利用者:Cantcandidas
自分の職業上の専門領域などを利用し記述できる内容を記述していきます。逆に職業上誤りと思えるものはソースを確認した後に「出典が信用できない」として摘発します。そのまま待って何も起こらないなら当然削除します。「要出典」のまま放置される記事が多く、もはや要出典はwikipediaの恥部として揶揄されることがありますが、要出典のまま放置され続ける状況が正しいとは思えません。
ただし、私の職業上も明らかに正しいと思える記述なら、当然出典が不明確でも文句を言いません。
なぜか?出典が正しいか否かは主観的要素でしかなく、自分の信頼する出典しか認めないという思想は荒らしより悪質だからです。通常、出典が不可解なら孫引きで出典までさかのぼって、そこまで確認して削除に当たるべきでしょう。そうでないなら荒らしと何ら変わりません。
情報は多かれ少なかれ「恣意性」を含むというのが現代情報社会学の「定説」です。なぜなら事実を「載せる」という行為は、「載せない事実を選ぶ」という行為と同義だからです。必然的に情報は偏向し、本当に中立な情報はありえません。「記事」の情報量が絶対的に「事実」より劣る以上、恣意性は避けられません。
もしこれを理解せずに、客観的な情報を載せられると勘違いしているなら大変な笑い話です。本当に「中立」を望むなら、情報削除ではなく、反対意見を載せることで情報量を増やし、出来る限り恣意性を減らすのが合理的でしょう。情報が増えて判断材料が増えるほど、その「記事」は「事実」に近づくからです。そうすると誤情報が増えるという問題が出ますが、そもそも人間がたとえ事実に立ち会ったとしても、全てを正しく認識できるわけではありません。嘘か本当かは、たとえ事実に立ち会ったとしても確実に得られる概念ではないです。いわゆるリテラシーですね。
タレントが起こした大きな事件を歴史として書き込むのが悪なのか?逆に本人にとって有利なことを書くのは善なのか?明らかに、事実は誰かに有利不利を与えざるを得ないです。もし情報の「中立性」を、誰かの利害として解釈するならwikipediaそのものを廃止するべきです。結局中立性は、「賛成反対双方の意見を載せる」ことでしか解決できません。
インターネットの情報は永遠に残るものとして、実は識者の間では問題視されています。特に日本人は問題を起こした人間に「更正」ではなく「隔離」を臨むため、自分の小悪事から目を逸らしてでも勧善懲罰理論を崩そうとしません。その中で個人の過去(つまり起こした事件)がインターネットとして「消えない」ことは、大きな損失を生むという意見も確かにあります。しかし残念ながら、その極めて困難な社会倫理的問題を考慮するなら、wikipediaはそもそも存在してはならないというのが結論です。
こういった背景から、web新聞ではある程度時間が経つと記事を削除することが殆どです。そのためwebニュースをソースとしたwikipedia記事ではソースを消失してしまいますが、だからといってソース消失として記事を消すなら、wikipediaに存在価値は無いでしょう。それを考慮して「ニュースの転載先ブログ」をwikipediaのrefに指定したとき「そのブログは個人のもので検証可能性を満たさない」と述べるなら、自称ウィキペディアンとやらは大きな矛盾に気が付いていないといえます。