、正室本多氏の娘との婚礼調度一部が今日まで伝わり(黒田資料)、福岡市美術館に所蔵されている。また、広尾祥雲寺にある吉之の墓標は、藩祖の黒田長政に次いで巨大である。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「巻第四百二十五 佐々木庶流」『寛政重修諸家譜』 第三輯、國民圖書、1923年2月18日。NDLJP:1082714/114。