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レフ・ランダウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Lev Landau
レフ・ランダウ
生誕 Lev Davidovich Landau
(1908-01-22) 1908年1月22日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 バクー県
死没 1968年4月1日(1968-04-01)(60歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 モスクワ
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
研究分野 理論物理学
出身校 サンクトペテルブルク大学
ヨッフェ物理学技術研究所
指導教員 ニールス・ボーア
博士課程
指導学生
アレクセイ・アブリコソフ
他の指導学生 エフゲニー・リフシッツ
主な受賞歴 ノーベル物理学賞 (1962)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1962年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:凝集系の物理、特に液体ヘリウムの理論的研究

レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウロシア語: Ле́в Дави́дович Ланда́уLev Davidovich Landauリェーフ・ダヴィーダヴィチ・ランダーウ1908年1月22日 - 1968年4月1日)は、ロシア理論物理学者。

絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究によってノーベル物理学賞を授与された。エフゲニー・リフシッツとの共著である『理論物理学教程』は、多くの言語に訳され、世界的にも最も高度な専門書のひとつとされている。

生涯

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幼年期

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ランダウ一家(1910年)

ランダウは1908年1月22日に、当時はロシア帝国の一部だったアゼルバイジャンバクーにてユダヤ人の家庭の第2子として誕生した[1][2][3][4]。父ダビッド・ルボヴィッチ・ランダウは裕福な石油技術者だった。母リュボフは貧しいユダヤ人家庭の出身で、科学や教育に関し非凡な能力を発揮した。薬理学に関する論文や教科書を執筆し、ユダヤ人学校で子供の教育に携わるなど、教育熱心な女性だった。ランダウの人格形成や科学的才能の開花については、母リュボフの影響が大きかったとされる[5]。子供の頃は数学の神童と呼ばれ、12歳で微分法、13歳で積分法を理解した。

1920年に13歳でギムナジウムを卒業した。両親は大学に入学するには早すぎると考え、1年間バクー経済技術学校に通った。1922年に14歳でバクー国立大学に入学し、物理数学科と化学科を同時に受講した。その後、彼は化学の勉強を止めたが、生涯を通してこの分野にも興味を持ち続けた。

レニングラードとヨーロッパ

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1924年16歳でレニングラード国立大学に移り、1927年に19歳で卒業して学位を取得した。同大学は当時のソ連における物理学研究の中心地であった。同年、エネルギー密度行列の概念をフォン・ノイマンと並行する形で独自に発見した。大学卒業後はレニングラード物理工学研究所に在籍して磁場中の電子の運動、量子電気力学の研究を行い、1934年に博士号を取得した[6]。1929年から1931年にかけて、ロックフェラー財団の奨学金を得て国外留学に旅立った。その時までに彼はドイツ語フランス語に堪能で、英語でもコミュニケーションすることができた[7]。後に英語を上達させ、デンマーク語も学んだ[8]

ゲッティンゲンライプツィヒに短期滞在した後、1930年4月8日から5月3日までコペンハーゲンにあるニールス・ボーア理論物理研究所に滞在した。それ以来、ランダウは自身をボーアの弟子とみなし、彼の物理学への取り組みはボーアの影響を大きく受けた。コペンハーゲンでの滞在後、1930年中頃にはケンブリッジポール・ディラックと共同研究した[9]。イギリス滞在中、当時ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所にいたピョートル・カピッツァに出会った。カピッツァとの磁場中の自由電子に関する議論をもとに、ランダウ反磁性に関する理論を纏め上げた。コペンハーゲンに1930年9月から11月まで滞在した後[10]、1930年12月から1931年1月までチューリッヒヴォルフガング・パウリと研究した[9]。チューリッヒからコペンハーゲンに三度戻り[11]、1931年2月25日から3月19日まで滞在してレニングラードに戻った[12]

ハリコフ

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1932年から1937年にかけてハリコフハリコフ物理工学研究所英語版の理論物理部長を務め、ハリコフ大学ハリコフ工科大学英語版で講義した。ハリコフでは、彼の友人であり元学生だったエフゲニー・リフシッツとともに、理論物理学教程叢書の執筆を始めた。大粛清の間、ランダウはハリコフでUPTI事件英語版の関係で取調べを受けたが、モスクワで新しい役職に就くためにハリコフから脱出した[13]

