Wikipedia:井戸端/subj/出典表記が過多な場合について
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出典表記が過多な場合について
[編集]おはようございます。さきほど高田世界館というページを見ていましたが、冒頭の一文が
- 高田世界館(たかだせかいかん)は、日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21]。
というようになっていました。高田世界館が映画館であるかどうかについて争いがあるのであれば、その論争について描写すべきところでしょう。逆にそうでなければこのような単純な事実を示すような場面で、出典ごとに微妙なニュアンスの違いがあってそれを伝えたいということもないでしょうから、2つや3つならともかく、21個も脚注を付けても、検証可能性が上がることはほぼなくて、記事の見栄え・読みやすさを悪くするだけだと考えますが、みなさんはいかがお考えでしょうか。--Jkr2255 2015年9月17日 (木) 23:13 (UTC)
- そうですね。過剰な気がします。例えば、文化庁のものや、上越市のものともう一つ映画関係ぐらいで十分な気がします。他にも必要であるなら残りを一つの脚注にまとめるということでいいのではと思います。--Xapones(会話) 2015年9月18日 (金) 00:02 (UTC)
- WP:OVERCITEには賛否あるでしょうが、これだけ多いと、出典の重要性を理解している人に対して、出典が多い理由(例えば論争の存在)を無駄に推定させる可能性があり、その点で可読性が下がっているかも知れません。出典の数も文章構成の一部なので、要点を意識した抑揚と構成が必要です。
- 一方で、WP:FAへの対応や議論の結果ではなく、初版から大量の出典を付けて投稿する人は、出典を付けること自体が楽しいのだと思います。そういう場合はモチベーションを下げずに軌道修正を促すことが難しいので、生産性との兼ね合いに配慮が要ると思います。- NEON(会話) 2015年9月18日 (金) 01:37 (UTC)
- 当該項目を拝見しました。確かに21個は出典過多かもしれませんね。せいぜい代表的な数件に絞ったほうが可読性的にも妥当と思います。--わたらせみずほ(会話) 2015年9月18日 (金) 16:25 (UTC)
例に挙がっている記事に対し、同じ違和感を抱いたことがあります。しかしながら、これは常識を使うことが求められることがらであり、一律に付けなければならないとか除去しなければならないとか、そういう思考停止による対応は、あらかじめ無益であると断定しても差し支えないでしょう。
例として、ある種の記事においてWP:NPOVからの逸脱(特定の観点の推進)を粉飾するために多数の脚注が付けられることがあり、そういう場合は、方針が相互牽制の関係にあることにより実現しようとしている事柄から外れているという意味で正当化はできません。
しかしながら、方針をプロジェクトをやせ細らせるために悪用する事例が後を絶たず、{{要出典}}などのようなテンプレートが改善ではなく嫌がらせや「管理ごっこ」に用いられる現状からすると、そうしたものに対する「魔除け」として「脚注21個」のような編集が行われることを非難したり批判したりするのは、物事の順序を誤っているというものです。--ikedat76(会話) 2015年9月18日 (金) 20:02 (UTC)
- コメント もちろん、出典をどれだけ付与すべきかというのは証明すべき内容・重要性・その「意外性」など、各種のパラメーターが絡んでくる事項であり、そこについて早まった一般化をしようという意図は元からありません。しかし、大前提としてウィキペディアは百科事典を作るプロジェクトであって、編集者のためだけにあるものでは決してありません。そんな中で、(適切に対処する方法があるような)編集者間でのいさかいを予防するために、可読性を落としてまで「魔除け」になるのかもわからないような編集を正当化しようとするというのも、それはそれで違うような気がしました。
- あと、以前にWikipedia:井戸端/subj/<ref></ref>内部は1つの資料の提示以外(複数提示)は不可か?というような議論があったことを思い出しました。
