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メモ
[編集]諏訪動物園
[編集]亀井一成
[編集]商工祭
[編集]- 第一回商工祭は昭和11年4月22日行われた。大阪市で昭和8年から大阪城内の広場で盛大な大阪商工祭が開かれておりそれに続き昭和11年5月から神戸市が神戸商工祭を開催しようとしているのがわかった。
- 昭和20年3月16日深夜から17日未明にかけてあった神戸大空襲での被害。神戸西部地方は焦土と化したが社務所などのガラスが破損した程度で被害は軽微であった。
- 第11回、昭和23年4月21から23日の第13回の商工祭にはアメリカ進駐軍司令官メノア代将来社。
- 第34回、宝塚音楽学校生徒 小柳留美(小柳ルミ子)による古式神楽奉納があった。
有井基
[編集]有井基(ありいはじめ)1932年、兵庫県三田市生まれ。関西学院文学部史学科卒。元神戸新聞記者。神戸史学会常任編集委員。兵庫史学会会員。
著書
[編集]- 『神戸史話 近代化うら話』創元社 落合重信 有井基著 1967
- 『怨霊のふるさと 兵庫のミステリー』 のじぎく文庫 有井基著 1972
炬口八幡神社
[編集]- 兵庫県淡路島洲本市炬口。式内社中最古。醍醐天皇、延喜21年京都石清水八幡の分霊。
宝物
[編集]- 新田義貞の甲冑
石碑
[編集]市家顕彰碑
参考文献
[編集]- 淡路之誇 上巻 片山嘉一郎 編/実業之淡路社 1928 p.60,p.142
- 島の歩み-淡路歴史年表- 浜口季寛
- 僧咲雷-河野(坂本)癸園伝- 浜口季寛
メモ
[編集]- 新日本人物大系 上,下巻 東方経済学会 昭11
- 淡路之誇 片山嘉一郎 編/実業之淡路社
- 長田神社
- 八雲橋 文化9年(1812年)架橋された。
- 谷御所橋
- 長田小学校
- [Richard S. Varga]
- [W. Daniel Hillis]
池長孟
[編集]池長孟 。明治24年11月24日生まれ。大正8,9年頃美術に興味を持ち始めた。その後、大正12年私立育英商業高校(現在の育英高校の前身)を引き受け2代目の校長となった。 昭和14年葺合区熊内町に池長美術館が建てられた。 池長による南蛮美術の定義
著書
[編集]- 邦彩蛮華大宝鑑―池長蒐集品目録 創元社 1933年
- 『南蛮堂要録』 池永美術館 1940年
- 紀元二千六百年記念開館陳列品目録 池永美術館 1940年
- 南蛮美術総目録―旧池長コレクション 東洋書院 1994年 ISBN 978-4885942198
参考文献
[編集]- 神戸史話
- 『牧野富太郎と神戸』 神戸新聞総合出版センター 2008年 ISBN 978-4343004949
- 『金箔の港―コレクター池長孟の生涯 』 高見沢たか子 筑摩書房 1989年 ISBN 978-4480854902
- 『南蛮美術総目録』 市立神戸美術館刊 1955年
- 『池長孟君追憶志』 池永孟君を偲ぶ会世話人 1955年
石井象二郎
[編集](いしいしょうじろう)1915生まれ 1946京都大学農学部卒業、農業技術研究所を経て、京都大学農学部農薬研究施設教授。農学博士。昆虫生理学専攻。
著書
[編集]- 『昆虫の生理活性物質』(南江堂)
- 『昆虫学への招待』(岩波書店)
- 『害虫との戦い』(大日本図書)
- 『昆虫行動の化学』(培風館)
- 『行動から見た昆虫』(培風館)
- 『農薬と防除機具』(産業図書)
- 『ミバエの根絶:理論と実際』(農林水産航空協会)
- 『虫に食べられないアズキを求めて 一昆虫学者の戦中と戦後』(偕成社) 1995年 ISBN 4-03-745020-8
- 山内佐太郎
- 僧咲雷-河野(坂本)癸園伝-