ランダウは、門下を志望する学生に課される理論ミニマムと呼ばれる包括的な試験を開発した。試験は理論物理学の分野全般に渡り、1934年から1961年の間に43人しか合格せず、合格者はいずれも後に注目に値する理論物理学者になった[14][15]

1932年、ランダウはチャンドラセカール限界の計算を行った[16]が、白色矮星には適用しなかった[17]

モスクワ

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獄中での写真

1937年、モスクワの科学アカデミー物理問題研究所英語版の理論物理部長に就任した。

1938年4月28日、ランダウは同僚のYuli B.Rumer、Moisey A Koretsと共に逮捕された。罪状はスターリニズムナチズムを比較し、スターリンを批判するビラを作成したことである[13][18]。ランダウは内務人民委員部(NKVD)のルビャンカ刑務所で服役し、上司である同研究所長のピョートル・カピッツァによる懸命な嘆願活動により1939年4月29日に釈放された。カピッツァはスターリンに書簡を送り、個人としてランダウの行動を保証し、ランダウが釈放されなかった場合は研究所を辞任すると脅迫した[19]

1941年、カピツァが発見したヘリウム4超流動現象を理論的に説明する論文を発表した。この論文は、その後の物性物理学の基礎的概念となる準粒子の概念を導入している。またこの論文では、ヘリウム4の波動伝播において「第二音波モード」の存在を予言しており、この「第二音波モード」は1944年に実験的に観測された。

1940年代から1950年代前半にかけて、ランダウはソビエトの原子爆弾および水素爆弾開発プロジェクトに参加を余儀なくされた。彼はこのプロジェクトに嫌悪感を示し、最小限の仕事に留めるよう努めた。しかしながら皮肉なことに、彼の考案した数値計算手法により水爆の核出力を算出することが可能になり、結果的に水素爆弾開発に多大な貢献をした。この貢献により、1949年と1953年のスターリン賞を受賞し、1954年には社会主義労働英雄の称号を授与された[13]。1953年のスターリンの死後、ランダウは核開発プロジェクトから脱退した。

1950年代、量子フェルミ液体論を展開し、ヘリウム3の物性など、多くの物性を予言し成果を挙げた。これらの成果に対し、1962年ノーベル物理学賞が授与された。

晩年

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1962年1月7日、ランダウの車が対向車と衝突した。彼は重傷を負い、2ヶ月間昏睡状態となった。奇跡的に一命を取りとめたものの、彼の科学的創造性は失われ[20]、以降科学の研究に完全に戻ることはなかった。この怪我のため、1962年のノーベル賞授賞式に出席することができなかった[21]

生涯を通じて、ランダウは鋭いユーモアを発揮した。これは、ランダウ(L)が自動車事故からの回復中に脳損傷の可能性を診断しようとした精神科医(P)との以下の対話によって説明できる[8]

P: マルを描いてみてください。
L: (バツを描く)
P: うーん。じゃあバツを描いてみてください。
L: (マルを描く)
P: ランダウさん、どうして私の言う通りにしないんですか?
L: もしそうしたら、あなたは私が精神的に遅れていると思うかもしれないだろう。

1965年、ランダウの元学生や同僚が、モスクワ近くの町チェルノゴロフカ英語版ランダウ理論物理学研究所英語版を設立した。

1968年4月1日、6年前の自動車事故で被った怪我の合併症で60歳でモスクワにおいて亡くなった。遺体はノヴォデヴィチ墓地英語版に埋葬された[22][23]

科学的業績 

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ノーベル物理学賞を授賞対象となった絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究の他、業績は多岐にわたり、液体ヘリウムや金属中の電子系にも応用されることとなるフェルミ液体フェルミ流体Fermi liquid)の提唱、二次相転移の現象論(ランダウ理論)、プラズマ振動の理論(ランダウ減衰)などがある。ランダウ理論の超伝導への拡張であるGL理論(ギンツブルグ-ランダウ理論)の共同研究者であるヴィタリー・ギンツブルク2003年ノーベル物理学賞を受賞した。

人物像 

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ランダウの記念切手 (ロシア、2008年)