- この辺りも踏まえて自分の立場をまとめてみますと、「真に大量の出典が必要な場面であれば、それをただ脚注として置き去りにするのでなく、その必要性を本文に表現できるしそうすべきであろう」といったところです。--Jkr2255 2015年9月18日 (金) 23:56 (UTC)細かな修正--Jkr2255 2015年9月19日 (土) 00:08 (UTC)
- 私が言っていることの前後の脈絡を切り落として、話をねじ曲げないでもらえませんか。20個も注がついているのなんておかしい、と私は明言しているはずです。そういうことをもたらすウィキペディア日本語版のコミュニティの歪みを何とかしないと、こういうおかしなやり方もなくならない、そういっています。編集者のためだけにあるものではありません、そうその通り。だけど、それに最も反することをしている手合いに「適切に対処する方法」のコストが高すぎるのです。もっともらしいことを言うのなら、そこを何とかしてからにしてくれませんか。--ikedat76(会話) 2015年9月20日 (日) 15:51 (UTC)
- コメント これはどうもすみません。ikedat76さんと自分では「コミュニティの歪み」に対する捉え方の重みが違っていたようです。--Jkr2255 2015年9月20日 (日) 22:09 (UTC)
- 私が言っていることの前後の脈絡を切り落として、話をねじ曲げないでもらえませんか。20個も注がついているのなんておかしい、と私は明言しているはずです。そういうことをもたらすウィキペディア日本語版のコミュニティの歪みを何とかしないと、こういうおかしなやり方もなくならない、そういっています。編集者のためだけにあるものではありません、そうその通り。だけど、それに最も反することをしている手合いに「適切に対処する方法」のコストが高すぎるのです。もっともらしいことを言うのなら、そこを何とかしてからにしてくれませんか。--ikedat76(会話) 2015年9月20日 (日) 15:51 (UTC)
コメント ホントやめてくれませんか、こういう自警にエサを与えるような問題提起は。今回ここで、「出典が多い場合は適当な数に減らしたほうがいい」なんていう意見が優勢なまま議論が終結したら、それを金科玉条のごとく振りかざして出典を削除して回る自警や荒らしが続出することは、過去の経験から明らかです。
仮に10ある出典を3つに減らすとして、どんな作業が必要でしょうか? 直感で適当に3つ選び出して、残りの7つをばっさり削除する? そんな乱暴な。削除するなら10の出典すべてを確認し、その中で最適と思われるものを選び出さなければなりません。削除でなく、一つにまとめる場合でも同じです。出典を確認しないで出典をいじる作業をするとか、有り得ませんからね。で、出典を確認するのであれば、当然WEBで検索するだけでは足りません。図書館に足を運び、時には資料の取り寄せも行う必要があるのは、執筆経験のある利用者なら自明のはずです。そして、その中から最適な出典を選び出すには、記事の主題に対する深い知識が必要です。
記事の執筆者でもない自警連中が、図書館で資料を探すでしょうか? 主題に対する深い知識があると思いますか? あるわきゃないでしょう! 削除依頼に「俺が聞いたことないから特筆性なし!」と賛成票を投下するような連中ですよ? まあ最近はWEB検索ぐらいはするようですがね。きっと連中はこうするでしょう。「この出典はWEBで確認できたから残そう」「これは図書館までいかないと確認できないから削除でいいや」……光景が目に浮かぶようです。さらに言えば、記事の主執筆者が「出典を消さないでください」と差し戻しをしたとしましょう。それに対して自警は「出典は減らしていいという合意がある! お前の差し戻しはコミュニティの意志に反している!」と主張して大喜びで編集合戦を開幕させるわけです。ああ、疲弊するのはいつでも執筆者。……これって妄想でしょうか? いやー、妄想じゃないよ。今までこんなふざけた編集合戦、山ほど見てきましたからね。
一方、実績のある執筆者が、この出典削減・まとめ作業を担当するなら編集の質は保証されるでしょう。しかし、死ぬほど手間がかかる割に、リターンが皆無と言っていいほどです。記事が読みやすくなる? それにはまあ同意しますよ。でもね、実績のある執筆者の手をわずらわせてまでやる価値がある編集ですか? ねえよ、そんなの。
だいたいですね、出典が1つもない記事が腐るほどあるにもかかわらず、そっちは放置で、出典がたくさんある記事を問題視して、改善しよう! 減らそう! まとめよう! となるのが意味不明です。どうせ労力を使うなら、出典を減らすより新規に付ける方が大切だと思いませんか?
