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Wikipedia:コメント依頼/Yonoemon 20100314

利用者:Yonoemon会話 / 投稿記録の編集行為についてコメントを依頼します。--Yonoemon

これまでの経緯

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ノート:瀋陽鉄道局にて敢えて合意を無視してページを移動しました。目的はWikipedia内にはびこる方針原理主義への問題提起です。

  1. DMH17H氏より「瀋陽鉄道局」が「瀋陽鉄路局」への改名提案が出されました。
  2. 改名時点での意見表明は下記の通り
     賛成2 -DMH17H氏、Yonoemon
     賛成よりコメント 1-219.161.202.78氏
     反対 1-かげろん氏
     不明 1-Jms氏
  3. 反対意見は中国大使館HPの検索結果で「鉄路局」が使用されていないとの主張に対しては、大使館HPの情報源である新華社通信の日本語版HPを提示し両論併記であることを説明。提示している出典は自説に有利な一面を抽出したに過ぎないことを証明済(出典の明記及び、かげろん氏の恣意的な出典資料の抽出を証明)。
  4. 問題はJms氏でして、定訳が存在しないことを証明せよという悪魔の証明を要求(調査しろと言われてもマイナー外国機関の定訳証明は実質的に不可能)。逆に「鉄路局」が一般的でないことを証明する出典を要望するも無視(反対意見の証明義務を拒否しているため、改名に際しコメントを考慮せず)。
  5. 合意形成がないこの時点で敢えて改名を実施。その結果予想通りの反対意見が3氏より当然寄せられる。

(インデントを修正-- 2010年3月25日 (木) 15:41 (UTC)[返信]

問題点と被依頼者のコメント

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これはルールをそれなりに熟知している私がやれば当然に問題行動でしょう。ただし新規利用者が同様の行為をした場合は果たして問題行動として糾弾されるべきなのかというのが素朴な疑問です。

Wikipeidaの目的は百科事典の編集であり誰がルールを正確に理解しているかを競い合うことを目的とする場ではありませんし、ルール違反の摘発の腕を競う場ではないという認識が不足している古参の利用者が多いことが、新たに参加した利用者の編集をためらわせている部分があるのではと認識しています。特に自ら記事を書くことなくWikipediaの各種ルールやガイドラインを一種のゲーム感覚で振り回し、あちこちの記事の編集を制限する、また削除して回ることに疑問を抱かない方が存在しています。

今回の件では定訳がないために、「鉄道局」だろうが「鉄路局」だろうがどっちも正解でしょう。私とて他の記事が「○○鉄道局」になっていれば改名する必要はないということで、当初消極的賛成を表明していまいした。しかしDMH17H氏が改名提案を出した時点で、「鉄路局」が使用されていないという証明がなされない限り改名を緩やかに認めることが無難な反応かと思います。いずれも使用されている現状で敢えて「鉄道局」より「鉄路局」がふさわしいという出典を求めたり(かげろん氏)、また日本語での定訳がないことを証明せよ(Jms氏)という出典原理主義は、新たな参加者へのハードルを設定し、ルールを熟知した古参の利用者のみが微妙な問題の編集に参加できるという状況を作り出していることは否定できないと思います。特に定訳がないことを検討せよという「悪魔の証明」を平然と求めるJms氏が改名や記事名に関するルールをあちこちで無定見に適用していることは大きな問題であると思います(Jms氏が運営に対し心を尽くしていることは理解しますしまた評価をしますが、実例を提示しても抽象論で反応するので神学論争が生まれやすい考え方の持ち主であると認識しています)

Wikipediaにもルールは必要です。ただしそのルールを厳格に適用することが結果的に問題となるケースが最近増えていますので、敢えて問題行動を起こし出典原理主義の問題点を皆さんで議論してもらえたらと思います。私の考え方としては「Wikipediaのルールは伸び縮みのする物差し」であるべきで、ルールに固執するあまり過度な出典要求を行う、またはルールを抽象論で述べて結果的に議論進行を妨害している私を含め古参利用者のルール適用の態度を見直したいと思います。もしこの風潮を放置していくと、ルール至上主義者による編集制限が普遍化していき、少なくとも日本語版の発展に大きな支障を来たすものと思います。今回のように公的機関により使用が認められ、また他記事との整合性を備えることにもつながるようなケースでは緩やかなルール適用を認める方向にすべく努力する時期にやってきていると思います。

