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利用者:UserTanaka

UserTanaka

自己紹介

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  • アマチュアの科学者
  • 趣味:To Research, to Learn and to Study.

Combining also self introduction from my blog.

To Carl Segan, Professor Space Science of Cornell University, and he wrote the book as title of the "The Demon-Hunted World".

That is it meant verification possible thing even in principle, and, religion means to set foot in the round sand ring of science compulsorily. Now religion at each time you insist what concerning existence, decided that the right and wrong is questioned by all means.

If in reason, "religion" is not verified scientifically, it is not that the necessity to believe it.

It is verified scientifically,
1. "Whoever even seeing, whoever doing", you always can obtain the same result.
2. Transparency is guaranteed at the time of processing between "theoretical" empty "verification".
3. It is always at the same time "actual proof possible", and the verification method and process of theorization, furthermore, you can always obtain the same answering regardless of the size of the system.
4. At the time of processing "the theorization", deductive characteristic mortgage is done concerning the theory.
5. At the time of processing "the actual proof conversion", rule of thumb mortgage is done concerning the actual proof method.
6. It is "data oriented".
7. The method is handing down possible.

If above 7 points are not satisfied, scientific method you cannot say in it. These 7 points, it calls sufficient condition necessity due to scientific method.

Reference:
Ideas and Opnion, Albert Einstein, Wings Books 1954, NY. ISBN 0-517-00393-7
Relativity Albert Einstein, Three Rivers Press 1931, NY. ISBN 0-517-88441-0
The Demon-Hunted World Carl Sagan -Science as a Candle in the Dark-, Carl Segan, Ballantine Books 1996, NY. ISBN 0-345-40946-9

Appendix:
Therefore with saying, there is no air which denies super normal phenomenon. If it is proper that only verification method, therefore it is the phenomenon which it should understand sufficiently. In other words, as for the scientist when opinion is reserved, understanding. In addition, there is the doctrine "of religion", concerning "ethics" there is no either air which is denied. Therefore as for the religion in today, it is understanding that propriety is the ethical doctrine. Especially, if you consider to role of the church having formed the basis of the social community in Christian countries, because it is not necessary to deny it.

尊敬する人

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趣味

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読書

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専門書

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音楽鑑賞

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クラシック

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Japanese Pops

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Oversea Pops

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最近読んだ本

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at Present times 01/Jan/2005 - 21/May/2005

Regal Notice: As for issue year, it is the year when occurs copyright of the writer.

得意分野の記事

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  • 天文学
  • 物理学
  • コンピュータサイエンス
  • 音楽(クラシック)

その他

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以前、知的財産権(特許情報)に関する仕事をしていたため、その辺りの知識があります。
現在、自分自身で勝手に書いているblogは「コモン・クリエイティブ・ライセンス」扱いにしています(CCL BY)。
Wikipediaの場合には、GFDLということですので、非商用目的(殆ど、公務員状態ですね)の文書を作成しています。
ちなみに、論文等を書くためには引用元(Reference)を探すだけで大変なのです。

独り言

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日本語のアカウント、英語のアカウント、ドイツ語のアカウント、スペイン語のアカウントを作ってみた。ちなみに、どれも同ユーザ名とした。この後、フランス語イタリア語も作ってみる予定。なぜならば、問題があると困るからである。

さて、気が付いたことは、言語を変えるたびに、一々ログインをしなければならないということ。「マルチ言語で記事を書いてみよう」と考えている人は、困るだろうなと思う。 私自身、日本語から英語へ翻訳した後、機械翻訳を通して、それらの言語の記事を書いてみようとしている。

実際に、モーツアルトの38番交響曲で試してみた。この際、面白い現象が見られた。「フィガロの結婚」のリンクがはずされて、「ドン・ジョバンニ」のスペルを修正してもらって、リンクが「ドン・ジョバンニ」へ変わっていた。これは、英語版での現象。多分、男性的な「ドン・ジョバンニ」が海外では人気があるということ。まあ、男だったら、普通でしょう。 ドイツ語版では、書いた記事に対して削除依頼が出た。多分、元記事がドイツ語文献からであり、それを日本語に直したHomePageからの引用だったからかも知れない。つまり、ドイツの人たちにしてみれば、周知の事実記事になる可能性があるということ。モーツアルトに関しては、初等教育で受けているだろうから。

本当に、世界的に見ると「常識」というものは、各国の文化に根ざしているので難しいのである。つまり、外から見れば、非常識に見えることが、中に入ってみないと、常識にならない。しかし、人間の行為であるから、基本はそんなに変わらないと考えている。 しかし、いえることは、記事を書くという行為は、非常に難しいのである。特に、翻訳というプロセスを介しているわけだから。その分だけ、書く方にしてみれば、非常なまでのエネルギーが必要になるわけですから。

無論、私自身、一般の通訳の人たちと同じく、英語から日本語へも可能。この際も、機械翻訳を通して、上記言語から英語に変えるという手法を使っている。ちなみに、翻訳エンジンは、SYSTRAN5.0とYahoo 翻訳

今のところ、Wikipedia全体の記事数から見れば、英語が最大、ドイツ語が2番目、日本語は3番目です。 GNP比から見ると、英語圏No.1、EU圏No.2(公式言語は、英語フランス語だったりする。)、日本No.3だから、正しいのかも知れない。日本語から英語へ、日本語からドイツ語へという流れを作るまでにはいたっていないことは、ちょびっと悲しい。

歴史記事に関して、 外から見た歴史と、内から見た歴史とでは食い違う場合がある。 基本的に、歴史書の編纂の仕方がそれぞれの国の文化に由来するためであろうと考えられる。基本的に、その食い違いを防ぐためには、それぞれお互いが持つ、「歴史資料エビデンスまたは証拠)」を照らし合わせて、その中でお互いの認識をあわせる必要があると考えられる。一番重要なことは、「学術的」に見ても、「科学的」に見ても妥当な結論が得られるような記述が求められていると考えられる。近年は、C測定法やその他、科学測定方法の進歩により、正確な年代測定が可能になりつつある。お互いが提示するべき「歴史資料」に関しては、その辺りも気をつけないと難しいと考える。なお、近代以降の日本の考古学及び歴史学の伝統は、関連する資料を調査し、その上で歴史資料の評価を行うというプロセスを経てきた。一時期、歴史資料の捏造という、これまた悲しい事件があったことは確かである。

しかし、大方の考古学者や歴史学者は、このような事件を防止するために多観点からの評価を経るようにしてきたことも確かである。このようなプロセスを経ることで、歴史認識というものは正確かつ公平なものとなるのである。つまり、ドイツにおける歴史教科書作成というものが、他の国との協議で行われているということは、ありのままの歴史資料をお互いに提示しあうことで生じているのである。そのことによって、自らの国の歴史及び自らの位置づけが世界史の上で明確になる。その視点から、歴史教科書が編纂されていると考えることは妥当であろう。なお、日本においても、このような試みはされてきたし、私達の世代の使ってきた教科書はそうであったと書いておきたい。

正確な「歴史認識」とは、正確な「歴史資料」から得られるものであると考えられる。これは、グローバル・スタンダードな、気がする。ついでに、これが「学問」の持つ誠実さそのものでもある。

関連項目

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