1940年度巡洋戦艦試案
オランダ海軍1940年巡洋戦艦計画 | |
---|---|
艦級概観 | |
艦種 | 巡洋戦艦 |
艦名 | 不明 |
前級 | デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン (海防戦艦) orゲルマニア 1914年案 |
次級 | |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:27,950トン 常備:28,065トン 満載:30,960トン |
全長 | 237.1m 235.0m(水線長) |
全幅 | 30.4m |
吃水 | 7.8m |
機関 | 形式不明重油専焼水管缶8基 +ギヤード・タービン4基4軸推進 |
最大 出力 |
180,000hp |
最大 速力 |
34.0ノット |
航続 距離 |
20ノット/4,500海里 |
燃料 | 重油:4,500トン |
乗員 | 1,050名 |
兵装 | クルップ 1940年型 28cm(54.5口径)三連装砲3基 ボフォース 1928年型 12cm(50口径)連装速射砲6基 ボフォース 4cm(56口径)連装機関砲7基 2cm(-口径)単装機銃8基 |
装甲 | クルップ鋼製 舷側:225mm(水線部主装甲、25度傾斜)、15~30~40mm(艦首部)、30mm(艦尾部)、40mm(水線下隔壁) 甲板:30mm(最上甲板)、25+75mm(主甲板) 主砲塔:250mm(前盾) 主砲塔:250mm(前盾)、200mm(側盾)、150mm(天蓋) 主砲バーベット部:250mm(甲板上部)、200mm(甲板下部)、40mm(主甲板下部) 副砲塔:80mm(前盾・側盾)、125mm(天蓋) 副砲バーベット部:75mm(甲板上部)、60mm(甲板下部) 機関砲防盾:40mm 司令塔:300mm(側盾) 150mm(天蓋) |
航空兵装 | 水上機2機 カタパルト1基 |
同型艦 | 3隻(未成) |
オランダの巡洋戦艦建造計画(おらんだのせんかんけんぞうけいかく)として、オランダが1930年代末期に建造を企画したものの[1]、第二次世界大戦の西部戦線におけるドイツ侵攻とオランダの敗戦と本土占領により実現に至らなかった巡洋戦艦について本項に記述する[2]。
本級は極東のオランダ領東インドを防衛するため、仮想敵国の大日本帝国が保有する優秀な巡洋艦艦隊や[1]、金剛型戦艦に対抗することを企図した[3]。1938年当時は友好関係を保っていたドイツとその海軍に協力を仰いだため、シャルンホルスト級戦艦に類似した艦型と性能である[4]。またイタリア王国からも指導をうけ、同海軍のリットリオ級戦艦の見学を許されるなど種々の便宜を図ってもらった[3]。 このオランダ巡洋戦艦整備計画は日本海軍も察知し、海軍省が警戒を表明していた[注釈 1]。
背景
[編集]近代から第二次世界大戦までのオランダ海軍の基本方針は以下のようなものであった。
- 本国:機雷と水雷艇で要港の防御を固める
- 植民地:国家の資金源であるため、優先的に主力艦や潜水艦を配備し、きな臭いアジア情勢に備える
- イギリスが極東植民地(イギリス領マラヤ)や香港防衛の戦略拠点としてシンガポールを軍事基地として整備しており、仮想敵国が南進した場合はイギリス海軍と協力する[6]
- アメリカ合衆国はフィリピン植民地(合衆国アジア艦隊の拠点)、フランスは仏印、イタリア王国は上海市などを通じて極東に影響力を持っているので、列強各国と協調する。
- 日本の南進を警戒しており、かつオランダ領東インドと地理的に密接しているイギリス連邦(オーストラリア、ニュージーランド)と協力する
オランダは国力の問題から本国と植民地の両方に充分な兵力を配備することは不可能であるため、資源の少ない本国より実入りの良い植民地の防衛に戦力を割くという、欧州の国としては珍しい選択肢を取っていた。海防戦艦等の大型艦や軽巡洋艦、駆逐艦の大部分は植民地防護に回され、またオランダ領東インド(蘭印)向けに小国としては有力な艦が計画されていた。ところが1938年9月30日のミュンヘン会談で、列強(イギリス、フランス、イタリア)がナチス・ドイツに宥和政策をとってチェコスロバキアを見捨てたことは、オランダに衝撃を与えた[7]。さらにアメリカ合衆国がフィリピン独立法によりフィリピンを独立させたあと、極東から手を引くとの観測がひろまった[注釈 2][注釈 3]。オランダは独自の軍備をおこなう必要にせまられ、海軍の建艦政策にも影響を与えた[7]。