最後に明らかな合意違反行為を行いましたことはお詫びしますが、上記のルール運用の姿勢について検討を行うには何らかの例が必要なための事情があったための故意の行動であったことをご理解いただければ幸いです。--Yonoemon 2010年3月14日 (日) 11:45 (UTC)[返信]

コメント

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  • わたくしが「定訳が存在しないことを証明せよ」と求めた事実はありません。新華社通信だけでは定訳が存在しないと判断するのには十分ではなかろう、ということを、日本語の鉄道雑誌等の文献を念頭に述べました。「鉄路局」が一般的でないとは主張していませんので、その証明をわたくしがすべきだとも思いません。改名提案の妥当性を判断をするにはもう少し文献調査が必要だ、と述べています。調べのついた範囲の文献ではどうなっているかは示しましたし、Wikipedia:ウィキプロジェクト 検証の利用も示唆しました。こうした事実にもかかわらず、曲解ではないかと思われる解釈に基づいて「問題」といわれても、元となる事実がそもそも存在しないのではないかと困惑するばかりです。--Jms 2010年3月14日 (日) 12:12 (UTC)[返信]
    • Wikipedia:ウィキプロジェクト 検証は意プロジェクトでありそこを利用しないことは非難さされる事柄ではありませんし、また内容が煩雑すぎて新規参加者が気軽に参加できるような内容ではありません。そんなプロジェクトの活用を薦めるという高等技術を要求しない方法があったのではないでしょうか?また「新華社通信だけでは定訳が存在しないと判断するのには十分ではなかろう」は定訳が存在しないことを証明せよは広義で同一でしょう。中国政府が中国語の外国語訳を決定する際の実質的な機関が両論併記であるという点は事実ですし、また日本のメディアが中国の鉄道記事を記載する際には当然に中国政府機関である新華社通信を参考にしますし、また参考にしないことはありえないソースでありながら日本の鉄道雑誌を調査というのは新規参加者にはハードルが高すぎます(改名依頼変更後には具体例を提示していません。節が変われば新しい議論という認識もできますので再度具体例を提示すべきです。でなければ新に議論に参加した人間は過去ログを全部目を通さないと出典も教えてもらえないということになります。また提示内容ですが個人著作を出典に掲示したことが国家機関の出典の上を行くとは私もそうですが初心者は考えないでしょう)。また日本の鉄道雑誌等とはおっしゃいましたがどの雑誌を調査しろと具体例を全く提示しないのも、古参利用者であれば初心者に対しては不親切極まりない語り口であるとと認識しています(かつての私も同様でしたので)。今回は私という相手ではなく初心者が同一事例を行ったとしてもご自身の行為に問題がないとお思いですか?直言しまして具体的な出典検証を求める議論の中でJms氏の今回の主張内容が間違っているとは言っていませんし、また間違っていると断言できないだけの理論武装もされていると認識しています。ただ私が言っているのは厳格なルール適用により編集空間を窮屈にすることなく、抽象的すぎる言い方は改めて初心者でも容易に理解できる内容としなけれ、ば本人はルール違反にならないと認識していても結果的にJms氏の言うところのルール違反者が増加するだけなのではと言っているだけです。--Yonoemon 2010年3月14日 (日) 12:33 (UTC)[返信]
      • 修辞疑問以外の疑問文にお答えします。「今回は私という相手ではなく初心者が同一事例を行ったとしてもご自身の行為に問題がないとお思いですか?」とのことですが、Yonoemon さんに出典を求めているわけではありません。誰が調べ誰が報告しようと、出典は出典ですので、「誰が」という部分は影響しないと思います。「ご自身の行為」の指示対象が何であるか明確ではありませんが、「鉄道雑誌」やWikipedia:ウィキプロジェクト 検証の利用は例示に過ぎません。鉄道雑誌の具体的誌名を挙げないのは予見を与え兼ねないと考えたためです。「抽象的すぎる言い方は改めて」と言われても、具体的に述べられない場合もあります。調査過程に予見を与えない様抽象的に述べる場合もありますし、ある程度の感触は持っていても具体的に述べるほどの情報を持っていない場合には述べようにも述べられないでしょう。もし、どの文献に記載されているか具体的に知っていればその旨 (確認できれば内容も当然) 述べますし、知らなくとも調べた結果があれば実際それを述べています。「節が変われば新しい議論という認識もできます」とのことですが、今回の場合は提案者が同一で当初提案を維持したまま理由を変更したというのが事実ですから、一連の議論と考えて出典の再掲示はしておりません。もう少し用例が集まってからまとめて示せば十分だと思います。問題がないか、という点について、具体的に書くことが適切であれば書いたでしょうが、今回の場合はそうではないと判断してのことですので、問題とはいえないと思います。抽象的に書いたが故に悪魔の証明などと過剰な解釈を招いたという面はあるやもしれませんが、さすがにそれは限度を越えた解釈ではないかと思います。なお、「Jms氏の言うところのルール違反者」とありますが、わたくしが「ルール違反者」という表現を引用としてではなく主体的に用いた事実がありましょうか。--Jms 2010年3月14日 (日) 20:47 (UTC)[返信]
