利用者:東トウ
こんにちは。早速ではありますが、以下に私見を書きました。この問題については広く意見を求めたいので、この文章についての疑問点や反論がございましたら、本文下の「議論」という欄に書いて頂きますよう、皆様のご協力をお願いいたします。
根拠のある情報は全て正しいのか?
ある特定の情報・個人・その他もろもろの事物について(賛成にせよ反対にせよ)記述すると必ずこう言う人がいる。「あなたは(△△氏は)、○○のことを××とおっしゃいますが、その根拠はどこですか」という質問だ。この質問自体は悪くない。だが、次のような質問の場合は、時として深刻な状況を招くことがある。
「根拠が明記できない情報は書かないで下さい」というのがそれである。
このような人たちに「では、根拠と言いますと?」と質問すると、殆どの場合こう返ってくる。「貴方の判断の基となった情報の出所、もしくは裏づけとなるデータや統計ですよ(それらがない場合は、ただの主観か中傷ですよ)」云々。なるほど、この理屈は筋が通っているように見える。しかし、私はこう考える。
明文化された根拠については、「全て信用に足るものなのだろうか」と。そして根拠がない情報については、「必ずしも嘘であるとは言い切れない」と。
確かに、情報の出所や著者名が明記されている情報源は、それらがない情報に比べれば遥かに信憑性が高いとみなされがちである。しかし、根拠というものは必ずしも明文化されたものとは限らない。口頭で発言すれば終わりである。それに、しばしば根拠として使われる書籍や論文でさえ、結局は執筆者の主観が入り込むものだからだ。例えばある事物(以下、☆とする)について、Aという学者とBという学者がそれぞれ論文を書いたとする。しかしその中に書かれた☆に対する考察が正反対のことがある。これは論文の類に限らず、あらゆる書籍に関しても同じことが言える。編集者、記事執筆者etc・・・。それらの人たちの主観が入り込むことは不可避である。例えば作品に対する評価などは、評論家と大衆の意見が180度食い違うことが珍しくない(『世界の中心で、愛をさけぶ』などが典型的な例。大衆の観点と評論家の観点は全く違うからである)。また、明文化された根拠があっても、その正確さ自体が疑わしいことが往々にしてある。例えば歴史における南京大虐殺問題・従軍慰安婦問題などがそれである。これらに関しては未だに論争が絶えない。
「では、お前は統計やデータまでも否定するのか」と言う声が聞こえてきそうである。私の結論から言えば、全否定はしないが、全肯定もしない。なぜなら、統計やデータは調査方法や条件によっていくらでも違ってくるし、曖昧な表記によっていくらでも自分の見せたいように見せることが可能であるからだ。血液型診断を想像していただければ、それがよく理解いただけるだろう。こういう面では、ある特定の人物や団体の書物や論文より、不特定多数の大勢の意見の方が正しいこともあるという逆説が生まれるのである。つまり、証拠がないからというだけでは、その情報が間違っているとは言い切れないのである。
また世の中には、「一般的に広く認められている事項」や「根拠を明示したくても、それが事実上不可能であるもの」が存在する(悪魔の証明※注1などもこの中に入る)。根拠至上主義は、こうした中に含まれている可能性のある本質を見落とす危険性を孕んでいる。
更に、出典や著者を表記することによって、全くその情報を知らない人に偏見が生じかねないという問題もある※注2。出典を明記するということは、当然のことながら著者名が明記されるということになる。これは極めて偏った書き方になるおそれがある。なぜなら我々は、「有識者」「専門家」「学者」といった人間の言うことを鵜呑みにしてしまいがちだからである。つまり、「あの△△博士(博士でなくとも、肩書きは何でもよい)がこう言っているのだから、間違いはないだろう」という思考である。結果として、その△△博士の考えが如何に荒唐無稽なものであっても、人々がそう信じ込まされる可能性が出てきてしまう。極論すれば、出典を明記してもらって主観を排除するはずが、主観を垂れ流す結果となることもあるのだ。先述の『世界の中心で、愛をさけぶ』の評価を例に取ると、批評した映画評論家の名前やその出典は明記できるが、肯定した一般大衆の名前は出せない(大衆は不特定多数だからである)。この時に根拠至上主義を押し通せば、出典が明記できる評論家の批判だけを載せて、出典が明記できない一般大衆の肯定的評価は載せられないという不合理が生じる。おかしな話ではないか。