1940年巡洋戦艦案
[編集]第一次世界大戦後、戦艦の建造について再び研究が進められた。日本海軍が計画していた八八艦隊(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)に対し、補助艦艇(駆逐艦、水雷艇、潜水艦)を基幹戦力とするオランダ海軍が独力で対抗する事は不可能であり、イギリス海軍の主力艦隊を極東に回航してもらうしか対処手段がなかった[9]。 だが1922年2月のワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦の建造がストップするる[10]。日本を含めて列強各国は現有領土(勢力圏)の保有と維持で合意し、オランダも一息ついた[6]。この軍縮条約では主力艦を「口径8インチ(約20センチ)砲を越え、最大排水量が1万トンを超えるもの」と定義したため、新たな艦種「8インチ砲搭載、1万級巡洋艦」が登場した[11]。
海軍休日がはじまったが、ヴァイマル共和政下のドイツが1929年2月より画期的装甲艦「ドイッチュラント」の建造を開始し[12]、ヴェルサイユ条約の制限内においてもドイツ海軍の再興が始まると状況は変わった[13]。このドイッチュラント級装甲艦はポケット戦艦と呼ばれる[14]。 1万トン級の船体に11インチ(28センチ)砲6門(三連装砲塔2基)を搭載し、ディーゼルエンジンの採用によって公称速力26.5ノット(実際は28ノット)と長大な航続力を獲得[15]、「8インチ砲搭載1万トン級巡洋艦では歯が立たず、低速の戦艦では捕捉できない」存在として、世界の注目を集めた[注釈 4]。ポケット戦艦に対抗するためフランスがダンケルク級戦艦を建造したのを発端に[注釈 5]、ヨーロッパで建艦競争が再燃する[18]。
1930年4月22日、列強はロンドン海軍軍縮条約を締結し、この条約により巡洋艦は重巡洋艦(A級巡洋艦、甲級巡洋艦)と軽巡洋艦(B級巡洋艦、乙級巡洋艦)に分類された。しかし既述のように、ポケット戦艦に対抗できる存在ではなかった[注釈 4]。列強海軍が建造するであろう重巡洋艦の備砲は最大で8インチ=20.3cmであり、オランダの既存巡洋艦(ジャワ級)や建造予定の軽巡(デ・ロイテル)が採用している15cm砲では射程が劣るため、アウトレンジされる可能性が高かった。海防戦艦は主砲が28.3cmであり重巡洋艦に対して火力の面では対抗できるが、速力が遅いので自らの有利な状況で相手と戦闘を行うということは期待できなかった。そしてドイツ海軍の28cm砲を主砲とするドイッチュラント級に対抗可能なオランダ戦闘艦は存在しなかった。
それに加えて1930年代に極東における日本が支那事変(日中戦争)に代表されるような覇権主義的外交姿勢を取るようになった[19][20]。なおかつ、列強国間で日本海軍が独自のポケット戦艦(超大型巡洋艦)を建造するという推測が広まった[21][注釈 6]。 アメリカ海軍に至っては幻の日本ポケット戦艦に対抗するため[23]、1940年1月に超大型巡洋艦の計画を正式発表[24]、アラスカ級大型巡洋艦を建造した程である[25]。この日本版ポケット戦艦は、12インチ(30センチ)砲搭載、排水量15,000トン、速力30ノット以上(報道によっては40ノット)と推定された[26][27]。対抗するためには、強力な巡洋戦艦が必要とされた[注釈 7]。
1938年9月のミュンヘン協定により、オランダは戦略の見直しを迫られた[7]。1939年には新たな建艦計画を練る[1]。まず8,000トン級軽巡洋艦2隻の建艦を下令した[注釈 8]。 1940年4月、26,500トン級巡洋戦艦3隻の整備計画が承認された[注釈 9]。 これが本案である[注釈 10]。1945年以降の完成を目指しており、オランダ領東インドでは目先に迫った危機に対し外交を重視すべきとの論調もあった[31]。
