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山川建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山川 建
やまかわ たける
生年月日 (1892-10-18) 1892年10月18日
没年月日 (1944-02-22) 1944年2月22日(51歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学
所属政党 公正会
称号 従三位勲二等
男爵
配偶者 綾子(高杉晋次女)
子女 健重(長男)、健明(次男)、健郎(三男)
親族 (養曽祖父・伯父)、健次郎(実父)、(実兄)

選挙区男爵議員
当選回数 1回
在任期間 1939年7月10日 - 1944年2月22日
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山川 建(やまかわ たける[1][2]1892年明治25年)10月18日 - 1944年昭和19年)2月22日)は大正時代から昭和初期にかけての日本官僚政治家山川浩男爵家当主。

経歴

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東京府出身。父は山川健次郎でその四男である。長兄の山川洵東京帝国大学教授。1913年大正2年)、従兄弟にあたる山川廉の跡を継いで伯父の山川浩家を承継した。七高を経て[3]1918年(大正7年)、東京帝大を卒業し高等文官試験に合格。千葉県警視、同理事官静岡県地方事務官を経たのちは文部官僚として終始する。普通学務局庶務課、専門学務局学務課、大臣官房体育課、同文書課、同会計課の各課長を歴任。この間欧米視察に派遣された。社会教育局長を経て専門学務局長在任中に京都帝国大学で横領事件や清野事件が発生し濱田耕作総長が辞意を表明したが、山川は荒木貞夫文相の意を受けて、辞意撤回の説得を行った[4]1939年昭和14年)4月、局長を辞任[5]。荒木文相による人事異動で知事へ転出を求められ、拒んだことが理由であった[6]。その後、同年7月に貴族院男爵議員に互選され、1944年(昭和19年)2月に死去するまで在職。院内では公正会に所属した[1][7]会津会会員[8]

家族

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脚注

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  1. ^ a b 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』。
  2. ^ a b 『平成新修 旧華族家系大成 下巻』。
  3. ^ 『第七高等学校造士館一覧 自大正四年九月至大正五年八月』 203頁
  4. ^ 京都大学百年史編集委員会「第1節瀧川事件(京大事件)の衝撃」『【総説編】[第1編: 総説] 第5章: 京都帝国大学の苦悩』京都大学後援会、1998年6月、35-36枚目頁。hdl:2433/152992https://hdl.handle.net/2433/152992 
  5. ^ 『官報』第3683号、1939年4月18日、729頁
  6. ^ 代表研究者 荻野富士夫「文部省の治安機能 : 思想統制から「教学錬成」へ」『平成15年度~平成18年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))』研究課題/領域番号: 15520393、2016年、169-170頁、hdl:10252/917NCID BA82578899 
  7. ^ 『官報』第5134号、1944年2月26日、631頁
  8. ^ 『会津会雑誌第51号』(昭和12年12月発行)
  9. ^ 高杉晋」(『第十四版 大衆人事録 東京篇』)。
  10. ^ 高杉晋『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  11. ^ 京都ホテル100年ものがたり 第五部昭和戦後篇”. 京都ホテルグループ. 2013年1月11日閲覧。

参考文献

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  • 山川建」(谷元二著 『第十四版 大衆人事録 東京篇』 帝国秘密探偵社、1942年10月)
  • 「山川建」(衆議院参議院編 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』 1990年11月)
  • 「山川健重(男爵)」(霞会館華族家系大成編輯委員会編 『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 霞会館、1996年11月、ISBN 9784642036719

外部リンク

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日本の爵位
先代
男爵
山川(浩)家第4代
1913年 - 1944年
次代
山川健重