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Wikipedia:井戸端/subj/ファンサイト的な記述

ファンサイト的な記述

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「ファンサイト的な記述である。」という理由で記事からテキストが除去されていることがありますが、どのような記述が「ファンサイト的な記述」なのでしょうか。--222.147.245.251 2007年10月17日 (水) 08:51 (UTC)[返信]

公式の文書に依存しない、個人の個性を強調しすぎる、検証可能性が足りない、感想文的、という感じではないでしょうか。--ゆきち 2007年10月17日 (水) 09:33 (UTC)[返信]
もし質問の意味が「ファンサイト的とはどのようなことなのかガイドラインのどこかに公式に規定されていますか」ということなら「明文の規定はありません。」というのが答えになるかな。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかにも別に「ウィキペディアはファンサイトではありません」といった規定は無いし。まあ内容的に個人的な見解を書いたに過ぎない文章はWikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんの「3.批評する場所ではありません。あなたの主観的・個人的感想や評論を書く場ではありません。お気に入りの作品を宣伝したり気に入らない作品を批評したりしてはなりません。」あたりにひっかかるだろうから記述の除去は問題無いかと。あとWikipedia‐ノート:ウィキペディアは何でないか#ファンサイトではないなんかを見ると「必要以上にやたら細かい記述」を「ファンサイト的な記述」と見て削ろうとする意見もあるようだけどこれについては異論があるみたいですね。--61.192.109.79 2007年10月17日 (水) 16:35 (UTC)[返信]
Wikipediaのガイドラインは、元々は「百科事典であること」を主題として、その周囲に形成されていったようですが、その過程で「困った記述(非百科事典的)」をする利用者に対するガイドラインも形成されていったものの、「あれをしてはいけません、これをしてはいけません」という禁則事項は少なく、「このように考えて記述すべきです」という考えが示される(故に「ガイドライン」な訳ですが)傾向も偲ばれます。ただ「本当に困った利用者」は「禁止されていないんだから書いて良いんだ」的な視点で百科事典から逸脱した内容を記述していって…で、結局は百科事典的でないという一点をもって除去されている次第で。いわゆる「ファンサイト的」というのは「百科事典に書く内容ではなく、ファンサイトでファン同士でやって欲しい内容」で、百科事典という「事物を説明する」という内容からはみ出した部分を指している訳で、例えば所定作品に対する個人的な感想だとか推測だとか他の作品の類似性やら盗作疑惑云々ないしお気に入りのキャラクターに対する過剰な描写(悪くするとセリフ丸写しで著作権違反)なんてもの等々、ケースを挙げれば数限りなく、その全てを一々理由を挙げて禁止するのも厭わしい(元より「百科事典としては不適切」の一語で済んでしまう)部分でもある訳で。まあ実際問題としてほとんど野放しなのが日本語版Wikipediaの現状とはいえ、本来の意味(Wikipediaは百科事典です)からいえば「書くほうが間違っている」ことを書き綴っている記事が多過ぎる訳ですし、それを殊更個人の思惑で増やすほうがどうかというところでもありますし、事物に対する愛はファンサイトでやるほうがより効率が良い訳で…いずれにしても過剰な事物への愛は傍目に引く部分でもあるだけに、一息で読ませる分量にまとめるのが肝心かと思います。--夜飛/ 2007年10月17日 (水) 17:06 (UTC)[返信]

「一息で読ませる分量」とはどの程度の分量を想定していらっしゃるのでしょうか。例えば私はWikipedia:秀逸な記事に選ばれたほとんどの記事は「一息で読む」のは無理です。内容を削ってすっきりさせた方がいいと思われる記事が結構あるのは確かなんですが、現行のガイドラインの

といった規定や

あたりの議論を見てもすでに書いてある内容を「著作権侵害」や「主観的」という理由では無く「過剰」という理由でばっさり削るのはなかなか難しいものがあるかなと思います。--61.192.109.79 2007年10月17日 (水) 18:50 (UTC)[返信]

一概に分量の問題とは言えないでしょう。「ファンサイト的記述」というのは文字通りファンでもない限りは用を成さないような記述のことでしょうから、「その項目(作品なり人なり)をまったく知らない人が見たときに、その記述はその項目に対する理解の助けになるかどうか」のような観点をもてれば、おのずと「詳細な事典的記述」と「ファンサイト的で過剰な記述」の区別がつくのではないかな、と思います。--Metronome 2007年10月17日 (水) 19:59 (UTC)[返信]
「一息」に関しては、適度な節分けなどを含め文章の構築がある程度重要な要素だと考えます。「ファンサイト的記述」で最も顕著なケースは、文の前後に関わり無く、各々のファンが自分の短いメッセージをただ追記に次ぐ追記でくっつけている状態。これは…雑誌の投稿コーナーみたいな感じで、各々のファンにとっては自分の葉書が掲載されている状態こそが重要なのであって、それ以外何が書いてあろうと顧みられません。そしてそのような記述のダラダラ続いているだけの節は、論があっちにすっ飛びこっちでぶち当たり向こうで横転しという有様で、一息で読む云々以前に挫折してしまうような状況で、百科事典の機能としての「事物の説明をするためのもの」が無い状態な訳で…
別に「一息に読める」っていっても、その冒頭文からカテゴリーを読みきるまで息を止めていられることをさしているわけじゃありません(というか、それやったら幾つかの記事の途中でありもしないお花畑画像が見えそうです)。節や項として、一つの文章としてまとまっている部分が、一連の情報として順序だって整理されている(少なくとも項の対象となる事物に対する説明に限定されている)ことだと考えます。秀逸な記事は、その多くが節ごとに論がコンパクトにまとめられて一息に読ませ、その各々の説が総体となってきちんと連携していると思います。--夜飛/ 2007年10月18日 (木) 03:59 (UTC)[返信]

最初に質問した者です。里田まいの項目で「ファンサイト的記述であること」を理由に編集合戦のような状態になっているのですが、そこで編集合戦の対象になっている記述の中に本人の芸名の由来を説明した文章が含まれています。芸名で活動している芸能人について芸名の由来を説明した文章が「ファンサイト的な記述だ」といわれるともう何を書いていいのか分からなくなってしまったので何か参考になることがあればと思い質問させていただきました。実際のところどうなんでしょう。このような記述でもファンサイト扱いされるのでしょうか。--222.147.245.251 2007年10月18日 (木) 04:35 (UTC)[返信]

えー…それはこの辺りのことでしょうか。なんというか…これは…いや、余りに…。正直な所として、記述者が対象に感じた印象とかエピソードの列挙とか、おおよそ情報が整理されておらず、ただ箇条書きの体裁で無作為に並べ立てただけという感じで、百科事典の記事としては恐ろしく異質です。到底一連の説明として成立していない以上、読者は余計に混乱する(多分途中で読むのを諦めるか最初からスルーする)だけに、書いた側が記述を残したいなら、個人的な感想や印象は抜きに、情報は系統だって整理して、文章として一連のものとして成立させる努力を払う必要があるように思われます。--夜飛/ 2007年10月18日 (木) 11:11 (UTC)[返信]