年表 

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主な受賞歴

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脚注 

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  1. ^ Kapitza, P. L.; Lifshitz, E. M. (1969). “Lev Davydovitch Landau 1908–1968”. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 15: 140–158. doi:10.1098/rsbm.1969.0007. 
  2. ^ Martin Gilbert, The Jews in the Twentieth Century: An Illustrated History, Schocken Books, 2001, ISBN 0805241906 p. 284
  3. ^ Frontiers of physics: proceedings of the Landau Memorial Conference, Tel Aviv, Israel, 6–10 June 1988, (Pergamon Press, 1990) ISBN 0080369391, pp. 13–14
  4. ^ Edward Teller, Memoirs: A Twentieth Century Journey In Science And Politics, Basic Books 2002, ISBN 0738207780 p. 124
  5. ^ a b c "ランダウ:姪からみた人物像" パリティ Vol.20 No.07 2005-07 p26-35
  6. ^ František Janouch, Lev Landau: A Portrait of a Theoretical Physicist, 1908–1988, Research Institute for Physics, 1988, p. 17.
  7. ^ Rumer, Yuriy. ЛАНДАУ. berkovich-zametki.com
  8. ^ a b Bessarab, Maya (1971) Страницы жизни Ландау. Московский рабочий. Moscow
  9. ^ a b Mehra, Jagdish (2001) The Golden Age of Theoretical Physics, Boxed Set of 2 Volumes, World Scientific, p. 952. ISBN 9810243421.
  10. ^ During this period Landau visitied Copenhagen three times: 8 April to 3 May 1930, from 20 September to 22 November 1930, and from 25 February to 19 March 1931 (see Landau Lev biography – MacTutor History of Mathematics).
  11. ^ Sykes, J. B. (2013) Landau: The Physicist and the Man: Recollections of L. D. Landau, Elsevier, p. 81. ISBN 9781483286884.
  12. ^ Haensel, P.; Potekhin, A. Y. and Yakovlev, D. G. (2007) Neutron Stars 1: Equation of State and Structure, Springer Science & Business Media, p. 2. ISBN 0387335439.
  13. ^ a b c Gorelik, Gennady (August 1997). “The Top-Secret Life of Lev Landau”. Scientific American. 2018年6月18日閲覧。
  14. ^ Blundell, Stephen J. (2009). Superconductivity: A Very Short Introduction. Oxford U. Press. p. 67. ISBN 9780191579097. https://books.google.com/books?id=GxUWMrm4dxsC&pg=PA67 
  15. ^ Ioffe, Boris L. (25 April 2002). Landau's Theoretical Minimum, Landau's Seminar, ITEP in the beginning of the 1950's. arXiv:hep-ph/0204295. Bibcode2002hep.ph....4295I. 
  16. ^ On the Theory of Stars, in Collected Papers of L. D. Landau, ed. and with an introduction by D. ter Haar, New York: Gordon and Breach, 1965; originally published in Phys. Z. Sowjet. 1 (1932), 285.
  17. ^ Yakovlev, Dmitrii; Haensel, Pawel (2013). “Lev Landau and the concept of neutron stars”. Physics-Uspekhi 56 (3): 289. doi:10.3367/UFNe.0183.201303f.0307. 
  18. ^ Музей-кабинет Петра Леонидовича Капицы (Peter Kapitza Memorial Museum-Study), Академик Капица: Биографический очерк (a biographical sketch of Academician Kapitza).
  19. ^ Richard Rhodes, Dark Sun: The Making of the Hydrogen Bomb, pub Simon & Schuster, 1995, ISBN 0684824140 p. 33.
  20. ^ Dorozynsk, Alexander (1965). The Man They Wouldn't Let Die 
  21. ^ Nobel Presentation speech by Professor I. Waller, member of the Swedish Academy of Sciences. Nobelprize.org. Retrieved on 28 January 2012.
  22. ^ "Lev Davidovich Landau". Find a Grave. 2012年1月28日閲覧
  23. ^ Obelisk at the Novodevichye Cemetery. novodevichye.com (26 October 2008). Retrieved on 28 January 2012.
  24. ^ "天才物理学者ランダウの真実" 日経サイエンス 1997-11 p92-100
  25. ^ Einstein's Mirror By Anthony J. G. Hey, Patrick Walters. Page 1.
  26. ^ Tony Hey (1997). Einstein's Mirror. Cambridge University Press. p. 1. ISBN 0-521-43532-3 
  27. ^ Asoke Mitra; Ramlo, Susan; Dharamsi, Amin; Mitra, Asoke; Dolan, Richard; Smolin, Lee (2006). “New Einsteins Need Positive Environment, Independent Spirit”. Physics Today英語版 59 (11): 10. Bibcode2006PhT....59k..10H. doi:10.1063/1.2435630.