コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

朝永振一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝永 振一郎ともなが しんいちろう
1965年、ノーベル物理学賞を受賞した当時
生誕 1906年3月31日
日本の旗 日本 東京府東京市小石川区
(現・東京都文京区
死没 (1979-07-08) 1979年7月8日(73歳没)
研究分野 物理学
研究機関 京都帝国大学
理化学研究所
東京教育大学
プリンストン高等研究所
出身校 京都帝国大学
主な業績 繰り込み理論の発明による量子電磁力学の発展への寄与
主な受賞歴 文化勲章1952年
ノーベル物理学賞1965年
勲一等旭日大綬章1976年
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1965年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:量子電気力学分野での基礎的研究

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年明治39年)3月31日 - 1979年昭和54年)7月8日)は、日本物理学者。理学博士(東京帝国大学・1939年)。東京教育大学名誉教授。

相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民[1]

生涯

[編集]

生い立ちと学生時代

[編集]

1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(長崎県大村藩士の出)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。幼少期は病弱であったと伝えられる。

父の三十郎は著名な哲学者(京都学派の一員)で、1913年に京都帝国大学教授就任に伴い、一家は京都市に転居し、錦林小学校に転校する。振一郎は次第に自然に興味を持つようになり、虫眼鏡で実験を行ったり、電信機や顕微鏡レンズを自作するなどしていた。哲学者の息子だったが、後年に「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている[2]

京都一中(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校京都帝国大学理学部物理学科を卒業。学生時代は女浄瑠璃寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。

物理学者として

[編集]

京大助手

[編集]

京都帝国大学理学部物理学科卒業後、京都帝国大学の無給副手に着任する。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であった。無給副手時代、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。

この無給副手時代を後年振り返って、「湯川さんのこの勉強の進行ぶりに反して、不健康と無理な試験勉強ですっかり疲労困憊し、はげしい劣等感にとりつかれたものにとっては、そのようなむつかしい分野に進む決心はとても起らない。何かもっとやさしい仕事はないものか、何でもよいからほんのつまらないものたったひとつだけでもよいから仕事をし、あとはどこかの田舎で余生を送れたら、などと本気で考えていた。こんな暗い日が三年間ほどつづいたが、こういう状態からぬけ出させてくれたのは、仁科先生との出会いであった。」[3]と語っている。

第二次世界大戦時、理研・海軍時代

[編集]

1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。

ドイツのライプツィヒ大学に留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学場の量子論を学んだ。

1937年、ニールス・ボーアが来日。

1941年、東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。

理研時代からマグネトロン(磁電管)の発振機構の研究等を行い、レーダーの基幹技術にもなるマグネトロンの振動理論を完成させた。戦時下においては、湯川秀樹らと共に帝国海軍の電波兵器開発に協力し、海軍技術研究所(海軍島田実験所、第二海軍技術廠牛尾実験所)に所属した[4][5][6]。「運転中のエンジンを電波で停止させる実験」や「ウサギへの電波兵器照射実験」などに成功し、驚異的な成果を上げたが、本願のB29撃墜兵器の開発には至らなかった[4]

1942年、遣独潜水艦作戦に成功した海軍は、入手したウルツブルグの情報や最新のハイゼンベルク論文を朝永振一郎に提供し、朝永は基にレーダー理論の研究を行っていた。朝永の理論をこれを応用した導波管の研究論文は機密指定され陸軍は閲覧できなかったことから、民間出身の南部陽一郎(陸軍技術中尉)に対し研究者との接触などの機会を狙い機密文書を盗み出すよう命令が下ったが、南部は朝永本人に直接頼むことにより入手したという[7]

戦後

[編集]

戦後、大戦中に行ったマグネトロンや立体回路の研究により、1948年に小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞。

1949年、東京教育大学教授。

プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行う。教授となってからも東京大学の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による落語を演じるなどして、洒落っ気が多かった。

1946年、朝日賞を受賞した。「そのうち朝日賞をもらったが、これは大助かりであった。このお金をつぎこんで畳を十枚買い、学校の大久保分室のやけ残り小屋に居をかまえた。」と語った。(江沢洋編『科学者の自由な楽園』ー 十年のひとりごと に掲載)