フランス海軍のダンケルク級戦艦はポケット戦艦狩りに適した艦級であったが[注釈 5]、フランスの情報統制によりオランダ海軍の参考にならなかった[7]。つづいて巡洋戦艦の設計を国交関係修復の意味をこめてナチス・ドイツに依頼したが、全面的な協力は得られなかった[注釈 11][注釈 12]。最後にイタリア王国が種々の便宜をはかってくれた[7]。建造中の最新鋭戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の見学を許可した上に、ドイツ艦艇の情報もオランダ側に譲渡したのである[3]。 こうして纏められたオランダ巡洋戦艦の外観はシャルンホルスト級戦艦に似ていたが、船体構造はアメリカ式とイタリア式の混在で、防御力も傾斜装甲を採用するなどシャルンホルスト級よりも進んでいた。本案が対抗すべき艦として想定されたのは、日本海軍の新型戦艦(43,000トン級、8隻建造と推定)ではなく[32]、条約型重巡洋艦やポケット戦艦であった。その為、主砲には過去の海防戦艦で実績のある28cm砲を採用することになっていた。
1944年までに3隻を建造する計画だったが、1940年5月10日にドイツはオランダに宣戦布告する。ドイツ軍の侵攻を受けオランダ本国は占領され、オランダ政府はイギリスに亡命した。本案も実現することなく終わった[注釈 13]。
艦形
[編集]本案の船体形状は平甲板型船体である。強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の「1940年型 28cm(54.5口径砲」を三連装式砲塔に収めて背負い式に2基、その後方に頂上部に大型の測距儀を配置した近代的な箱型艦橋の後方に簡素な単脚式のマストが1本立ち、船体中央部の2本煙突は機関のシフト配置のため前後に離されて配置しており、その間は水上機運用施設となっており、1番煙突基部に設けられた水上機格納庫には水上機2機が格納でき、船体中央部に首尾線方向に垂直に埋め込まれた固定式カタパルトにより射出される。艦載機の運用は船体中央部に片舷1基ずつ設置されたグース・ネック(鴨の首)型クレーンにより運用され、2番煙突基部に並べられた艦載艇の運用に使用される設計であった。2番煙突の後方に測距儀を配置した後部見張り所が設けられ、後部甲板上に後向きに3番主砲塔が1基配置された。左右の舷側甲板上には副砲の「12cm(50口径)速射砲」が連装式の副砲塔に収められ、1番煙突の側面に前向きに背負い式で2基と3番煙突の側面に後向きに1基で片舷3基の計6基を配置した。対空兵装の「4cm(56口径)機関砲」は連装砲架で艦橋中部の四隅に4基、後部見張り所の前方に並列で2基、後方に後向きに1基の計7基を配置した。この武装配置により艦首方向に最大で28cm砲6門・12cm砲8門・4cm砲4門、舷側方向に最大で28cm砲9門・12cm砲6門・4cm砲8門、艦尾方向に最大で28cm砲3門・12cm砲4門・4cm砲6門が指向できた。
主砲
[編集]本案の主砲は前型に引き続き「1940年型 28cm(54.5口径)砲」を採用した。その性能は315kgの砲弾を仰角45度で42,600mまで届かせることが出来た。この砲を新設計の三連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角45度・俯角5度である。旋回角度は左右150度の旋回角度を持っていた。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分2.5発である。
副砲、その他備砲
[編集]本案の副砲としてスウェーデンのボフォース社の新設計の「1928年型 12cm(50口径)速射砲」を採用した。本案用に開発されたが、後にスウェーデン海軍の駆逐艦エレンスコルド級駆逐艦の主砲として採用された。その性能は24kgの砲弾を仰角30度で19,500mまで届かせることが出来た。この砲を新設計の連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角70度・俯角5度である。旋回角度は左右方向を0度として左右120度の旋回角度を持っていた。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分10発である。