        • 「鉄道雑誌の具体的誌名を挙げないのは予見を与え兼ねない」という一文には納得できます。その上で問題点を指摘させていただきます。1.何故にこの一言を議論の中で書かなかったのか?その一文を入れれば具体名を挙げない理由が誰の目にも明らかですが、書かないことにより具体名を挙げられないと解釈されてもやむを得ないと考えられます。2.予見を与えないという理由がありながら具体的な著作物を例示しているのは何故か?具体名を挙げないというのであれば首尾一貫すべきでしょう。具体例を実際に挙げながら具体例を示さない理由を述べられても説得力に欠如します。また節が変わっても同一提案者が理由を変更したことを理由に挙げていますが、私から言わせていただければ一旦改名提案を取り下げた上で、たとえ同一依頼者が同一記事に対し新たな改名提案となっている以上、新たな議論を行うべきとの考えです。これを行わないと長期にわたってもめた案件は、膨大な過去ログを理解し出典等の根拠を新規参入者が探すことにつながります。たとえ面倒でも再度提示するくらいの手間を惜しんではいけないという事を強調しているだけの話です。今回の出典提示の認定に関してはルール上Jms氏には問題は無いと考えています。ルールを文面通りに解釈すればJms氏の方が正しいのは百も承知です。その上でWikipedia:ウィキプロジェクト 検証等を例示したのであれば、自らが検証を作業を行うという共同作業を行う意思があっても良かったのではと言っているだけです。例示だけした上でその検証は依頼者に任せる、口は出すか手は出さないというスタンスが横行しては共同作業空間は成立しません。「Jms氏の言うところのルール違反者」というの主体的な使用例を示した言葉でないので括弧付表現にしてあります。Jms氏の求める完璧な検証を行わない利用者を指しているだけの表現です。基本的に自身が検証作業を行う予定のないものに用例を示し放置することは、新規参加者への負担を増加させ、編集作業の敷居を高くするだけですので表現方法を工夫する必要があるのではというだけの話です。--Yonoemon 2010年3月15日 (月) 00:56 (UTC)[返信]
  • コメント 一応日本語版ですので、日本語の出典が必要かと思われます。たまたま翻訳元が漢字を用いている支那語版であったためこの問題が発生したのだと思いますが、漢字を使わない言語版、たとえば英語版だったりするとやはり日本語の出典が必要となってきます。Englishのまま記事名にするわけにいきませんからね。出典が無いなら無いで仕方ないと思います。出典が見つからないのなら見つかるまで元の支那語版の表記をそのまま使うというのも手かも知れません。この件には当てはまらないのかも知れませんが、明確な出典が無いのに無理矢理日本語化して記事名または記事にするのは危険ではないかと考えます。スタンダードの元がWikipediaになるのはおかしいでしょう。--akane700 2010年3月14日 (日) 13:52 (UTC)[返信]
  • コメント趣旨が「Wikipedia内にはびこる方針原理主義への問題提起」であるならば、「合意形成する」ということ以上でも以下でもないと存じます。しかしながら、合意形成できないことについてある観点の同調者存在するためだと云うのであれば、それはただの中立な観点の方針違反です。そして観点が公正に扱われるということは、ある観点に基づく記述が他の観点よりも優先するという主張は検証可能な第三者の(Wikipedia外の)意見でなくてはならず、Wikipedia執筆者間の談合を根拠にすべきではないです。--あら金 2010年3月14日 (日) 15:49 (UTC)[返信]
    • 自然科学系の記事整理お疲れ様です。今回の問題はご指摘の通り「合意形成」の問題であることは承知しています。しかし合意形成のプロセスにおいて初心者にはハードルの高いウィキプロジェクトへの参加を要求するなどの行為が果たして合意形成にどれほど役に立っているのかという問題です。検証PJ自体はWikipedia空間になれた利用者にとっては有用かもしれませんが、初心者にはどなのかなというのがホンネです。個人的にはそのようなPJへの問題提起を行うべきと提案したからには、問題指摘者が依頼者に代わって処理を行うという優しさが必要なのではということです。また節が変わって(つまり議論内容が変わって)再度出典を求められれば過去履歴が多い古参利用者であればどんなに面倒でも再提示するべきですし、また両論とも問題のない今回の場合、公的機関が使用していることを示せばそのどちらが一般的かという煩雑かつ不毛な検証作業は排除し他の記事との整合性を考え緩やかな合意を形成するように話を持っていくのがルール熟知者としてのあり方なのではということです。Wikipediaの両者による談合を根拠にすべきで無いという指摘は非常に重要なものであると思います。どうも限定された利用者が自己に都合のよい資料引用を出典という名の下において利用するという傾向があり(今回のかげろん氏もその一人と認識しています)、そのような限定された前提条件で合意を形成してもどれほどの意義があるかということです。ここは私を含めWikipediaは法廷でも国語審議会ではないという事実を認識した上で議論に参加する必要があると思います。--Yonoemon 2010年3月14日 (日) 16:40 (UTC)[返信]
