Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/MOTOI Kenkichi
Wikipedia:投稿ブロック依頼/MOTOI Kenkichi に関する異議
[編集]投稿ブロック申請については現状やむをえない提案と考えていますが、提案者におかれましては個人攻撃に該当する文言を多用しているので、今回の投稿ブロックの提案自体が無効と考えます。明白なWikipedia:個人攻撃はしないガイドライン違反、WP:POINTのWP:悪用を多用しているように感じられ、こちらの提案は一切拒否されています。また、過激なコメントを投稿している利用者の多くは投稿ブロックに関して熟練している印象を受けます。対話の可能性が無く、こちらの提案が一切拒否されていることも踏まえて今回の提案にいたりました。ご検討いただければ幸いです。なお、井戸端への投稿・記事の執筆などの「Wikipedia名前空間」(=井戸端)における投稿に関しては今回の件を重く受け止め反省していますので、利用者の心情を考慮し、2010年8月31日 23:59 (UTC) まで一切の投稿を自粛します。--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年6月27日 (日) 06:03 (UTC) 文言訂正・加筆--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年6月27日 (日) 06:06 (UTC)名前空間を氷鷺さん、iwaimさん219.161.201.208さんご指摘の通り名前空間と混同していました。お詫びして訂正させて頂きます。--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年6月27日 (日) 07:28 (UTC)
- 投稿ブロック依頼においては、依頼理由によって被依頼者の能力に関して言及する必要が生じ、そのような場合は個人攻撃とはいえないと思います。つまり議論の対象が個人の能力であるような場合です。本件でも依頼者は客観的に問題点と考えられる箇所を直接指摘しており、他所での議論誘導等のためにルールの悪用を行っているわけではないと思います。「投稿ブロックに関して熟練」というのは「投稿ブロックに(追い込むことに)関して熟練」ということでしょうか?そうであるなら、あるいはそうでないとしても、コメントしている方々のコメントを真摯に受け止めようとしていないと判断されても仕方がないと思います。「対話の可能性が無く」とおっしゃいますが、これまで各所で対話の機会は十分に与えられてきました。それらの対話において、誠意ある対応を行ってきたかどうかが、この場で判断されていると思います。また「提案は一切拒否」につきましても、どのような提案がなされたのかわかりかねます。Wikipedia:コメント依頼/MOTOI Kenkichiおよび氷鷺 では「Wikipedia:チェックユーザー依頼でもなさったらいかがでしょうか」「質問に対して答えて頂きたい部分を明確に箇条書きして~」とありますが、それらのことでしょうか。--Calvero 2010年6月27日 (日) 21:55 (UTC)
ここは氷鷺さんに対するコメント依頼でも投稿ブロック依頼でもありません
[編集]- 2010-06-28 11:46:26 (UTC)版より転記。--ikedat76 2010年6月28日 (月) 12:58 (UTC)
- コメント 2010年6月27日 (日) 07:38:26 (UTC) 付けで、被依頼者に対して「自身に対する審議の場で発言等するのはやめて、虚心に経過を見守るように」という趣旨の要請を、ウィキメールで行いま した。だれでも、わずかの期間にこれだけ怒涛のごとくマイナスの評価を投げつけられれば、平静でいられなくなるのは当然です。被依頼者がいつメッセージを 読んだ/読むかはわかりませんが、その言動についてはもうすこし時間をおいて判断する必要はあると考えます (ので、上記の反対票でもその点について述べていません)。