1827-1881幕末-明治時代の儒者。 文政10年9月9日生まれ。はじめは僧で白蓮と号した。学問をこのみ,河野杏村,村上仏山らに師事。 さらに江戸で大沼枕山(ちんざん)らとまじわる。 明治のはじめ還俗(げんぞく)し,大阪で杏村の塾をつぎ,白蓮池館塾と称した。明治14年12月19日死去。 55歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。名は亮。字(あざな)は亮平。著作に「白蓮池館詩鈔」 名は亮、字は亮平。葵園は号。淡路三原郡上堺村の人。 はじめ僧となり、炬口浦成願寺の主となって白蓮と号した。少にして学を好み、岡田鴨里・河村杏村に師事。 明治維新に際して、名教を興すを己れの任とし、 僧籍を捨て儒をもってたち、大阪に出、杏村の塾をつぎ、 その姓をなのり塾を白蓮池館となずけた。毎日放課後、淀川の沿岸を散歩し、 詩を考えた。 両拳を肩の辺に入れた一種奇妙な容貌は、一見して葵園とわかったという。のち塾を杏村の子・春?(馬+風)にかえし、 本姓坂本に復した。 かつて村上仏山の塾に入り、業成って江戸に赴き、大沼枕山らと交った。 藤沢南岳・土屋鳳洲と親交し、 かつて歳寒社をおこし、風教の維持に努めた。 著書に『白蓮池館詩鈔』付二篇・三篇三巻、『白蓮池館遺稿』一巻がある。 死後、門人が文節居士とおくりなし、大阪市南区梅松院に葬られるが、[[多磨霊園]]に改葬された。 ※坂本(河野)葵園 淡路島中貞吉の四男、名は亮、別号白蓮居士。藤澤東がい<田+亥>の愛弟子・河野家の養子となるが明治十二年一族の坂本家を再興し、 葵園坂本良平と称した。村上佛山、岡田鴨里にも師事。後一族の坂本家を継ぐ。伏見町※に私塾「白蓮池館」を起こした。高見照陽、石津灌園、 小原竹香、田能村直入、石橋雲来と親交。藤澤南岳・土屋鳳洲(弘)とは特に親密に交際した。明治14年歿、54歳 ―大阪人物辞典― ※伏見町は当時の森琴石自宅の近所。
苅藻川
[編集]神戸市長田区を南北に縦断して流れる河川。特に長田神社近辺は宮川とも呼ばれ、周囲の町名、宮川町の元にもなっている。
歴史
[編集]縄文・弥生時代、現在の苅藻川周辺の地質・遺跡の痕跡から、海面が現在より高く、現在は駒ケ林の新湊川の河口から長田神社付近まで
約2.5km程あるが、かつては河口からは長田神社の付近まで500m位と、かなり海が内陸に入り込んでいたことが分かっている。
元来、大阪湾に河口があったが、明治時代に湊川の付け替えが行われて以来新湊川と合流する地点より下流は新湊川とされるようになった。
「平家物語」や「増鏡」、「万葉集」にも登場する古い地名である。昔、赤エイが長田神社のあたりまでさかのぼってきていたという伝説がある。
昭和13年の阪神大水害の際には氾濫した。
周囲の史跡
[編集]
市秋弘
[編集]亀田慎二
[編集]日誌
[編集]2011/01/15
[編集]考えながらちまちま編集してたら(wikiシステムの利点だと思うのですが。。)ログが汚くなるから一括してアップしてくれって怒られた〜。
編集する人が少ないようなマイナーな項目について、
知識が消えると嫌なので活動したいと思っていたけど、こんなしょうもないことで注意されるとは思わなかったのでとりあえず編集する予定の
書き終わったらバカバカしいからやめるかな。。。。
めちゃくちゃ間違ってるのが放置されてる項目あるのに怒られへんのになぁ。独り言。独り言
2011/01/21
[編集]wikipediaはとんでも排除のために独自研究は避けることになってるけど、タレントなのか研究者なのかわからない某とんでもさんの項目は一体どうなのだろうと思った。
2011/01/27
[編集]聚楽館作成
2011/02/05
[編集]IMDBへのリンクを幾つかはった