但し、根拠を示さなければならない場面というのも確かに存在する。
まず一つ目は、自分の意見(主観・評論・批評)を述べる場合である。なぜならば、「あなたが××と思った理由は何ですか」と聞かれて、「さあ・・・」「何となく」では全く説得力がなく、話にならないからだ。 もう一つは、ある特定の人の責任や不法行為を指摘する場合や、白黒をどうしてもはっきりつけなければならない時である。これらの場合は根拠をきちんと示さないと、下手をすれば名誉毀損にもつながることになる。かの有名な『ライブドア偽メール事件』はその典型的な例である。
ではどうすればいいのか。
一番よいのは、「○○という情報(事物)に関しては、△△という批判(指摘)がある。しかし□□という切り口で見た場合、必ずしもそうとは言い切れない部分があるのも事実である」というように両論併記を行った上で発表し、どちらが正しいのかは読者の判断に委ねることだ。以下に例文として、JR福知山線脱線事故のページより引用する。
また、近年の電車系列における、高出力の電動車を少数連結して付随車比率を高めた編成形式が、脱線した編成の先頭車が主電動機を積んでいなかったことや、先述の軽量ステンレス車体と相まって脱線を容易にさせ、その反省として事故後しばらくしてデビューした321系では電動車比率を上げた、との報道も相次いだ。しかし、その321系の設計時点から、電動車比率を上げる代わりに電動車一両あたりの主電動機の数を従来の半分としており、該当事故前に既に製造が開始されていたことや、事故を受けて設計変更を行う時間を考えれば、これらの報道は正確とは言い難いという批判もある。(中略)
ダイヤ面の問題を指摘する報道で、福知山線を「過密ダイヤ」と評するメディアが後を絶たなかったが、実際のダイヤにおいては余裕時間こそ少なかったものの、わが国の他の路線と比べ列車本数的に過密であると定義するには言い難い部分もあるとの指摘もある(本数過密ダイヤであれば、朝ラッシュ時の京王線や小田急小田原線の例が有名なように、極端な低速運転を強いられる可能性が高いが、本線でそのような運転はなく、並行する阪急宝塚線と比べても列車本数は少ない)。余裕がなかった、が事実であるとして、どの点において過密問題があるのか、何と比較してのものか、そしてどこを改善するべきか、正確な説明があった報道は少ない。
(引用終)
確かに、根拠を示したほうがよい場合や、根拠を示さなければならない場面も存在する。しかし、度を越した根拠至上主義は時として本質を見誤ったり、間違った方向にバイアスをかけたりする恐れがある。大切なのは根拠のあるなしではなく、その理論や考えがいかに論理的であるかということなのである。根拠をいくら出しても、それが論理的におかしければ何の意味もなさないのだ。
「じゃあ、最初から批評なんて書くな」という意見がある。だがそれは違う。「批評」という言い方がまずいだけである。
仮にこの部分(現在、批評と呼ばれている部分)が抜け落ちれば、その事物がどのような特徴を持っていたか、またその特徴がどのように受け入れられ、次の世代に受け継がれていったのかが掴みにくくなってしまう。
つまり、「この車両は○○という特徴を持っており、△△という面では歓迎されたが、□□という面では××という理由で受け入れられなかった。結果、次に製造された車両では、□□の欠点を☆☆という形で改め、引き継がれていった」ということがさっぱり分からなくなる。「それじゃあ、批評に代わる言葉は何か?」という問いが出てくるが、これは今後の議論によって解決すべき宿題なのではないだろうか。
※注1 悪魔の証明・・・ある事柄が「存在する」ことを示すのに対し、「存在しない」ことを証明するのが極めて困難であることの例え。
※注2 専門書は必ずしもこの限りではない。なぜなら専門書は、その事物に対して興味を持っている人や研究する人が見るものだからである。専門書を見る人はその事物に対しての知識をある程度持っているため、出典や著者名が書いてあっても、バイアスをかけられる心配が少ない。しかしこの場合でも、特定の専門家や評論家の意見だけを載せるのは好ましくない。
議論
