Wikipedia:井戸端/subj/多言語間での特筆性の差異
|
多言語間での特筆性の差異
[編集]上の「殺人事件について」と関連するのですが、多言語間での特筆性の差異に関して皆さんのご意見をお伺います。時々、特筆性に疑問のある記事が他の言語版から新規作成されるように思います。日本語版と英語版の関係で顕著なのですが、一方の言語版では自らが属する側の文化に根ざした価値基準というものがあり、国際的には無名だがそれぞれの言語を用いる大多数の人々には良く知られた事物があって、そのような極端な例でなくとも、片方の文化ではギリギリ特筆性の存在が認められても他方ではまず特筆性がないと思われるケースがあるように感じます。上記でのローカルな刑事事件もそうですが、他にも地理に根ざしたものや古典的な多くの事件/事物、創作物やサブカルチャーなども、特筆性の判断における閾値付近の記事は、他方の言語版では異なる判断となりそうな気がします。もちろん特筆性の判断は、公式には言語に関わらず無関係な第三者による有意な言及といった判断基準が用いられるのですが、翻訳記事などでは有意な言及などあまり考慮することもなく多くが……他言語版には存在することをもって一定の特筆性の存在が担保されている/担保されているのではないか……という暗黙の了解が存在していると思います。上での「殺人事件について」でも、そのような了解事項を前提として書かれているようです。皆様の伺いたいのは、他言語版で「無関係な第三者による有意な言及」があれば日本語版でも無条件で認めて良い、としていいのでしょうか。他言語版からであろうがその情報ソースまで翻訳によって示されれば「有意な言及」となって「ケースEでの削除」は難しいのではないでしょうか? または「多言語間では特筆性に差異が生じます」という趣旨の注意書きをWikipedia:特筆性に書き込むべきだというご意見や、正反対に、Wikipediaはそれぞれの言語版で異なる言語を用いているが、究極的には汎地球的な百科辞典を目指しているのだから異なる文化を背景とする各言語版間で差異を設けるべきではなく、1つの言語版で特筆性の存在が認められた記事は他の言語版にも作成されるべきである、というご意見など、Wikipedia:日本中心にならないようにとの兼ね合いや、Wikipedia‐ノート:特筆性/過去ログ1#日本中心にならないなど過去に検討された経緯も含めて、皆様のお考えをお聞かせ願えませんでしょうか。--Shigeru23 2011年10月1日 (土) 01:12 (UTC)Wikipedia:日本中心にならないようになど、少し加筆しました。--Shigeru23
- ウィキペディアの「特筆性」は知名度、重要性、普遍性とはまた異なり、「無関係な第三者による有意な言及」があるかないかです。知名度、重要性、普遍性が高いものは「無関係な第三者による有意な言及」が多いので関連性はありますが、基本的には独立した概念です。したがって、「片方の文化ではギリギリ特筆性の存在が認められても他方ではまず特筆性がないと思われるケース」はあまり考えられません。「無関係な第三者による有意な言及」があるから特筆性が認められているわけで、それを日本語版だけ無視するわけにはいきません。ただ、特筆性のスコープ(範囲)はあって、ローカル(地域)、ナショナル(全国)、インターナショナル(国際)と大雑把に3段階にわかれていると思います。ローカルなもの・事件にはその地域とは独立のソース(大抵は全国版レベル)からの有意な言及が必要で、しかも百科事典として取り上げることが必要だと理解できるような言及でなければなりません。そして、そのような言及が出典付きで示されていれば、インターナショナルなレベルでも特筆性を有していると解釈するのが妥当だと思います。--Afaz 2011年10月1日 (土) 03:54 (UTC)
- ウィキペディアでのいわゆる特筆性は、ウィキペディア内部で発生するものではなく、外部にその根拠があるものだと思います。ですから「他言語版で無関係な第三者による有意な言及がある」という表現は少し的を外しているように思います。有意な言及があるのはウィキペディアにおいてではなく、その外にある情報源においてです。つまり、問題があるとすれば、その情報源が日本語であるかそうではないか、という点になると思います。そうした場合、現在多くの記事で英語の出典が用いられていることを考えると、情報源が日本語のみに限ることを要求するには無理があるように思われます。とはいっても、異なる言語版の間で方針に差異があってもおかしいことではありません(顕著な例はフェアユースに見られます)。そうすると、特筆性を認める基準やWikipedia:特筆性に相当する方針も違ってくる可能性があり、他言語版で特筆性があるとされていても、直ちに日本語版でも特筆性があるということはできないと思います。また、日本語版において、Wikipedia:特筆性を作る際に他言語版の方針を参考にするのはよいと思いますが、個々の事物の特筆性を判断する際に、他言語版での方針を参照する必要はないと考えます。