    • (各論としてコメントするならば)「鉄路局」というのが日本語として認知されているかといえばNoであり、新華社通信が日本語について権威があるかといえばNoだと考えます。つまり日本語用語として優先すべき事実というのは中日事典でこのように書かれているとか、専門事典でこのように書かれているという事実であると考えます。--あら金 2010年3月15日 (月) 01:40 (UTC)[返信]
  • コメント 移動の差し戻しをしたsergeiです。「Wikipediaのルールは伸び縮みのする物差し」というのは確かにその通りだと思います。草案ですがWikipedia:ルールすべてを無視しなさいという文書もあります。ただ、Yonoemonさんの問題点はWikipediaのルールをあまりに自分の都合のいいように引き付けて解釈してしまうというところにあるのではないかと思います。「明らかに、ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」の即時改名条項を、コミュニティの賛同が全く得られていないにも関わらずまたしても持ち出したことには、率直に言ってがっかりしました。
    新華社通信の日本語サイトが両者併記だったという事実は改名の根拠にもなりますが、同時に現状維持の根拠にもなり得ます。「『鉄路局』が使用されていないという証明がなされない限り改名を緩やかに認める」というのはWikipedia:検証可能性の方針とは逆の発想で、改名案件における論拠とするにはなじまないと思います。そういう主張が成り立つのだとすれば、逆に初版投稿者の立志堂さんが発言し、「当時は他の鉄路局記事はまだ日本語版には存在していなかった」ことを説明した時点で他の鉄路局記事の方を鉄道局に改めるのが無難な対応だ、とも言えるはずです。このようにどちらが有利とも判断し難い状況にあって、なぜ鉄路局への改名を急ぐ必要があったのか、理解に苦しみます。
    的確な判断を下そうと思えば実際の用例を調査してみるよりほかに方法はないはずで、そのことを繰り返し主張しているだけのJmsさんに、何かとりたてて問題があるとは思えません。「出典原理主義」ともいうべき参加態度の利用者によってWikipediaの発展が阻害され得るという主張は確かに私にもうなづけるところはありますが、本件に限らずJmsさんの参加態度がそのようなものであるとは私は認識していません。
    Wikipedia:コメント依頼/Clarin20100126ノート:穀歌など他の案件も見ていて思うのですが、Yonoemonさんは項目名を決定するにあたって日本語文献での使用状況をあまりに軽視し過ぎているのではないかと思います。私自身は慣用よりも言語学的な意味での正確さの方をより重視する立場なのですが、それでも改名案件に関わる際には日本語話者の間での慣用にも十分な注意を払います。少なくとも私がこれまで関わったことのある改名案件では、日本語文献での使用例を全く無視する参加者はほとんどいなかったと思います。
    しかしYonoemonさんの議論には、自分と対立する利用者の意見を中国語への理解が十分でなく取りに足らないものとして簡単に退けてしまう傾向があまりに強く見られます(上記のかげろんさんの意見に対する言及やノート:穀歌でのこの発言などがいい例です)。Wikipedia:検証可能性を最も重要な方針の一つとして掲げるWikipediaにおいて、出典を提示してそれを基に議論を進めていくのはむしろ当然の参加態度だと思います。Yonoemonさんには、例えばルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンをドイツ語の仮名転写として不適切だからといって「…・ファン・ベートホーフェン」に改名してしまったらどういうことになるかをぜひ想像してみて欲しいと思います。
    なお、今回合意に基づかない改名を故意に行ったというのは問題解決の手法としては最悪のもので、今後一切おやめいただきたいと思います。もし今後このようなことが繰り返されるとしたら、それこそブロックの必要性というものを真剣に検討しなくてはならなくなるだろうと思います。--sergei 2010年3月15日 (月) 16:55 (UTC)[返信]
