Wikipedia:井戸端/subj/企業記事に追加される「諸問題」節

各企業記事に追加されている「諸問題」なるセクション[編集]

表題に示しました通り、最近になって多数の企業記事に「諸問題」と題したセクションを追加している方(これがまたIPなんだ)がいらっしゃいます。内容は概ねその企業が起こした環境汚染のようで、それはそれで無意味な情報でないのは確かなんですが、この編集はどうにも異質と感じます(特別:Contributions/61.26.14.219を御覧下さい)。

Wikipediaは告発の場ではない、ということで修正か削除が必要だろうと思うのですが、皆さんから見てどうでしょうか? -- NiKe 2007年1月4日 (木) 01:56 (UTC)[返信]

拝見しました。何ですかこれは・・・書いているのはいわゆるプロ市民ですか?
裁判が起こったり社員が逮捕されたり、行政処分が下されたりして社会問題になった事件ならともかく、存在意義はまだ疑問符ですね。書くなら書くで労働問題なども取り上げなければならないし・・・まずはそのユーザーの会話ページか各社のノートで討議して必要性を問うのが先かな?何を目的にこれらを追加したのか聞いてみないことには・・・--Comyu 2007年1月4日 (木) 02:33 (UTC)[返信]
書き込み履歴先頭の5つくらいの諸問題項目を見ました。これらは新聞報道などされて、社会問題とされたものじゃないですか?各記事内で見る限りは、その内容は公的に言われているものを集めたもので特に偏った記述とは思えないですけど(すくなくとも見た限りは)。これって「告発」なんですか?。NiKeさんの「どうにも異質」という観点をもうちょっと解説いただいたほうがいいかなとおもいます。記事内の表現としては個人的には「諸問題」というタイトルが偏っているというよりも表現がWikipedia百科事典としてふさわしくないんじゃないかとおもいますね。わたしならここは修正します。また、記事全体の分量からその「諸問題」部分が大きく見える場合でも、どの記事でもすべてバランスいいわけではないので、Wikipedia:編集方針#完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんで下さいでのリファクタリング前にあたるのではないでしょうか。全体の編集姿勢という観点でみるても、そればかり書いていることが一概に悪いかというのも、まあ、いえないかなあと思うのですが・・。企業のコンプライアンスは昨今特にビジネスにおけるキーワードとなっています。個別の過去の事象がただしく記録されていることは未来に向かっての参考ですし隠すことではないと思います。Comyuさんの「書くなら労働問題・・・」というのも、書きかたがわるければ修正しましょう、書かれた意味を消去しないようにしましょう、バランス悪ければ追加もしましょう、よい記事とはながくなるものです、長くなったら分割しましょう、といったようなやり方がガイドとして提示されていますから、Wikipedia精神としてはそっち方向のものではないかなと思うものです。やっぱり、提案された、NiKeさんの「どうにも異質」という観点の解説が必要なんじゃないでしょうか。「告発」なんですか?。--Pararinpooh 2007年1月4日 (木) 03:15 (UTC)[返信]
すみません、書き忘れました。「何を目的にこれらを追加したのか」は必要ないのではないですか。「記述内容」がすべてだとおもいます。どんな高尚な考えでも記述内容がふさわしくなければ要修正ですし、記述者の目的がいいかげんでも記述内容が実は大きな意味をもっていることだってあります。「どのように記事内容としていくか」の対話は執筆者同士に必要になることは多いですが、「何を目的にこれらを追加したのか」という「動機の確認」は不要です。Wikipediaは百科事典をつくるのが目的ですよね。--Pararinpooh 2007年1月4日 (木) 03:21 (UTC)[返信]
これが諸問題をあげつつ、こっそり主観が交じってる表現になってるとかならば問題ですが数点ピックしてみましたがそのような記述も無いので取りあえず私自身が異質と感じたのは「環境問題のネガティブ面だけを特化して書き込んでいる」という事だけであって、それは「それに精通している、あるいは強く関心を持っている人」というだけの話な気がします。個人的には編集内容が興味深いな。アカウント取ってほしいな。程度には友好的でありたいと思いますが。--Chiether 2007年1月4日 (木) 11:25 (UTC)[返信]
難しい所です。確かに事実の列挙ではあるんですが「DHMOの話(事実に反することは一切言っていないにも関わらず、列挙した性質の説明の仕方一つで聞き手の認識を誤った方向に誘導することができる)」を思い出しました。人でも企業でも「功」と「罪」はあるわけで、その一方の観点のみを取り上げれば、バランスの悪い記述になります。それが違和感なり不快感なりの原因ではないでしょうか?--はま 2007年1月4日 (木) 11:50 (UTC)[返信]
決着まで書かれているものについては問題ないと思いますが、尻切れトンボになっている記述については私も違和感を覚えます。最終的に会社としてどのような対処をしたのか、どのような罰を受けたのかという点まで書かないとWikipedia:中立的な観点に反するのではないかと思います。こういう問題は起こりっぱなしで放置されることはないハズで、厳重注意を受けたとか、関係者を処分したとか、処理費用を負担したとか、何らかの決着に至るものではないかと。係争中か検討中ということであれば現在進行中のテンプレートか何かを貼っておくのが妥当ではないかと。削除するのはもったいない。--Ray go 2007年1月4日 (木) 12:59 (UTC)[返信]
中立な観点というのは、『「偏りのない」「中立的な」という言葉についてはいろいろな妥当な解釈がありえます。ですが、ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というものです。』、『偏りのない記述をするということは、ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである、と考えることもできます。』『事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな。』『意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。』です。「記事がバランスがとれていない」というのは表現としてないですね。誤りやすい表現だからでしょう。そうでなければリファクタリング以前の状態が許容されません。尻切れトンボではあっても、自分勝手に結論付けてはいけないですね。結論がないものは結論を書くことができません。事実だけが優先です。ここから勝手な意見を言わせていただければ、私がよく記述に参加している自動車関連でも、個別車種の記事なのに車種の機能や車種の歴史の説明もなく、CMとそれにかかわった歴代タレントの解説が四分の一も占めていると、私自身の個人的な見方だと、よっぽどバランスがとれていなくて違和感感じます。そんな記事がたくさんあります。わたしには今回話題になっている記述の方が、もっと社会的な観点からしっかり世の中を見据えている視点だと思えます。しかし、これらどちらも、それを中立の観点に沿っていないとするのは誤りです。みなさんの違和感とわたしの違和感はすべてWikipediaが許容している内容であり、単に個人の見方にすぎない意見です。バランスや違和感はWikipediaの定義された用語ではないので気をつけてつかわないと主観的になりますし、中立的観点も言葉の表面的意味でなくWikipediaの意味を理解して使用しないと、ガイドをみていない井戸端の閲覧者にあらぬ先入観をあたえるとおもいます。--Pararinpooh 2007年1月7日 (日) 00:43 (UTC)[返信]
Pararinpoohさんの仰ることがイマイチよく理解できません。が、「諸問題」の節のみをミクロな視点で見るのではなく記事全体を見た時に、『偏りのない記述をするということは、ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである』という点では、「諸問題」の節は微妙に問題があると思います。先の文の「論争」を「ある企業をどう評価・表現するか」と考えれば、「諸問題」のみを取り上げようという執筆態度は、記述しようとする企業に対し「特定の立場」を持つものだからです。「DHMOの話」にもあるように、嘘を書くばかりが情報歪曲の方法ではないんですよね。事実だけ喋っても、選択する事実を偏向させる(=バランスを崩す)ことで、嘘はつけるということです。(と言って「この節を削除すべし」というほど問題でもない所が微妙...)--はま 2007年1月9日 (火) 01:48 (UTC)[返信]
はまさん、こんにちは。「「この節を削除すべし」というほど問題でもない」という評価が、全体から吟味してのはまさんのこの書き込みに対する評価ですよね。つまりはまさんの評価は私と同じです。そう評価した理由の表現のしかたが違っているだけと思っています。また、はまさんのおっしゃる「記事全体を見る」という視点にまったく賛成です。ただし、はまさんのコメントですと、「「諸問題」の節は微妙に問題があると思います。」という記述以降の部分はミクロ(個別)の視点になっているとおもえるのですが・・・。
(個別の書き込みは事実として間違っていないという前提で)全体はこれから直していく話だというのが私の思っているところですし私はWikipediaがそうガイドしていると思っております。特定のパーツの"書き込み姿勢"とかに意義をさしはさむことは(よほどのことがない限り)Wikipedia精神とは相容れない、そして、今回は「よほどのことではない」し、一般的な書き込みだと思えるのです。有価証券報告書ではなく百科事典ですし、(いや有価証券報告書でも公的な評価はコメントするかも?) また、株主への年次報告書でさえマイナス評価を踏まえたうえで記さないと株主離れにつながる時代ですから。
ところで、DMHOの話を出されていますが、これも結局は、個別ではなく全体での意味するところに評価を置くということの一例を表現しているものと理解しています。それは記事全体に関する評価の視点で要求されることです。個別の書き込みアイテムに対して適用されるものではありません。今回の皆さんの評価は個別の書き込みに対する評価です。この場合にDMHOの例はふさわしくありません。そこを混同すると、話が書き込み事実以上に膨らんでしまい想像の世界へいってしまうと思います。--Pararinpooh 2007年1月9日 (火) 04:09 (UTC)[返信]