「真に大量の出典が必要か」とかどうでもいい。執筆者は必要だと思ったから出典を付けている、ただそれだけです。それを減らすためには、執筆者と同等の知識と労力が必要なんですよ。自警へのエサやりは禁止です。--202.174.216.14 2015年9月19日 (土) 14:56 (UTC)
コメント 基本的には導入部の書き方の問題ではないでしょうか?導入部は本文の要約ですので、特に必要がなければ出典を付ける必要はないはずです(参照:Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部))。人物記事における生年月日などであれば、導入部でも出典を付ける必要があると思いますが、今回のケースであれば定義文に出典を付ける必要は感じません。要約欄に「WP:LEAD#出典に基づき、論争になりえない定義文の出典を削除」とことわって、出典を除去してしまっても差し支えないように思います。
ただ、導入部の記述をやたらと削減する方を時々お見かけしますので、自分も最近は導入部にコマメに出典を付けて防衛線を張るようになってきました(導入部を定義文と勘違いされている、というのもあるでしょうか?)。この辺りの兼ね合いは悩ましいところですので、議論があっても良いのかもしれません。--Assemblykinematics(会話) 2015年9月20日 (日) 08:19 (UTC)
コメント だーかーらー、Assemblykinematicsさん、お願いですから危険な発言はしないでください。あなたの発言を読んだ自警連中は、「ああそうか、記事の最初に出典はないほうがいいんだ。よし、どんどん削除しよう」と解釈しますよ! あなたは「特に必要がなければ」とか「今回のケースであれば」とか予防線を張ってますが、連中はそんな配慮を理解できません。自分の都合のいいようにしか受け取らないんですから。
今でさえ、Assemblykinematicsさんが述べたように「導入部の記述をやたらと削減する」編集をはじめ、「○○は××である。」と「○○は××。」を無意味に置き換えたり、本文をぶった切っていい加減な「概要」節を設けたり、あるいは逆に概要を機械的に除去したり、と自分好みに導入部をいじくりまわす連中が横行しています。被害が導入部に集中する傾向があるのは、自警には「記事の主題に対する知識」がないので記事のメイン部分を理解できないからでしょうね。そんな連中が、「出典を削除してもいい」なんていうお墨付きを得たとしたら……悪夢としか言いようがありません。
とにかく、「出典が多くて困惑している」「今ある出典を減らす・まとめるのはどうか」なんつー議論には、百害あって一利なしと断言させていただきます。マジでね、ホント頼むから、「出典がなくて困っている」「出典を増やすにはどうしたらいいか」てゆー建設的な議論をしてくださいよ。
はいはい、もうこの話は終わり!!--202.174.216.14 2015年9月20日 (日) 13:24 (UTC)
- コメント ウィキペディアは百科事典である以上、編集者だけが内輪でわいわいやるためのものではありません。もちろん202.174.216.14さんが、のっけから21個出典の付いた記事を見て「これが読者のため」と信じるなら話が別なのですが、そうでないとしたら、現に存在する記事の問題より、起きるかどうかもわからない「自警」のほうを過剰に気にしてしまう姿勢こそ、個人的には「危険」ではないかと考えます。--Jkr2255 2015年9月20日 (日) 14:37 (UTC)
- コメント 「現に存在する記事の問題」ときましたか。大した問題じゃないと思いますがねえ、これは。あなたが問題視しているのは、「現に存在する出典がある記事」ですよね。しかも、出典は適切だがその数が多すぎて可読性が低い、読者に誤解を与えかねない、と。それは「現に存在する出典のない記事」よりも――記述の裏付けが皆無でまったく信用できず、読者に誤解しか与えないクソのような記事――を改善するよりも大事だ、とお考えのようです。こちらとしてはですね、ああもう3度目になりますが、出典のない記事が腐るほどあるにも関わらず、出典のある記事を問題視するのはやめていただきたい、と一貫して申し上げています。優先度の問題ですよ。おまけに、「出典を減らす行為を容認」するのは自警連中にエサを与える虞がある、と。いや虞があるじゃねーな、確実なエサですよこれは。
- 「出典を付ける」より「出典を減らす」方が重要で、優先的に作業をしなければならない、というのであれば、ご自由にどうぞ。自警デビューおめでとう! --202.174.216.14 2015年9月20日 (日) 21:46 (UTC)
- 「『出典を付ける』より『出典を減らす』方が重要で、優先的に作業をしなければならない」なんて、そんなことをいつ言いました? 出典のない記事について、そもそもここで議論しようともしていないのですが。--Jkr2255 2015年9月20日 (日) 22:09 (UTC)
- 202.174.216.14さん、「見出しの出典を減らす」ことがなぜ「相手にエサを与える」のか全く意味がわかりません。貴方の意見をゴリ押しするのはやめてください。そもそも見出しに出典をつけるのは本名とは別に芸名やペンネーム・通名(日本名)・誕生日を書く際に出典を出すことはあります。しかしそれでも1-数個が普通であり、21個は過多と思います。従って議題のようにそこまで大量に書く必要はないと思います。--わたらせみずほ(会話) 2015年9月21日 (月) 02:36 (UTC)
- 反対意見をいう相手にでたらめをいうのはやめましょうね。--ikedat76(会話) 2015年9月21日 (月) 05:57 (UTC)