他に近接対空用としてオランダ海軍の主力巡洋艦に採用されているボフォース社製「1936年型 4cm(56口径)機関砲」を連装砲架で7基、イスパノ・スイサ社の2cm機銃を単装砲架で8基装備した。
機関
[編集]本案においてオランダ軍艦として初の機関のシフト配置を採用した。これは、ボイラー4基とタービン2基を前後二箇所に交互に配置することにより被害時の生存性を確保する工夫である。計画出力は180,000馬力を想定し速力34ノットの俊足を発揮する予定であった。燃料の重油を4,500トン搭載した状態で速力20ノットで4,500海里を航行できる設計であった。
1940年度巡洋戦艦試案が登場する作品
[編集]- MC☆あくしず(2023年8月号VOL.69)
- 「総力特集 第二次世界大戦の未成戦艦&未成空母」
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 廿二日トランス・オーシャン東京電によれば日本海軍省代辯者は左の如く米國大艦建造とオランダ蘭印防衛海軍強化案に就き重大關心を持つて居る旨言明した[5] 米國政府の四万五千トン主力艦建造案は新情勢の招來をなす新軍擴案の開始であり、日本は極めて憂慮して是を見るものである、而して日本はオランダ政府の三隻巡洋戰艦建造決定に就いても不安を持つて居り、オランダが極東の中立を維持防衛するため斯くの如き軍艦建造を必要とするには不可解であり、其間此軍艦の持つトン數が警戒任務目的のため必要となすが如き理由は諒解し得ない處である(記事おわり)
- ^ 〔アムステルダム廿七日UP〕[1] 和蘭政府は近々下院へ二万五千と三万五千噸の大戰艦建造案を議會へ提案する筈である。竣工すれば本艦はラン領印度支那艦隊に編入されるもので、右は太平洋上に於る列強海軍力増加に對する和蘭政府の對抗案である。〔 アムステルダム廿七日UP〕オランダ政府が二万五千噸と三万五千噸の大艦建造に決したのは一九四六年以來米政府がフイリツピンから手を引くとの報に依つたものであると云はれる(記事おわり)
- ^ 第二次世界大戦勃発後、オランダはアメリカに蘭印防衛への協力を要請したが、色よい返事を貰えなかった[8]。
- ^ a b ドイツはヴエルサイユ條約に依つてその保有し得べき最大艦は排水量一萬噸搭載大砲口徑十一吋に制限されたがドイツはこの制限内に於て最大の威力を發揮すべき装甲艦二隻を昨年來建造中である[16] 右一萬噸装甲艦は 秘密に されてゐるが十一吋主砲六門、六吋副砲八門を搭載し速力二十六節五百馬力のデーゼルエンヂンを使用し航續距離一萬海里に及ぶもので實に製艦技術上の最高點に達してゐる、ワシントン條約に依つて主要海軍國で建造中の八吋砲一萬噸巡洋艦は二隻を以てしてもこのドイツの新装甲艦一隻に 比敵し 得ない程の破壊力を有するものである然も高速力であるから主要海軍國の三萬五千噸の主力艦に遭遇しても平気であるといふ代物であるので世界海軍國の脅威の的となつてゐる(記事おわり)
- ^ a b 歐洲の情勢惡化に 華府條約の最高限度迄 佛國建艦案を決定[17]【巴里五日】歐洲の國際政局が漸次惡化し、第二の戰爭勃發の可能性が急激に濃厚となり、佛國政府もこれを坐視することを得ず、四日、佛國政府は華府條約に依てフランスに許與されてゐる最高限度まで建艦すべきであるとの意向一致した、従つて此の決定に基いてブーメルグ首相は直ちに佛國會に對して二三日中に其の協賛を受けるものと見られてゐる 同案の内容は未だ明瞭でないがダンケルク型の超弩級艦二隻二萬六千噸建造を目的とするものでダンケルク巡洋艦は世界有數の優秀巡洋艦で三十節の速力を有し、三二糎砲八門を搭載してゐる、この巡洋艦は獨逸が華府會議に依つて許された制限内で建造した「ドイツチエランド」に對抗する意味のもので「ドイツチエランド」は二十七節、二八糎砲、噸數一万百六十噸(炭水重量を含めて)級のものである ダンケルクは目下建造中で二年後に完成する豫定である(以下略)
- ^ 内閣情報部二・二〇 情報第四號/日本豆戰闘巡洋艦建造説[22] 英紙報道 ―同盟来電―不發表/ロンドン十九日發 ロンドンの保守党系週刊誌サンデイ・タイムス海軍記者は十九日の紙上に於て日本の新建艦計画と称し次の如く報じてゐる