インデント戻します。どうも正しく理解されていないようです。私は「個々の文言単体の是非を見るだけでなく、その文言が全体に与える影響を見る」という話をしているのですよ。それがマクロな視点で考えるということです。自分が理解できないからといって「ミクロ(個別)の視点になっている」と決め付けないでください。そして「DHMOの話は、「DHMO=水に対してネガティブな性質のみ説明し、有益な部分を説明しない」という手法によって、個々の説明は事実に反することは一切言っていないにも関わらず、読み手をミスリードするという例です。これを以って「『諸問題』の節はWikipediaとして問題のない記述であっても、記事全体(=企業の説明)をミスリードする記述になり得ることを懸念する」と言っているのですから、この例を「適切でない」と言っている時点で、貴方が私の主張をきちんと理解していないことが証明されます。また、私と他の方が同じ点を問題視しているとも限らないので「今回の皆さんの評価は個別の書き込みに対する評価」と一括りで理解しようとするのは危険です。ともかく、自分の思いこみありきで他人の文章を解釈するのではなく、素直な目で相手の文を読むことをお勧めします。--はま 2007年1月9日 (火) 09:02 (UTC)[返信]

はまさんの記述に対してご期待に沿えるような理解ができなくて申し訳ないです。しかしながら、わたしには今回の個別の書き込みが、そういう見方で捉えられるとは思えないということを述べたいに過ぎないのですが・・。一見論理的に思えるのですが、その論理が今回の内容に当てはまるのかどうかというのが論点として重要と考えます。--Pararinpooh 2007年1月9日 (火) 10:20 (UTC)[返信]