- 「出典を付ける」より「出典を減らす」方が重要で、優先的に作業をしなければならない、というのであれば、ご自由にどうぞ。自警デビューおめでとう! --202.174.216.14 2015年9月20日 (日) 21:46 (UTC)
- ああ、Jkr2255さんに対して申し上げることは、もうありません。「無能な働き者」に対する懸念は、管理者の間では共通認識になっていると思っていたのですがねえ。残念です。--202.174.216.14 2015年9月21日 (月) 06:58 (UTC)
- 冗長ならなくてもいいが、あって非常に有害わけではない。Jkr2255さんの言うように、論争の存在を示唆してしまうということはある。建設的なのは、消す減らすにはどうするか、でなく、付けるときにどう選ぶかの指針でしょう。新しく書くときには、省略しても検証可能性が減じない部分は省略することを検討する。 --49.239.69.64 2015年9月21日 (月) 07:41 (UTC)
コメント ……そもそも、「高田世界館(2015年5月16日 (土) 14:34時点の版)」における定義文「高田世界館(たかだせかいかん)は日本の映画館である」に付けられている出典には問題があるようです。
大正時代に「世界館」の名称になり、その後何度も名前が変わりながらも「世界館」と呼ばれていたこともあったようですが、「高田世界館」という名称になったのは2009年です。現状では[1]~[21]の出典が付けられていますが、本来適切な出典は[1][18][20][21][30]ぐらいではないでしょうか。出典[2]~[16]は発行年が2009年以前ですし、出典[19]で使用されている名称は「高田日活」でした(出典[17]の文献は確認できていません)。
問題個所は立項者の方が執筆された初版と第2版で確立していますが、ソースから推測するに
- <ref name="***">***</ref>を定義文の横に集約して記述しておき、編集作業を進めていた。
- 初版以降に少し編集する予定であったため、定義文横の出典をそのままにしておいた。
- 第2版の後は編集しなかったため、出典をそのままにしてしまっていた。
といった事情ではないでしょうか(実際のところはKmrt様に聞いてみないと分かりませんが……)。
技術的にはCitation&Sfnといった出典テンプレートや、
- {{reflist|refs=
- <ref name="***">***</ref>
- ...
- <ref name="****">****</ref>
- }}
を活用するなどすれば、防げた事態だったように思います。--Assemblykinematics(会話) 2015年9月21日 (月) 11:53 (UTC)
最初に、この意見は空気を読んでいません。21個の出典は多すぎるように思います。だからと言って出典数を限定するのはどうかとも思います。私が思ったのは「複数付けるのであれば、それぞれ意味合いが異なる出典を付けるように心がける」ではと思います。会社合併の場合は、合併する両社のプレスリリースと新聞記事を複数個(3から5個程度)。会社の歴史の加筆であれば、公式サイトの歴史ページのリンク・社史のページ・企業研究など行った書籍のページと言ったように、意味合いを変えた複数の出典を付けるようにしていくようにすればと思います。現状の21個の出典は、位置づけが同じのもありますので、ある程度は見直して減らしてもと思います(信用度が確保できる範囲で)。--Taisyo(会話) 2015年9月23日 (水) 09:59 (UTC)
- コメント 導入部の事例ではありませんが、文末に5個以上脚注をつけた記事(四畳半物語 娼婦しの)があったので、検証して出典に則ってない文章を訂正したことあります。当件とは違いますが、文末の出典過多は概して「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成(WP:SYN)」が多いですね。こちらも導入部ではありませんが、1つの脚注に9個出典を入れてる事例で(脚注14)、可読性とは裏腹に、検証可能性を拡大解釈した編集だと思います。当件は既に検証してる方がいらっしゃいますが、典拠になっていなければ除去するという工程で確認していくしかないのでしょう。--らーしお(会話) 2015年9月24日 (木) 04:26 (UTC)
コメント 執筆されたKmrt様(投稿履歴)の新規立項記事の傾向を確認させていただいたのですが、ひょっとしたらテンプレート対する出典という意図だったのかもしれません。テンプレートのない記事は定義文への出典が比較的少なく(例 - 延命新地:6個)、テンプレートがある記事は出典が多めでした(例 - 堺勝朗:12個、下村健二:18個、沢賢介:15個、大和久守正:16個、プロダクション鷹:20個)。
なお、こちらでのご報告が遅れましたが、「高田世界館」において、定義文「高田世界館(たかだせかいかん)は日本の映画館である。」に対して直接の出典になっていない(虚偽出典と考えられた)出典を省かせていただいています。ただテンプレートの内容に対する出典が示されていない状態ですので、導入部同様に本文中に出典が示されて入れば必ずしも出典は必要ないように思いますが、後日テンプレート内の各項目に出典を付け直すつもりです。
あと、「初版から大量の出典を付けて投稿する人は、出典を付けること自体が楽しいのだと思います。」という指摘がありましたが、記事の主題について網羅した文献がない場合は複数の出典から情報を集めてきて執筆することになり、必要に迫られて出典が増える(細かく付けないといけない)ということが多いように思います(自分の経験も踏まえて)。もちろん主題について知りたいという気持ちも強いため、出典を調べる中でいろいろ発見があり、楽しいことに変わりはないのかもしれませんが…。--Assemblykinematics(会話) 2015年9月29日 (火) 21:39 (UTC)