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国家政治保安部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
OGPUから転送)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局
Государственное политическое управление(ГПУ)
組織の概要
設立年月日1922年2月
解散年月日1953年9月
継承後組織
本部所在地ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦モスクワ
監督大臣
  • ((etc.))

国家政治保安部(こっかせいじほあんぶ)、正式名称ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局(ロシア・ソビエトれんぽうしゃかいしゅぎきょうわこくないむじんみんいいんぶふぞくこっかせいじきょく、ロシア語: Государственное политическое управлениеラテン文字表記:Gosudarstvennoye politicheskoye upravlenie)は、ソビエト連邦レーニンおよびスターリン政権下で、反政府的な運動・思想を弾圧した秘密警察ロシア語での略称はゲーペーウーГПУ)、ラテン文字表記GPU)で世界的に知られる。

1923年内務人民委員部から独立して合同国家政治保安部(ОГПУ、OGPU)に改組され、1934年に再び内務人民委員部に吸収され国家保安部(ГУГБ、GUGB)に改称された[1]。1941年に国家保安人民委員部(НКГБ,NKGB)が内務人民委員部から独立した。スターリン死後の1953年に廃止され、ソ連国家保安委員会(KGB)へ改組された。

沿革

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設立

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前身は1917年に設立されたチェーカーである。1922年2月6日にGPUに改名された。反革命分子・反動分子・反体制派の摘発・抹殺を目的としていた。

改組

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ゲーペーウー(ГПУ)は1923年7月、内務人民委員部(НКВД,NKVD)から独立し、合同国家政治保安部(ОГПУ、OGPU)ロシア語版に改組された[1]1923年11月23日、ソ連人民委員会議附属OGPU、通称、統合国家政治局(とうごうこっかせいじきょく)または合同国家政治保安部に改組された[要出典]

スターリンは、トロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにGPUを用いた。また、GPUは圧制に抵抗する民衆や外国人を弾圧し、次々と刑場や強制収容所に送った。

1934年7月に内務人民委員部直轄の国家保安部(ГУГБ、GUGB)ロシア語版英語版に改称された[1]国家保安総局とも訳される[要出典]1937年に全国に設置され、弾圧の対象者を拡大した。かくして密告網がソ連国内各地に張り巡らされ、国民は息苦しい生活を強いられることとなった。

1941年には、国家保安人民委員部(НКГБ,NKGB)が内務人民委員部から独立した。

廃止、KGBへ

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GPUの廃止はスターリンの死後の1953年9月であった。しかし、フルシチョフ政権移行後もGPU関係者への処罰は手緩いものであり、残党は後にソ連国家保安委員会(KGB)として生き残った。

機構

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1934年1月1日時点での OGPU の機構。

  • OGPU長官
  • 副総局長×3人
  • 参与会書記官
  • 総務局
  • 人事課
  • 特別課 - 軍の監視機関。後のスメルシ
  • 秘密警察課
  • 経済課
  • 外国課 - 対外諜報機関。後のKGB第1総局
  • 作戦課
  • 輸送課
  • 特殊課
  • 登録・統計課
  • 特別全権代表
  • 会計課
  • 国境警備総局 - 国境警備隊
  • 労農民警総局 - 一般警察
  • 収容所総局(グラーグ) - ラーゲリを管理

階級

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1935年 - 1943年までの国家保安機関職員の階級。

1943年2月、国家保安上級少佐の階級が廃止され、以下の階級が新設された。

  • 国家保安委員(комиссар ГБ
  • 国家保安大佐(полковник ГБ
  • 国家保安中佐(подполковник ГБ

歴代指導者

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GPU長官

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  1. フェリックス・ジェルジンスキー1922年2月 - 1923年11月)

OGPU長官

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  1. フェリックス・ジェルジンスキー(1923年11月 - 1926年7月)
  2. ヴャチェスラフ・メンジンスキー1926年7月 - 1934年5月)
  3. 代行 ゲンリフ・ヤゴーダ1934年5月 - 7月。以降、内務人民委員)

NKVD国家保安総局長

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  1. ヤーコフ・アグラーノフ1936年12月 - 1937年4月)
  2. ミハイル・フリノフスキー1937年4月 - 1938年3月)
  3. ラヴレンチー・ベリヤ1938年9月 - 1938年12月)
  4. フセヴォロド・メルクーロフ(1938年12月 - 1941年2月。以降、国家保安人民委員)

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c 平井友義「トゥハチェーフスキー事件に関する一試論」スラヴ研究, 20, 81-95,1975,北海道大学スラブ研究センター,p90

関連項目

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