    • 問題が解決した穀歌を例示するのはいかがなものでしょう?既に謝罪した例を持ち出され議論をされては議論の合意なんぞはどこへやらというのと同レベルの意見です。それと文字論に関してはせめて中国のの漢字構造くらいは理解して議論に参加すべきでしょう。日本語が出来ないのにここで議論に参加しても意味がないのと同じです。またかげろん氏への反論は中国語とは無関係です、単に新華社ソースを恣意的に抽出した結果であることを述べているだけです(ノート:竜などでも同様の議論がありました。こちらは日本語だからかあっさり合意)。
      それと即時改名条項を持ち出したことは事実ですが、それに依拠しての即時改名は行っていません。sergei氏は持ち出したことを問題視するのであれば、言論規制でしかありません。危険な思想です…
      反論ソースを提示し、それが恣意的な資料引用であることが検証されればその反論の根拠は失われるという論理学の基本行動ですので、中国語問題とは別と考えるべきでしょう。あとドイツ語仮名転写に関しては私は一言も意見を申していませんので、反応のしようがないです。(私はドイツ語は出来ませんので議論に参加するつもりはありません)
      …と思わず各論に反論してしまいましたが、今回のコメント依頼は古参利用者がもう少し分かりやすくルールを記載し、「Wikipediaのルールは伸び縮みのする物差し」ことの自覚を促した内容です。「Wikipediaのルールは伸び縮みのする物差し」はその通りであり、しかし…と各論に反論されては結局はJms氏の記載もまずかったが、私の行為へ逐次反論したいということでしょうか?だとすれば議論のページはここではないと思いますが…--Yonoemon 2010年3月16日 (火) 00:46 (UTC)[返信]
      • コメント2. 端的に言えばYonoemon氏の行動はWikipedia:腕ずくで解決しようとしないに書かれている「すべきでない行為」に踏み込みつつあるようです。たとえば同方針の節「考えは議論の場で—実地証明は無用」では『ウィキペディアがうまく機能しないことを示そうとして、現行の方針やルールに異論を唱える者が個人的な実証づくりの為に本文を編集すべきではありません。』と示されています。合意成立前に本文を改名するというのはそういうことです。また同方針の節「いつまでも「納得」しない」では『自説を何とか通したい編集者は、自分の主張や観点が否定された後もぐだぐだと固執し、いつまでも言い続け、他者の言葉を受け入れたり自らの過ちを認めたりすることを拒否して、いつまでも論争を続けようとします。そして、しばしばこのような編集者は、要点をはっきりさせようとしてなされた、他者のささいな発言を根拠にして、次なる攻撃や妨害的編集を続けようとします。』とか 『、「納得する」ことを意図的に拒否していることが明らかになった場合、納得の拒絶を継続することは、もはや正当性のある態度、方針に準拠している態度とはいえません。それは、自説を通したいがために合意形成の方針を悪用した、妨害行為です。』というように見えます。なせそのような行為が問題視されるかはWikipedia:腕ずくで解決しようとしないの文書を一通りお読みになっていただきたいと存じます。(誤解なきようにするために付け加えると、この方針は英語版の方針を翻訳し、お知らせで告知して合意形成して成立しています。なので、日本版だけということでなく、英語版をはじめとして広く受け入れられている考え方の一つです。そういう方は、日本語版でも英語版でも、今も昔も「うとまれる存在」です。)--あら金 2010年3月16日 (火) 05:58 (UTC)[返信]
        • (回答)Jms氏は私の指摘に傾聴していただきご自身での検証を行う姿勢を見せましたし、また自身で検証を行うのであればその旨を記載すべきとの意見を提示してあります。Jms氏には今後は親切な書き方をしていただけるものと基本的には安心しています。
          それと「いつまでも納得しない」は今回はsergei氏でしょう。私は各論をここで問題にしたつもりはありませんし、また既に当事者両名による悔悛の意思表明が行われた穀歌を例示する事こそが問題でしょう。それとも一度問題化したことは謝罪しようが何だろうが永遠に例示されるというのがここのルールなのでしょうか?そのような古参利用者の参加態度こそが問題であると言っているのですがね。--Yonoemon 2010年3月16日 (火) 08:25 (UTC)[返信]
          • えーと。Jms氏は私の指摘に傾聴していただきご自身での検証を行う姿勢を見せましたし、というの表現はあまりではないでしょうか。Yonoemon さんのご指摘はもちろんありがたく承っておりますが (誰が他人の問題点を指摘するだけのために自分の時間を費やそうか)、わたくしが少なくとも手持ちの資料で検証していることは当該議論をお読みいただければわかることであって、それをあたかも Yonoemon さんからの指摘によって資料を調べる様になったかの如くに書かれるのは…さすがに印象操作の範疇ではないかと…。今後は親切な書き方、というのは、参考にさせていただきます親切とお節介の狭間に悩みつつ。--Jms 2010年3月16日 (火) 10:51 (UTC)[返信]