日本は目下通商路遮断の目的に使用する豆戰闘巡洋艦数隻を建造中であるが、その単艦噸數は一万五千噸乃至一万六千噸とし十二吋砲を装備し速力は三十節以上とならう(記事おわり) - ^ (二十日ロンドン發)[21] タイムス紙日曜版は日本が公海における通商破壊戰術に適合せしむべき珍袖戰闘巡洋艦を建造してゐるとて次の如く報じてゐる 右は排水量一萬五千乃至一萬六千トンであるが、十二吋砲を装備して時速三十節以上の速力を持たしめんとしてゐるが、同速力を有する軍艦に比して遙かに強く更に強大なる軍艦と會すればその快速を利することが出來る譯である、この種軍艦が有利な點より貿易保護には新たなる問題が提起されることとならう、蓋し商船を護衛するには主力艦でなければこれを防衛し得ぬからである、かかる戰闘巡洋艦に對する措置としては十八吋砲装備、四萬トン以上の主力艦を必要とする(記事おわり)
- ^ 【ヘーグ二十三日同盟】[28] 世界政局の不安と益々激化する列國の建艦競爭に刺戟されてオランダ政府は新に八三五〇噸級巡洋艦二隻の建造に着手することになり二十三日その建造命令を發した、因にオランダ海軍の現有勢力は左の通り 戰闘艦三、巡洋艦四、驅逐艦八、潜水艦三〇、砲艦三(記事おわり)
- ^ (バタビア二十九日發)[29] 蘭印國民参議會特別議會は二十九日過般來審議中だつた總額二億八千三百萬ギルダー(邦貸約六億六千萬圓)に上る海軍擴張案に満場一致可決した、右法案は戰闘巡洋艦三隻建造及スラバヤ軍港擴張を中心とするもので計畫完成期は一九四六年半となつて居り直ちに和蘭本國議會に廻附される筈 尚土民側は右軍擴案に對し猛烈に反對していた
(バタビア二十九日發)本日の蘭印人民議會は蘭印の防備の爲、三隻の巡洋戰艦を建造する案を和蘭本國政府に建議すべき法案を採擇した、但し國家主義黨は棄権した(記事おわり) - ^ 海軍[30] 蘭印海軍は本國海軍の一部を成し、直接本國の命を承けてゐる。/ 和蘭政府は近年世界情勢の緊迫に鑑み、切りに蘭印防備の強化に狂奔して居り、殊に航空機・輕快艦艇竝に局地防備の整備に努め、更に二六,五〇〇噸型の巡洋戦艦二隻・巡洋艦三隻・嚮導驅逐艦二隻・驅逐艦十二隻・潜水艦十八隻・大型水上機七十餘機を含む建艦案の實現を期して居るが、昭和十五年一月に於ける蘭印配備の海軍兵力は概ね左の通りである。 巡洋艦 三隻 驅逐艦 九隻 潜水艦 十五隻 海防艦 二隻 敷設艦 五隻 掃海艇 八隻 水雷艇 三隻 測量艦 二隻 練習艦 一隻 計四十八隻(以下略)
- ^ ドイツ海軍はシャルンホルスト級戦艦について基準排水量26,500トンと公表していたが、実は30,000トンを超過しており、オランダに詳細な情報を提供して暴露することを怖れたという[7]。
- ^ 1939年9月の第二次世界大戦勃発時、西部戦線はまやかし戦争と呼ばれるほど落ち着いており、オランダは中立国としてドイツと外交関係をもっていた。
- ^ (バタビア發)[33] 國民参議會は先般一般第 期討議の際開陳された海軍追加豫算に對する各議員開陳意見に對し海軍長官の答辯がかはされたが、右において長官は巡洋海艦建造案はこれを放棄せざる旨を明らかにした、要旨左の如くである
一、今次追加支出を特別要目に入れたのはその最終的を勘定考慮してのものであることをここに確言する。もしオランダが再び自由を恢復せる場合これが實行に移すであらう、しかして今日までに得られたる資料に基けば水雷發動機艇は目的とする要求を滿していゐる
一、飛行機購入充足は何等海軍政策の方向轉換を意味するものではない、政府は依然として巡洋戰艦建造案は最高の保証を供與するとの意見に變りはない、政府はこの計畫を決定的に放棄せずその實行の時のあるを希望してゐるものである(以下略)
出典
[編集]- ^ a b c d “印度洋防備に和蘭三大戰艦を建造”. Hoji Shinbun Digital Collection. Burajiru Jihō. pp. 02 (1939年5月30日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 126a■その他の国の大型巡洋艦
- ^ a b c 日本との対立抗争 2009, p. 16.