そもそも、先立つコメント依頼は、提出から1週間もたたずに「被依頼者 の行動が改まらない」との理由で、依頼者自身によって、依頼の場でろくに諮ることなく当ブロック依頼に移行しています (わたしにはコメントするひまなんてありませんでした)。手順さえ正しければ手続きそのものの趣旨は尊重せず自分の信ずる「正義」のために利用してよい、 という姿勢こそ、依頼者のこれまでの「失敗」の原因だと考えます。 --Hatukanezumi 2010年6月27日 (日) 10:33 (UTC)- コメント Hatukanezumiさんによる反対票は、依頼者(私)の行為のみを問題として投じられたもののようですし、実際本人もそう仰っています [1]ので、特に検討す る必要はないと考えます。気に食わない投票結果は無効、 気に食わない依頼者のブロック依頼は無効……行動が稚拙すぎませんか。Hatukanezumiさんの仰っていることは――特に『同様の軽はずみなや りかたでこれまでたびたびコミュニティを
疲弊混乱させて きたのに、少しも失敗に学んでいないようです。』などは、私のことというよりご自身の自己紹介のように思えます。仮に、あなたの指摘が全面的に正しく 依頼者(私)の行為に著しい問題があったとしても、その一点のみを指摘することで本依頼を無効化できるとでも考えているのであれば、考えが甘すぎると言わ ざるを得ません。具体的に、被依頼者の行為を弁護することもできないのでしょうか。--氷鷺 2010年6月27日 (日) 22:34 (UTC)- コメント上記氷鷺さんのおっしゃることは同意できる部分もあるのですが、この依頼の依頼者である氷鷺さん が指摘してしまうと、依頼者が反対意見を排除しているようにも見えてしまうので、せめてこの場では依頼者の立場ではない方が指摘する方が良いのではないで しょうか?--海獺 2010年6月27日 (日) 22:54 (UTC)
- コメント いちおう依頼者としての立場は考えています。反対意見に対するコメントは極力控え、他の方に任せるつもりです。上のコメントはそういうことも考えた上での ものであり、またこれ以上 Hatukanezumiさんにコメントすることは多分ないと思います。--氷鷺 2010年6月27日 (日) 23:28 (UTC)
- コメント 依頼者にご警告申し上げます。どうやらあなたは先行するコメント依頼によって自分の正しさが証明されたと早とちりしているようです が、あなたに対するコメント依頼はまだ継続しています。当ブロック依頼の審議の結果がどうなろうと、あなたの行動に対するコ メントが求められていることにかわりはないのです。身を慎んでコミュニティのコメントをお待ちください。なにより、自身の拙速な言動の後始末を他人に押し 付けるのは、いいかげんにやめてください。ちょっとは学習してください。警告終わり。 --Hatukanezumi 2010年6月28日 (月) 03:39 (UTC) typo修正--Hatukanezumi 2010年6月30日 (水) 13:02 (UTC)
- コメント上記氷鷺さんのおっしゃることは同意できる部分もあるのですが、この依頼の依頼者である氷鷺さん が指摘してしまうと、依頼者が反対意見を排除しているようにも見えてしまうので、せめてこの場では依頼者の立場ではない方が指摘する方が良いのではないで しょうか?--海獺 2010年6月27日 (日) 22:54 (UTC)
- コメント Hatukanezumiさんによる反対票は、依頼者(私)の行為のみを問題として投じられたもののようですし、実際本人もそう仰っています [1]ので、特に検討す る必要はないと考えます。気に食わない投票結果は無効、 気に食わない依頼者のブロック依頼は無効……行動が稚拙すぎませんか。Hatukanezumiさんの仰っていることは――特に『同様の軽はずみなや りかたでこれまでたびたびコミュニティを
- コメント 2010年6月27日 (日) 07:38:26 (UTC) 付けで、被依頼者に対して「自身に対する審議の場で発言等するのはやめて、虚心に経過を見守るように」という趣旨の要請を、ウィキメールで行いま した。だれでも、わずかの期間にこれだけ怒涛のごとくマイナスの評価を投げつけられれば、平静でいられなくなるのは当然です。被依頼者がいつメッセージを 読んだ/読むかはわかりませんが、その言動についてはもうすこし時間をおいて判断する必要はあると考えます (ので、上記の反対票でもその点について述べていません)。