            • 表現の違いですよね。手元資料で検証しているのは重々承知していますが、検証することを事前に記載する親切さを理解しているので私としては既に問題解決だと思っています。私からの指摘で検証作業に着手したとは思っていませんし、その点に誤解が生じたようでしたらお詫びします。Jms氏の行動原則は今回問題視していませんし、問題化するつもりもありません。Jms氏を数多い利用者の中で例としたことは申し訳ないと思いますが、今回の問題提起の結果、やはりルールを列挙する利用者や既に謝罪した内容を持ち出した挙句ブロック適用の検討を言い出す管理者なども登場していますので、それらの一連の行動規範を私を含め見直す契機とすべきと考えています。私も今回のような問題提起の方法は二度と行う気はないので(もう一回やったら確信犯でコミュの消耗という理由でブロック対象は明確でしょう)、少なくとも管理者権限のある方は軽々しくブロックを検討のような発言(初心者には恫喝に聞こえる可能性が高いです)を避け、ルール以外の常識論での発言を行うべきなのでしょうか?事実私とJms氏の間ではルールの適用に言及することなく現在に至っていることを考えれば、過去の私を含めルールを安易に持ち出すことが如何に無意味なものか理解できると思います。勿論最終的にはルールは必要ですが、ルールというのは常識の絶対公約数ですので、ルール違反だと叫ぶ前にやることがあると思っています。--Yonoemon 2010年3月16日 (火) 11:31 (UTC)[返信]
              • 表現の違いなのでしょうか…。一つ、質問させてください。今回、「ルール違反だと叫」んだ方が実際にいらっしゃいましたか。移動強行がなされても (こう書かれたくないというのは理解しますが、事実なので…)、残念、不愉快と意見表明する人はいても、差し戻した「ルール違反だと叫」んだ方は管理者を除いていらっしゃいませんでした。このことは、「ルールを安易に持ち出す」というのとは対極にあると思うのですが、如何でしょう (過去のご自身を含めと仰っているのでお気づきの筈だとは思うのですが)。常識論は大切ですが、常識論の危うさがあるので、検証ということが求められているのだと思います。今回の件にしたところで、わたくし自身は「そこは当然鉄○局でしょ」と思っていても、資料がないためにそう言えない歯がゆさはあります (「○」に何が入ると思っているかは、予見を与えることになるので勘弁してください)。しかし、そこで資料に基づくことが、調べ物の助けとしてのウィキペディアの品質を担保することではないかと思っています。今回の検証の話は、常識論を担保するための検証作業だと思います。--Jms 2010年3月16日 (火) 12:03 (UTC) 事実誤認に基づく部分を訂正 --Jms 2010年3月16日 (火) 16:50 (UTC)[返信]
  • 少し厳しいことを言うようですが、Yonoemonさんは今回の件で問題利用者の域に片足を突っ込んでしまったのだという現状を、しっかりと自覚された方がいいと思います。やってはいけないとわかっていることを確信犯的に実行するというのはコミュニティの成員相互の信頼関係を損ねるもので、共同作業の実施を著しく困難にします。まあ先ほどのコメントで「今回のような問題提起の方法は二度と行う気はない」との言明がありましたのでひとまず安心はしましたが。
    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの例を持ち出したのは、この件に関するYonoemonさんの見解を引き出そうとしたのではなく、こうした例をご自身が直面している問題に置き換えて考えてみて欲しいと考えたからです。この項目のタイトルを決定するのに、音楽に詳しい人の意見を排除してドイツ語の専門家だけで言語学的な観点からのみ議論するのはおかしなことです。同様のことは穀歌についても当てはまります。
    この項目の読者として想定されるのは中国語に詳しい人ばかりではなく、コンピュータの技術者であったり、ITビジネスや米中外交に関心を抱く人であったりするわけです。項目のタイトルというのはそうした多角的な観点を総合的に考慮した上で決定する必要があります。Yonoemonさんは少し話がこじれるとすぐに「せめて中国のの漢字構造くらいは理解して議論に参加すべきでしょう」といった類のことを言い出す印象がありますが、誰もが自由に参加できることを旨とするプロジェクトにおいて、このようなことは軽々に口にするべきではありません。