[編集]201系のノートのページで少しやりとりを見させていただきました。わたしが意見の食い違いを感じたのは、ここはウィキペディアだと言うことです。ウィキペディアという場所で行動をするのであれば、当然ウィキペディアのルールに従う必要があり、そのルールに従うならば根拠を出さなければならないと言う点です。東トウさんの指摘されてる件は問題提起としては興味深いものがありますが、現在のウィキペディア上では主張しにくい環境ではないかと思われます。ですので、ご自身でwikiシステムを構築されるかご自身のブログ・ウェブ上でその理論を存分に発揮されてはいかがでしょうか?わたしもウィキペディアについては「思いこみが激しく、少し調べれば間違いとわかるのにそれをせずに安易に書き込んでくる方々」が簡単に過去の文章を削除・改編できる編集方針に納得がいかないものがあり、それならばと自分のHPにwikiのcgiをおいて独自にwikiを運用しておりますが、wikiの特徴の1つである不特定多数の編集と言うオプションをオフにして、自分自身しか編集できないようにしています。
「正しいかどうかは二の次」であるウィキペディアの編集方針と、東トウさんの「正しい事を読者が選べる構成にする」主張では食い違いが出るのは当然です。 わたしとしては、東トウさんの主張を何万人いるかわからないウィキペディアに携わってる方々にお願いするよりも、東トウさん自身が東トウさんの主張に見合うwikiを運用してみて、その結果としてウィキペディアの問題点を追求してもらいたいですね。 仮に東トウさんが独自のwikiを立ち上げられたとしても、現在ウィキペディアに参加している方々が協力してくれるとは限りません。むしろそれはほとんどアテにできないでしょう。ですので、立ち上げ当初は全ての文章を東トウさんが書いていくしかない、とても膨大な作業量になります。 それでも、東トウさんが自分の主張を立証したいのであれば、その作業量は当然負担せねばならないものだと考えます。 東トウさんが新しい考えで造られたwikiシステムが優秀なものであるなら、口利きや、それこそウィキペディア内でも紹介されるかもしれません。 そして、そうやって知名度があがれば、東トウさんの新しい考えに賛同して協力してくれる方々が増えてくるかも知れません。 常に新しいことをする、主張する、そしてそれを認めてもらう為には大変な努力を伴うわけですが己が何かを主張する以上、その努力は必要不可欠なものです。 わたしとしては、両論併記(場合によっては収拾がつかないほどの論が出る可能性もあるが)でその中から読者が選ぶというシステムで辞書を見てみたい気はします。ただ、問題点もたぶんイロイロと出てくるでしょうから、実証実験をしていただいて、現在の成熟しつつあるウィキペディアシステムとの違いを見せていただきたいと思っております。--永尾信幸 2006年9月29日 (金) 23:57 (UTC)
大事なことを書き忘れました。悪意の持った協力した多数の人間によるアラシ行為への対応をどのようにされるのでしょうか?たとえばわたしは103系のページしかほとんど出没しないのですが、103系が嫌いな面々が集まって、それぞれ時間差を置いて「○○線の103系は故障が多い」と書き込んだらどうなるでしょう。まったく事実に無いことでも複数の人間が集まることで、あたかも事実が存在したかのように記述できてしまいます。それも1つの意見であると考えるのも方法でしょうが、そうなると自分の思いと違う事が書かれていたら、できるだけ自分の思いに近づけようと第三者に自分の主張を書き込むように依頼する事も可能です。それによって自分の考えが多数に支持されていると見せかけることができます。そのあたりのアラシ行為に対する対処方法はどうされるおつもりでしょうか?
極端に言えば103系の欄で「山手線向けに製造された」「本来、山手線の500両を作って製造終了のはずだった」「MT54ベースの車両も検討された」「失敗作であった」「山手線では良く走ったが京浜東北線では不評であった」「CS30の量産は組合の反対でボツになった」「京浜東北線は日中7両編成で走る予定であった」「京浜東北線では常に100キロの速度が出た」「103系の本来の性能は120キロ運転もこなせる」等々、適当に語句を並べただけですが、いくらでも妄想モードで記事を作っていけます。見に来た方が複数の意見の中(当然、各意見が矛盾してる事も多い)から本当に選ぶ事ができるのでしょうか?
理想を求めるには、まず問題と向きあわなければなりませんので、問題と思われる点を書いてみました。--永尾信幸 2006年9月30日 (土) 00:34 (UTC)