1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するための繰り込み理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年秋にジュリアン・シュウィンガーリチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞した。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかった[注釈 1][注釈 2]。朝永は先に受賞した湯川より年上であり、更に年上の川端康成が文学賞を受賞するまで日本人最高齢の受賞者となっていた。なお、朝永は湯川より先に亡くなっている。

1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年に日本学術会議会長を務めた。晩年は学校などでも講演を行い、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1978年喉頭癌により手術を行ったため声を失った、翌79年に再発悪化し亡くなった。墓所は京都市東本願寺の他、東京西部の多磨霊園にも分骨された[12]

略歴

[編集]

著書

[編集]

1949年に出版された『量子力学』は、日本語で書かれた量子力学の教科書の定番として長年読み継がれており、1963年には小柴昌俊による英訳版が刊行。更に1998年には『スピンはめぐる』の英訳版が刊行された。物理学・量子力学の一般向けの啓蒙書を多数執筆しており、歿後の1980年には『物理学とは何だろうか』で大佛次郎賞を受賞した。『量子力学』、『物理学とは何だろうか』は共に未完であった。みすず書房で「著作集」が没後出版された。

単行本

[編集]
  • 『量子力学』 第1巻、東西出版社、1948年。 
  • 『量子力学』 第1巻、東西出版社〈現代物理学大系 第25巻〉、1949年。 
  • 『量子力学的世界像』弘文堂〈アテネ新書 第2〉、1949年。 
    • 『量子力学的世界像』弘文堂、1965年11月。ISBN 4-335-75001-3 
  • 『物理学読本』学芸社、1951年。 
  • 『量子力学』 第1巻、学芸社〈物理学大系 基礎物理篇 第8巻 第1冊〉、1951年。 
  • 『量子力学』 第1巻、みすず書房、1952年5月。 
  • 『量子力学』 第2巻、みすず書房〈物理学大系 基礎物理篇 第8巻 第2冊〉、1953年。 
  • 朝永振一郎(述)『原子論の発展』仁科記念財団、1962年。 講演冊子
  • 朝永振一郎(述)『放射能の話』仁科記念財団、1963年。 講演冊子
  • 『鏡のなかの世界』みすず書房、1965年。 
  • 『科学と科学者』みすず書房〈みすず科学ライブラリー 8〉、1968年。 
    • 『科学と科学者』みすず書房、1980年4月。 
  • 『スピンはめぐる 成熟期の量子力学』中央公論社〈自然選書〉、1974年。 
  • 『庭にくる鳥 随筆集』みすず書房、1975年。 
  • 鏡の中の物理学講談社〈講談社学術文庫〉、1976年6月。ISBN 978-4-06-158031-2https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000149649 
  • 『わが師わが友』講談社〈講談社学術文庫〉、1976年8月。 

著作集

[編集]

共著・編著・共編著

[編集]
  • 仁科芳雄富山小太郎『量子力学 概論』共立社〈量子物理学 1〉、1938年。 
  • 水間正一郎、高尾磐夫『超短波磁電管』コロナ社、1948年。 
  • 『原子核から素粒子へ』藤岡由夫 共編、弘文堂、1949年。 
  • 弘文堂編輯部 編『物質とは何か』弘文堂〈アテネ文庫 第60〉、1949年。 
  • 共著『極超短波理論概説』リスナー社、1950年。 
  • 『物理学大系 第1篇 第6巻』共編、学芸社、1951年。 
  • 伏見康治共 編『現代自然科学講座』 第1巻~第12巻、弘文堂、1951-1952。 
  • 編『物理学読本』みすず書房、1952年。 
  • 小谷正雄 共 編『極超短波磁電管の研究』みすず書房、1952年。 
  • 玉木英彦 共 編『仁科芳雄 伝記と回想』みすず書房、1952年。 
  • 編『物理の歴史』毎日新聞社〈毎日ライブラリー〉、1953年。 
  • 藤岡由夫 共 編『原子核から素粒子へ』弘文堂、1953年。 
  • 伏見康治 共 編『理論物理学新講座』 第1巻~第16巻、弘文堂、1953-1954。 
  • 編『宇宙線の話』岩波書店〈岩波新書〉、1960年。 
  • 湯川秀樹坂田昌一 共 編『平和時代を創造するために 科学者は訴える』岩波書店〈岩波新書〉、1963年。 
  • 監修『原色フレンド百科大事典』文英堂、1967年。 
  • 湯川秀樹・坂田昌一 共 編『核時代を超える 平和の創造をめざして』岩波書店〈岩波新書〉、1968年。ISBN 4-00-411106-4 
  • 湯川秀樹と『物理学者群像 対談』仁科記念財団、1972年。 講演冊子
  • 湯川秀樹、豊田利幸 共 編『核軍縮への新しい構想』岩波書店、1977年8月。 
  • 共著『素粒子の世界』学生社〈科学随筆文庫 5〉、1978年6月。 