- 上記、氷鷺さん、海獺さん、Hatukanezumiさんの発言につき、審議と無関連と見なし転記しました(巻き添えで発言を移動せざるを得なかった氷鷺さん、海獺さんにおかれましては、恐縮ですがご了承頂きたく)。本依頼はMOTOI Kenkichi氏に対する投稿ブロック依頼であって、氷鷺さんに対するコメント依頼でも投稿ブロック依頼でもありません。依頼が失当であるとお考えなのであれば、依頼内容に即して反対してください。依頼内容に即さない反対は、MOTOI Kenkichi氏をネタにしてWikipedia名前空間で私闘をしているに等しく、被依頼者に対しても極めて失礼であるだけでなく、審議妨害に相当するとも考えます。--ikedat76 2010年6月28日 (月) 12:58 (UTC)
- 投稿時に「場所を変えていただく方が良いのでは?」と書いていたくらいですので、今回のIkedat76さんによる処置に感謝いたします。--海獺 2010年6月28日 (月) 14:48 (UTC)
- 投稿ブロック依頼をはじめとした制度の利用のしかたそのものに異を唱えておりますので、それに関する議論をノートに移動なさったこと自体には異存ございません。--Hatukanezumi 2010年6月28日 (月) 21:50 (UTC)
- 被依頼者に対する指摘や注意は何も本依頼に先立つコメント依頼で初めて出てきたものではなく、 ラッキースター・キッドさんがご指摘のように前歴があるものです。その意味で行動を改めるチャンスはいくらでもあったにもかかわらず、それを生かしてこな かったのは被依頼者の自由意思に帰されるべき問題です。なお、このコメントを記述している時点で見る限り、私の発言は誤りでした。すなわち、被依頼者の行 動に何らの改善も見られない状況にあるようです。
- また、コメント依頼が確かに依頼者と被依頼者の双方を対象としていることは認識していますが、そこでの議論は被依頼者の問題点に対する言及に大きく傾いた ものとなっています。その点を「威迫を加え」と表現することは、コメント依頼で被依頼者の問題点をしてきたユーザの意見を単なる脅しとして貶めるものと考 えます。「短期間に大量の指摘をすることで」とありますが、コメント依頼が集中的に問題を扱うための場を設けることをそもそも目指していることを考えれ ば、当然のことでしかありません。
- それゆえ、(投稿ブロック依頼への反 対意見と言いつつ)Hatukanezumiさんのご発言は、なんら依頼内容を顧慮していないこと、それに先立って表明された意見の軽視となっているこ と、そしてそれらが偏に依頼者が誰なのかという点に帰されているという点において、やはり対人論証と称せざるを得ません。
- したがって、Hatukanezumiさんのご意見に対する評言は撤回しません。他の方のご意見については特に意見を頂いていない以上、それぞれの方から 撤回を要請されていないと考え、現時点では撤回しません。ただし、この発言は、他の方からの反論に頂いた場合に撤回が無いことを意味するものではありませ ん。--ikedat76 2010年6月29日 (火) 15:40 (UTC)2010-06-29 15:45:12 (UTC)より転記。Hatukanezumiさんの発言(2010-06-28 22:24:12 (UTC))に対してのreply。--ikedat76 2010年6月29日 (火) 16:26 (UTC)
- 箇条書き(インデント)を修正--超 2010年6月29日 (火) 23:26 (UTC)
「ニーメラーの詩」について
[編集]ある反対票に関するやりとりについて。