- 「日本中心にならないように」との兼ね合いでいうならば、特筆性の検討の際に、日本人であることに由来する感情的・主観的な主張は避け、客観的で(できうるなら)明文化された基準に従うよう努めるべきではないかと思います。特筆性の方針・ガイドラインの制定についてもこれは同様です。--Calvero 2011年10月1日 (土) 05:18 (UTC)
- Afaz様、Calvero様、ご意見、ありがとうございました。私からお尋ねさせていただいた疑問点の1つに対してましては、Afaz様が『そのような言及が出典付きで示されていれば、インターナショナルなレベルでも特筆性を有していると解釈するのが妥当』と仰られ、Calvero様が『明文化された基準に従うよう努めるべき』と仰られるように、「対象とは無関係な信頼できる情報源から有意な言及」であれば言語の違いは考慮すべきでない、という答えが導かれるようですね。では、特筆性の判断に関して閾値内と考えられる場合はどうでしょうか? つまり、仮に「……有意な言及」が示されていない他言語版から日本語版へ翻訳によって記事が作成された場合にはいかがでしょうか? 元となった他言語版側の記事には特筆性タグやノートでの特筆性への疑問など示されていないのですが、日本語版の編集者の1人が「この記事は特筆性を満たしていない」と指摘した場合を想定してください。他言語版でも日本語版でも「……有意な言及」が示されていないのですから、特筆性の立証は行われてはおらず、その判断は協議によって決されると考えられるのですが、その場合に、他言語版側では特筆性に関して何の問題も指摘されていない事実がどのように影響するとお考えでしょうか? 特筆性に関しては、他言語版側では問題ないのだから日本語版でも問題ないのでしょうか? それとも、他言語版と日本語版は特筆性の判断が異なるということでよろしいでしょうか? (Calvero様は上ですでに『特筆性を認める基準やWikipedia:特筆性に相当する方針も違ってくる可能性があり、他言語版で特筆性があるとされていても、直ちに日本語版でも特筆性があるということはできない』とご回答いただいているようですね。ありがとうございます。) 「特筆性に関しては、多言語間でその閾値には差がある」と言い切ってしまっていいのでしょうか? まだご意見をいただいていない方も含めまして、皆様のご意見をお聞かせいただければ幸いです。--Shigeru23 2011年10月1日 (土) 06:30 (UTC)
- Wikipedia上には無数の記事が存在しておりそれらすべてが完全に監視されているわけではなく、その辺りの事情は他のメジャーな言語版でもそう変わらないでしょう。従って他言語版において有意な言及が示されていないものの特筆性に関する疑義が呈されていない記事であってもその言語版において特筆性があるとされているとは限らず、どの言語版の記事においても有意な言及が示されていないような記事においては、「他言語版側では特筆性に関して何の問題も指摘されていない事実」はなんの意味もなさないと思います。過去にその言語版におけるノートの議論や削除の審議にて今現在記事に特筆性を示す有意な言及は提示されてないものの特筆性は認められるとする合意が形成されている、というようなログが存在しているようなケースはまた別でしょうけど。特筆性の証明としての有意な言及が示されていない記事に関しては、他言語版の記事の存在とは切り離して個々のケースに応じてその都度判断するしかないのではないでしょうか。
- 「特筆性に関しては、多言語間でその閾値には差がある」かに関しては、具体的に明文化された特筆性の基準については、Wikipedia:特筆性#関連項目にある「日本語版にはないが英語版にある各分野の特筆性に関するガイドライン」のように英語版には日本語版には導入されていない特筆性に関する文書はいくつもありますし、Wikipedia:特筆性 (人物)#アダルト俳優のように日本語版において独自に議論されて導入された基準もあるのですから、その点で言えば特筆性の基準に言語間の差は明確に存在していると言えるのではないでしょうか。また、特筆性のあるなしがきっぱりと明言できないようなボーダーライン上のケースでは、その考え方に人それぞれ差があるのは当然であって、議論に参加する人が異なれば閾値に差が出ることはあり得るといった意味においては差があって当然だろうと思います。それは他言語版のみならず、同じ日本語版内においても議論に参加する人が異なっていれば閾値の判断に差が出ても当然であるといった意味でもあります。--重陽 2011年10月1日 (土) 07:38 (UTC)