    ところで、穀歌が解決済みだという認識ははたしてどうなんでしょう。2010年3月3日 (水) 09:21 (UTC) と2010年3月10日 (水) 03:22 (UTC) にfrommさんがノートで発言しているのですから、この件は現在進行中の案件と見做すべきではないかと思うのですが。それとも、frommさんの提言はまともに取り合う価値がないとでも仰るのでしょうか? それからWikipedia:コメント依頼/Clarin20100126でも述べましたが、即時改名の手続きというのは議論の余地のない案件でのみ用いるべきものです。今まさに議論が進行している最中の案件で即時改名の可能性に言及するというのは、単にそれを示唆しただけでも対話の困難な利用者と見做されても仕方ないと思います。
    なお、誤解のないように断っておきますが、私が今回の件に介入したのは一利用者としての資格においてです。論争の仲裁行為には管理者権限は必要ありませんし、項目の移動は自動承認された利用者なら誰でもできることです。もし今後万が一Yonoemonさんのブロックが審議されるような事態に立ち至ったとしても、その場合も一人の利用者としてそれに参加する(もしくは一人の利用者として参加しないという選択をする)ことになると思います。--sergei 2010年3月16日 (火) 14:13 (UTC)[返信]
    • それは失礼、訂正させていただきます。--Jms 2010年3月16日 (火) 16:50 (UTC)[返信]
      • 論争の仲裁は利用者なら誰でも出来ることだというルールは知っていますが、管理者権限がある人間がブロック論を持ち出しては私以下の「対話困難者」でしょう。自身が多くの利用者に信任されている以上、他の管理人同様に慎重な発言を行うべきではないでしょうか(もしくは管理権限との関連性が認められない別アカウントを使用)?
        穀歌に関してはClarin氏との間の問題が解決した後に、別利用者から意見が出たのでこちらの反証を述べたまでですが…一度問題を起こした議論には二度と参加するなということでしょうか?管理者なら議論の区切れくらいはしっかりと見極めて欲しいものです。私がfromm氏の意見を取るに足りないと言った記憶はありませんし、現にしっかりと対話していますのでどこからそのような話が出るのかが不思議でありません。
        それと「中国語の漢字構造の理解」というのは中国関連記事ではなくてもいい知識だとは思いませんが…それともWikipediaは実例から文字の使用を決定するという国語審議会の側面を持ち合わせるべきであるとおっしゃるのでしょうか?文字というもの、特に漢字には一文字ごとに異なる意味を有する特殊な文字です。個別論はここでは議論すでべきではないので省略しますが、「竜」と「龍」、「辺」と「邉」のように文字の意味が変わらなければどっちを使おうともそれほど問題ないと思いますが、「干」と「于」のように文字の意味が変わる場合には字書というその道の専門化が長年の用例を加味した上で編集した専門書を活用すべきという意見が封殺されるようでは、検索の結果上位に表示されるWikipediaがネット上における漢字表現のブレの元凶となる日は遠くないと感じています。もちろん誰もが自由に参加できるというルールは勿論大事ですが、ネット上での資料引用なんぞはいくらでも恣意的に引用できる(今回のかげろん氏の例示がまさにそれ)わけですから、少しは専門書を尊重してもいいと思いますよ。字書くらい明白な基準はそうそうありませんからね(小学生向けの漢和辞典には「巨」の部首を「箱構え」にしているものもありますが、そういったものは特殊です)。実際に歴史関係の記述では専門書優先の原則が慣例で成り立っていますが、それ以外の分野、特に中国関連記事では一般著作物優先の原則が優先される傾向にあることには危惧いたします。そういった意味ではWikipediaで中国関連記事に手を出すことはパンドラなのかも知れませんので、某利用者の言うとおりこの分野からは手を引いたほうが無難そうですね。私は地道に中国の歴史的地名の方の作業に専念させていただきます。--Yonoemon 2010年3月17日 (水) 01:10 (UTC)[返信]
        • 専門書を尊重するからこそ、鉄道雑誌などの文献が求められたのではありますまいか。(たとえば) 中国についての専門性か、鉄道についての専門性か、そのどちらが、どのような理由、文脈で優先するのか、ということではないかと思います。記事内容なら複数表記が可能なのでまだ工夫はできますが、記事名は一つにしなければならないので、どちらかを選ばざるを得ません。選ぶための資料収集については、調べ物のためのウィキペディアに相応しいやりかたをするべきではないかと思います (もちろん、合理的な労力と期間の範囲で)。--Jms 2010年3月17日 (水) 12:10 (UTC)[返信]
        • ◆もちろん、管理者であれ一般の利用者であれ、ブロックの可能性について言及することには十分慎重であるべきです。しかし私がかなり厳しい言い方をしたのは、Yonoemonさんの今回の行為が非常に悪質なもので、今後これが繰り返されるような事態はどうしても避ける必要があると判断したためです。どのように悪質であるのかはあら金さんが2010年3月16日 (火) 05:58 (UTC) のコメントで述べられている通りです。まあこれについてはすでに「今回のような問題提起の方法は二度と行う気はない」との言明がありましたので、これ以上は申しません。