山間部さんの示された『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という詩の原型は、マルチン・ニーメラー牧師の1946年のスピーチ (「演説」なのか「説教」なのか、わたしは知りません) であるとされています。ここでは現在流布している詩とは少し違って、「共産主義者、治療不可能な病の人、ユダヤ人、エホバの証人、被占領国民」が挙げられていたそうです。1955年の出版物でこのスピーチが紹介された際に、「治療不可能な病の人」(心身とりわけ精神の不具を持つ人と解されます) などが削除されるとともに「共産主義者、社会主義者、学校、出版界、ユダヤ人……ついには教会に」と言い換えられました。
おそらく山間部さんは、「ニーメラーの詩」のこのような来歴を知っていたのでしょう。それで、先立つコメント依頼の依頼趣旨冒頭部の「ウィキペディアに関する(一般的な参加者レベルの)理解、一般的な日本人の日本語能力、一般的な常識・想像力・知性、……などが伴っていない」(氷鷺さん) という表現に対して、この詩を挙げたのだとおもわれます。
前述の来歴は、日本語版ウィキペディアではごくかいつまんで解説されているだけです。そのようなことに関心を持っておられるということは、山間部さんは、かつては「少数の異常」と考えられた精神の障害の多くが (先天的なものであれ後天的なものであれ) 現在では「多数の正常者」にも普遍的に見られるものであるという、最近の精神医学の「常識」にも注意を払っておられるのだと考えます。つまり、山間部さんはだれかが障害者であるとか障害者ではないとか言っているのではなく、(上述の氷鷺さんのような論理で)「少数の『変わり者』を排除すること」に否を言ったのだと考えます。
対する氷鷺さん、ikedat76さんの応答は、たとえわたしがこれまでに書いてきたようなことを知らなかったとしても、自身の発言に無頓着であるように、わたしには感じられました。もっぱら「被依頼者のブロックを認めるか否か」という観点でしか他人の発言を見ておらず、「障害者を特権化するという形で逆立ちした差別にしかなっておらず、論理として全く稚拙」といった (わたしから見れば) 見当違いな非難によって、山間部さんの反対意見を無価値だと断じています。
余談ですが、わたし自身も、「障害のためにウィキペディアに受け容れられない場合はある」と述べたことがあります[2]。しかしこれは、「コミュニティには現在それだけの力量はないため」という留保をつけてのことです (それでも、わたしの発言によって少なくない人が不快に感じられただろうとおもいます)。もちろん、被依頼者がなんらかの障害を持っているとか、持っていないとかいいたいわけではありません。そういうことには関心がありません。おふたりのブロック賛成意見には、そういう逡巡すらも感じられませんでした。変わり者を排除し、コミュニティを純化することで「発展」させようとする、ある意味あっけらかんとした衝動を感じるのみです。
こんなことを表で長々と書いたら即座にノートに移動されるか、場合によったら除去されますので(笑)、はじめからこちらに書きました。コメントは特に求めておりません。審議をお続けください。 --Hatukanezumi 2010年6月29日 (火) 12:39 (UTC) すこし加筆。--Hatukanezumi 2010年6月29日 (火) 12:43 (UTC)
- コメントは特に求めないとのことですが、コメントします。
- 山間部さんがニーメラーを引き合いに出したことについてのHatukanezumiさんのご推測が正しいかどうか、私には判断できません。しかし「最近の精神医学の「常識」」ということで何を念頭に置かれているかは一応理解できます。しかし、その「最近」は私が見る限り、ここ10年ほどを指すものではない(もっと言えば既に陳腐化してしまった)ように見受けられます。そこからさらに先に考えるべき水準は移ってしまっている、というのが私の持ついくらかの知識から導き出せるところです(もっと単純に、不寛容を無条件に否認することは寛容なのかと問うてみてもいいかも知れませんし、不寛容が常に否定されなければならないのかと問うて見てもいいかも知れません)。とはいえ、これを信じていただく必要も無いし、信じる理由もありません。また、非難をしているわけでもありません。