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 126bオランダ海軍巡洋戦艦試案(計画値:試案1047)
- ^ “蘭印海軍擴充に我當局注目”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 01 (1940年3月4日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ a b 日本との対立抗争 2009, p. 6.
- ^ a b c d e f 日本との対立抗争 2009, p. 15.
- ^ “オランダ米國に……蘭領印度防衛方要請 が アメリカ側で躊躇”. Hoji Shinbun Digital Collection. Shin Sekai Asahi Shinbun. pp. 02 (1939年11月8日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ 日本との対立抗争 2009, p. 5.
- ^ “海軍軍備制限條約 外務省公表”. Shin Shina. pp. 03 (1922年2月26日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 4.
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 11.
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 124–126コラム(5)大型巡洋艦
- ^ “獨逸のポケット戰艦 軍縮會議で問題となる”. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 02 (1932年5月5日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 10.
- ^ “獨逸新造の装甲艦 世界脅威の的となる”. Burajiru Jihō. pp. 01 (1929年2月7日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “佛國建艦案を決定”. Burajiru Jihō. pp. 02 (1934年3月7日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “列國の建艦状況 帝國海軍の優秀性 海軍省海軍軍事普及部(上)一、主力艦”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 01 (1939年6月20日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ 日本との対立抗争 2009, p. 9.
- ^ 太平洋二千六百年史 1941, pp. 577–578(原本1039-1040頁)日本と蘭印
- ^ a b “日本の新型巡洋艦 建艦問題に復重大波紋”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 02 (1938年2月21日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ 「日本豆戦闘巡洋艦建造説 英紙報道/各種情報資料・内閣情報部情報綴(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03024303900
- ^ “大艦巨砲主義の米国 巡洋艦の制限徹廢を要求か 三國海軍專門家會議ひと揉め豫想”. Hoji Shinbun Digital Collection. Shin Sekai Asahi Shinbun. pp. 01 (1938年4月17日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “海軍擴張に狂ふ米國 超大型巡洋艦、大航空母艦など 建造の計畫正式發表”. Hoji Shinbun Digital Collection. Shin Sekai Asahi Shinbun. pp. 02 (1940年1月14日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 125–126.
- ^ “戰術を革命化する新型超巡洋艦 日本は目下三艘建造中と米國側で大恐慌の態”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nichibei Shinbun. pp. 03 (1938年4月14日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “日本は一萬四千噸の超巡洋艦艦隊建造 米國海軍省に情報入る”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 02 (1938年4月14日). 2023年10月1日閲覧。
- ^ “國際情勢の反影 和蘭も新艦建造”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippaku Shinbun. pp. 02 (1939年2月25日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “戰闘巡洋艦二隻建造案 蘭印議會で可決”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 02 (1940年4月30日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ 太平洋二千六百年史 1941, pp. 586–587(原本1051-1053頁)四、軍備
- ^ “オランダと蘭印 土語紙・建艦案を論ず”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 01 (1940年5月6日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “米國海軍通常豫算上院通過 總額九億六千四百万弗 日本、四万三千噸級戰艦八隻を建造 海軍作戰部長語る”. Hoji Shinbun Digital Collection. Shin Sekai Asahi Shinbun. pp. 02 (1940年4月20日). 2023年10月8日閲覧。
- ^ “蘭印、巡洋戰艦の建造はやる”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 01 (1940年8月24日). 2023年10月8日閲覧。
参考図書
[編集]- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年1月。ISBN 4-499-22899-9。
- 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3。
- 「Conway's All the World's Fighting Ships, 1922-1946」(Conway)
- 「Battleships: Axis and Neutral Battleships in World War II」
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 財團法人海軍有終會編『太平洋二千六百年史』海軍有終会、1941年11月。doi:10.11501/1270125 。
- ダグラス・E・フォード「太平洋戦争前夜におけるイギリスの極東戦略 1941年」『『戦争史研究国際フォーラム報告書』. 第7回』、防衛省、2009年3月 。
- ヘルマン・Th・ブッセマーカー「日本との対立抗争 : オランダのディレンマ 1904~1941年」『『戦争史研究国際フォーラム報告書』. 第7回』、防衛省、2009年3月 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- (en:Design 1047 battlecruiser)1940年巡洋戦艦案の説明と艦形図がある。(英語)
- CROISEUR DE BATAILLE Croiseur de Bataille Néerlandais1940年巡洋戦艦案のスペックの一案がある。