901運動
901運動(キュウマルイチうんどう)とは、1980年代に日産自動車が「1990年までに技術の世界一になっている」車作りを目標とした運動である。P901活動[1]、901活動、901計画、901作戦、プロジェクト901とも呼ばれる。
概要
[編集]1980年すぎから、ハイソカーブームのあおりで当時25 %前後を維持していた日産自動車の販売シェアが20 %を切るようになり、日産社内でも対策を練っていた。そこで浮上したのが901運動である。この計画は「1990年代までに技術世界一を目指す」という名の下、1990年代まで開発された全車種を対象にシャシー、エンジン、サスペンション、ハンドリング、デザイン、そして品質向上などの技術開発に力を注いだ。
901運動の成果
[編集]この運動の結果、1980年代後半から1990年代前半に発売された、Y60型パトロール/サファリ、N13 - N14型パルサー、Y31 - Y32型セドリック / グロリア、FPY31型シーマ、F31型レパード(特に後期型)、U12 - U13型ブルーバード、S13型シルビア/ 180SX、A31型初代セフィーロ、J30型マキシマ、C33型ローレル、R32型スカイライン、BNR32型スカイラインGT-R、Z32型フェアレディZ、初代インフィニティQ45、B12 - B13型サニー、P10型初代プリメーラ、W10型初代アベニール、R10型初代プレセア、K11型マーチなどの名車を生み出した。
またハンドリング技術としては、ATTESA(FFベース)やATTESA E-TS(FRベース)、後輪制御のHICASやマルチリンク式サスペンション、油圧アクティブサスペンションなどの新開発による向上、SR系、RB26DETTを含むRB系などのエンジンでは性能と耐久性が大幅に向上し、日産のブランドイメージアップと販売回復に貢献していた。
レース活動、1990年代にはWRCにも積極的に参戦していた。
バブル崩壊後の衰退
[編集]しかし、1990年代前半のバブル景気の崩壊で販売台数は下降線をたどり、さらに地球環境対策でリサイクルシステムの構築と推進に巨額の費用を投じなければならず、当時日産自動車の社長であった辻義文は、生き残りの為にコスト削減への路線変更を強力に推し進めることとなり、901運動を終了せざるを得なくなった。しかし、技術力や商品力の低下と言った代償を避けることが出来ず、販売台数はさらに下降線をたどり、日産が経営危機に陥るまでの事態となってしまう。2002年(平成14年)にルノーから派遣されてきた、カルロス・ゴーンがリバイバルプランを達成するまで、日産は不遇の時代を迎える事となった。
このような経緯で901運動は終わりを告げたが、品質向上運動そのものは当時日産と提携して資本参加も行っていた富士重工(現・SUBARU)に受け継がれ、レガシィをはじめとする同社製乗用車の品質向上に大きく貢献した [2] [3]。[要出典]
脚注
[編集]- ^ ベストカーWEB (2019年3月15日). “【伝説のエンジニアが語る】 平成の日産スカイラインGT-R開発秘話”. 講談社. 2020年1月6日閲覧。
- ^ 当時の富士重工業は好調な北米向けの輸出への過度の依存による弊害によって組織の硬直化が進み、1980年代末には専門誌や新聞等で公然と他社による買収や吸収合併、倒産の危機が報道されるほどの厳しい局面を迎えていた
- ^ 当時スバルの主力車種だったレオーネですら晩年までスバル・1000から基本設計が変わらないエンジンとプラットフォーム、3速しか無いAT、手動式チョークのままであるなど、他社車と比較して設計の旧態依然化が進んだことなどにより晩年は販売不振が続けていた