- 私としてはニーメラーを参照することがレリヴァントであるとも思いませんし、自信が不寛容と見なす意見に反論するのに「弱者」を引き合いに出す論法も好みません。さらに言ってしまうならば、山間部さんが当初言っておられた論法は、マイノリティの権利や地位を主張する際にかつて用いられたロジックの近似物です。しかしながら、おそくとも20年以上前に問題提起をする力を失い、むしろマイノリティの権利や地位を主張にあたって「返す刀」になってしまった、いわば「賞味期限が切れた」ロジックです。(これもまた信じていただく必要の無いことですが)大学院までそれなりの期間にわたって社会学を学んできた身としては、世の物分りのいい・悪意のない人たちが、自らの善意のゆえに自ら落し穴を掘り、自らや他者を陥れてしまう、そういう光景を見ることに飽きてしまいました。そういうものを、必要も無いのに議論の場に持ち出していただきたくありません。
- もっと狭い範囲の・具体的なことのみ最後に書いておきます。幸か不幸か、ウィキペディアはさまざまなものではありません。「ないもの」のうちには明記こそされていませんが恐らく「寛容の実験場」も含まれるでしょう。「百科事典をつくる」という甚だしく限定された目的を持ったプロジェクトであるという点において、ウィキペディアが採ることの出来る寛容の幅はそれほど広くないと考えます。その幅についてHatsukanezumiさんと意見が異なるという点については了解しましたし、排除や純化という言葉で私を特徴付けられることについても、そうした相違の一環として(残念なことではありますが)承っておきます。--ikedat76 2010年6月29日 (火) 16:13 (UTC)
誤解されるかたがあるかもしれないので、ちょっとだけ補足しておきます。
わたしは (そしておそらく発端となった意見を述べた山間部さんも)、依頼者や賛成票を投じたかたがたを、他者への不寛容を称揚する者だとか、まして全体主義者だとか主張したいわけではありません。実際、だれもナチスのナの字も出してはいません。
わたしは上で「治療不可能な病の人」を精神障害者などだと述べましたが、ニーメラーはこの言葉で同性愛者を含意していたのではないかと考えます。同性愛指向は当時、精神障害のひとつと考えられていたようです (なんかで読んだのだがいまその書籍がでてこない)。ナチ強制収容所のバッジの解説と彼のスピーチの言葉を比較してみても、このことは確からしくおもえます。
その上で彼の言葉を見直してみると、これは当時のキリスト教会が攻撃したひとびとのリストです。ニーメラーは、彼や彼の属する教会も、自ら、正しいと信じて、すすんでこれらのひとびとを攻撃し、追いやった、と、告白しているわけです。後世に流布した「詩」で述べられているようにただ傍観していたとは、言っていないのです。
『意志の勝利』『民族の祭典』といった、ナチスの宣伝映画をご覧になったことはあるでしょうか。映像には暴力も、差別も、恐怖も、影も形もありません。整然とした行進、運動選手の健康な肉体美、それにまじって少女が兵士に花を手渡すといった、ほほえましいシーンさえあります。かの社会でも、そういった「真実のもの」「善きもの」「美しいもの」は、全面的に肯定されていました。……ただし、だれかが決めた「真」「善」「美」を受け容れる者にだけ、ですが。……その映像を成り立たせていた社会が、同時に絶滅収容所を必要としていたのでした。そして、その社会は後に破滅しました。
もちろん、ウィキペディアは社会そのものではないです。だいたい、投稿ブロックされたからといって命までとられるわけではありませんしね。しかし、歴史から寓意を読み取ることも、まったく無駄というわけではないでしょう。
もはや当依頼の審議となんの関係もなくなっていますので、このへんにしときます。 --Hatukanezumi 2010年6月30日 (水) 12:43 (UTC)
コメント依頼再開のお知らせ
[編集]こちらで告知するのが適当かどうかちょっと迷いましたが、報告しておきます。
当依頼の提出によって中断していたコメント依頼をWikipedia:コメント依頼/MOTOI Kenkichiおよび氷鷺#利用者氷鷺の行動に対するコメント依頼として再開させておきました。
以上ご報告まで。--Hatukanezumi 2010年7月6日 (火) 13:15 (UTC)