        • Wikipediaでの項目名のつけ方は、できるだけ正確であるのが望ましいのはもちろんですが、日本語話者にとってのわかりやすさも重視されます。正確さよりもわかりやすさの方を重視して項目名がつけられているものとして、ノート:瀋陽鉄道局でJmsさんがイギリスワンセグを例示されています。どちらを優先するべきなのかは、個別のケースに応じて慎重に考慮するよりほかにないと思います。その際の重要な判断材料が日本語文献での使用状況であるのはすでに述べた通りです。ただし正確ではない項目名を採用した場合には、項目本文の中で正確な名称についての説明を行うのが望ましいと思います。
          JAWPは日本語版であって日本国版ではないので国語審議会の決定に拘束される必要は全くありません。しかし、現実に日本語話者の大多数が日本国に在住していて、国語審議会が日本語のあり方に大きな影響を与えている以上、それなりに重視することは求められると思います。
          Wikipediaは言語学事典ではなく、百科事典なのですね。ですから、項目名を決めるのに言語学的な知識のない人の意見を排除するようなことはするべきではありません。例えばもしドイツ語に詳しい人がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの改名を提案したとして、「ドイツ語のことはよくわからないけど日本語の音楽関係の資料ではベートーヴェンと表記されている」と反対する人がいたら、その意見は十分に尊重する必要があります。確認して欲しいのですが、私が2010年3月15日 (月) 16:55 (UTC) のコメントでノート:穀歌について言及した際に例示した差分は、frommさんの意見に対するYonoemonさんの返信です。これを解決済みの案件だと言い張るのは、frommさんの意見は正当なものとは認めないと宣言するのと実質的に同等なのではないでしょうか。
          すでに述べたように私自身は正確さの方をより重視する立場ですし、JAWPのコミュニティには項目名を言語学的に正しいものに改めようとして熱心に活動されている方がほかにも何人もいらっしゃいます。しかしみなさんそれぞれに日本語での慣用にも気を配っていますし、言語学に詳しくない方が意見を述べた場合でも丁寧に対応しています。ところが、私の見る限り中国語に関わる案件だけは、なぜか非常に排他的な雰囲気で議論が進められているのですね。これはよくないことだと思います。
          Wikipedia:ウィキプロジェクト 中国で議論して中国関係の項目では言語学的な意味での正確さを優先するという合意を形成することは、一応可能かも知れません。ただその場合でも、地名項目などはそれでいいのですが、(上でJmsさんが仰っていることとも重なりますが)穀歌の場合はWikipedia:ウィキプロジェクト コンピュータにも関係してきますし、瀋陽鉄道局の場合はWikipedia:ウィキプロジェクト 鉄道が絡んできます。(たとえそういう合意が成立した場合でも)Wikipedia:ウィキプロジェクト 中国での合意のみを根拠に正確さを優先した項目名にすることは難しいと思います。--sergei 2010年3月17日 (水) 13:14 (UTC)[返信]
        • >穀歌に関してはClarin氏との間の問題が解決した後に
          呆れるばかりで言葉もありません。--Clarin 2010年3月19日 (金) 12:15 (UTC)[返信]
  • コメント Jmsさんの主張の当否にはあまり興味がありません。しかし、彼がいくつかの場所で、記事名の表記について自分の主張を述べることに熱中しているのには辟易しています。ノート:がいしの改名提案の議論でもそうですが、この議論が決着したからといっていったいどれほど得るものがあるのだろう、と不審におもいます。とはいえ、記事のノートなどあちこちでやられるよりは、こっちでまとめてやってくれたほうがまだありがたいです。 --Hatukanezumi 2010年3月19日 (金) 00:24 (UTC)[返信]
  • コメント 一名ほど「このページでするべきでないコメント」を繰り広げられていますが…それはさておき、一般論だと被依頼者兼依頼者が述べておられるのだから、そもそもこれは井戸端でやるべき議論じゃないでしょうか?少なくとも、コメント依頼に寄せられたコメントにいちいち反論している姿は、みっともない悪あがきにどうやっても見えてしまいます。そして、なぜ「ターゲットを明示」しているのにコメント依頼の対象は異なるのか、その点で「被依頼者はおかしい」とコメントします。--Springtide 2010年3月24日 (水) 07:55 (UTC)[返信]