翻訳

[編集]

英訳

[編集]
  • Shinichiro Tomonaga (1962). Quantum mechanics (Hardcover ed.). Interscience Publishers 
  • Shinichiro Tomonaga (January 1998). The Story of Spin (Hardcover ed.). Univ of Chicago Pr (Tx). ISBN 0226807932 
  • Shinichiro Tomonaga (October 1998). The Story of Spin (Paperbuck ed.). Univ of Chicago Pr (Tx). ISBN 0226807940 

回想・伝記

[編集]

師匠・弟子

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 酒で酩酊し風呂場で転んで骨折した(朝永自身、エッセイに書いている[8])。これに関して、酒井邦嘉は『科学者という仕事』(中公新書、2006年)で朝永が「ノーベル賞を貰うのは骨が折れる」(亀淵迪「朝永先生とユーモア」TOM(朝永記念室報)1, 15-17 1983年)と言ったことを紹介している。
  2. ^ 入院後、ノーベル財団から外務省を通じて、授賞式に出席できない場合の対応として「在スウェーデン日本大使鶴岡千仭(当時)が授賞式に出席して、代理で受賞する」「授賞式と同じ日に東京の在日本スウェーデン大使館で、朝永本人が大使から受賞する」という選択肢を打診され、朝永は後者を選択[9]。12月10日(ノーベル物理学賞授賞式当日)に港区のスウェーデン大使館で挙行された「授賞式」で、高松宮宣仁親王喜久子妃佐藤栄作内閣総理大臣ほか約100名が列席する中、スウェーデン大使から賞状とメダルを授与された[10]。なお翌1966年5月6日に、ストックホルムで授賞記念講演を行っている[11]

出典

[編集]
  1. ^ 武蔵野市名誉市民
  2. ^ 『毎日情報』第6巻・第1号, p.100。毎日新聞社, 1951年
  3. ^ 『自然』1962年10月号、『鏡のなかの世界』収録
  4. ^ a b 産経新聞 (2015年8月19日). “【戦後70年 戦跡を行く】海軍島田実験所(島田市)”. 産経新聞:産経ニュース. 2024年11月28日閲覧。
  5. ^ B29へ「電波兵器」 反戦ノーベル賞学者も研究の過去:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2020年8月23日). 2024年11月28日閲覧。
  6. ^ 生命情報科学の源流 | WEB連載 | 大人の科学.net”. otonanokagaku.net. 2024年11月28日閲覧。
  7. ^ 『日経サイエンス』日経サイエンス社、1995年4月号、91頁
  8. ^ 朝永 1996, p. 88.
  9. ^ 「講演はスウェーデン、受賞は東京で 朝永氏が回答」、『朝日新聞』1965年11月27日朝刊(東京本社版)、14頁。
  10. ^ 「朝永博士 晴れの授賞式 スウェーデン大使館でノーベル物理学賞」、『朝日新聞』1965年12月11日朝刊(東京本社版)、1頁。
  11. ^ 「朝永博士 ノーベル賞記念講演 ストックホルム」、『朝日新聞』1966年5月8日朝刊(東京本社版)、14頁。
  12. ^ 朝永振一郎”. www6.plala.or.jp. 2024年12月7日閲覧。
  13. ^ 「ノーベル賞候補 日本6人」共同通信2014年8月14日
  14. ^ ノーベル賞候補日本6人 1951〜63年、物理・化学賞 選考資料、米専門家が確認 :日本経済新聞
  15. ^ 日本の天文学者の系図

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]