- Afaz様、Calvero様、ご意見、ありがとうございました。私からお尋ねさせていただいた疑問点の1つに対してましては、Afaz様が『そのような言及が出典付きで示されていれば、インターナショナルなレベルでも特筆性を有していると解釈するのが妥当』と仰られ、Calvero様が『明文化された基準に従うよう努めるべき』と仰られるように、「対象とは無関係な信頼できる情報源から有意な言及」であれば言語の違いは考慮すべきでない、という答えが導かれるようですね。では、特筆性の判断に関して閾値内と考えられる場合はどうでしょうか? つまり、仮に「……有意な言及」が示されていない他言語版から日本語版へ翻訳によって記事が作成された場合にはいかがでしょうか? 元となった他言語版側の記事には特筆性タグやノートでの特筆性への疑問など示されていないのですが、日本語版の編集者の1人が「この記事は特筆性を満たしていない」と指摘した場合を想定してください。他言語版でも日本語版でも「……有意な言及」が示されていないのですから、特筆性の立証は行われてはおらず、その判断は協議によって決されると考えられるのですが、その場合に、他言語版側では特筆性に関して何の問題も指摘されていない事実がどのように影響するとお考えでしょうか? 特筆性に関しては、他言語版側では問題ないのだから日本語版でも問題ないのでしょうか? それとも、他言語版と日本語版は特筆性の判断が異なるということでよろしいでしょうか? (Calvero様は上ですでに『特筆性を認める基準やWikipedia:特筆性に相当する方針も違ってくる可能性があり、他言語版で特筆性があるとされていても、直ちに日本語版でも特筆性があるということはできない』とご回答いただいているようですね。ありがとうございます。) 「特筆性に関しては、多言語間でその閾値には差がある」と言い切ってしまっていいのでしょうか? まだご意見をいただいていない方も含めまして、皆様のご意見をお聞かせいただければ幸いです。--Shigeru23 2011年10月1日 (土) 06:30 (UTC)
- 私も丁度疑問に感じていたところでした。Wikipedia:特筆性によると、検証可能な二次資料があるかないかなので、言語間の差はほとんど無いと思います。例えば日本に住んでいる日本人のほとんどが知らない海外の小さな人口100人の町でも、検証可能な二次資料があれば特筆性はあるといえます。差を設けると日本を中心にしたウィキペディア日本語版になると思います。ただし、これは「どの言語版でも特筆性に関するガイドラインが同一な場合」です。実際は少し言語版によって違うので、言語間の差は少しあるのが現状です。でも、特筆性を満たすために中立的な観点及びそれに深く関係するものを疎かにするのは問題があると思います。「特筆性」は「草案」で、「中立的な観点」は「方針」なので「中立的な観点」の方が優先されるべきだと思います。--Wikiemon 2011年10月1日 (土) 09:32 (UTC)Wikipedia:中立的な観点を参考に一部修正--Wikiemon 2011年10月2日 (日) 01:37 (UTC)
- 英語版の記事の中には、特筆性の言及がなくても存在する記事はあります。それは特筆性に関する文書中に「それらは特筆性がある」と書かれている場合と、削除議論のなかで特筆性があるとみなされてきた場合です。知る限りでは「100以下の自然数」、「高等学校以上の高等教育機関」、「各国の基礎自治体」などがあります(実際に存在することを証明する1つ以上のソースがあれば記事として成立します)。それらを翻訳移入する場合は、特筆性に関するソースを要求してもいいかもしれません。ただ、日本語版の特筆性に関する文書はほとんど英語版からの翻訳が主なので、日本語版と英語版で特筆性の基準が異なるケースはあまりないのではないでしょうか。これを他言語版まで広げると、異なった基準を設けているケースは考えられます。--Afaz 2011年10月1日 (土) 09:40 (UTC)
- 特筆性については言語版によって差異があることが考えられます。ただ、特筆性の根本的な精神に隔たりがあるとは思えません。基本的には記事の対象に第三者からどのような言及がされているか、それが信頼できるものであるかを問うというものでしょう。ですから、日本語版の記事であれば、それが翻訳記事であっても日本語版の基準でとらえることに大きな問題は生じないと考えます。また、特筆性を証明するための資料は日本語に限られないでしょう。これは、日本語の情報源でなくとも検証可能性を満たせることと同じ考えでよいと思います。日本語版にもフッキングのような人口100人ほどの村の記事がありますが、英語圏では著名で多数の言及があり、特に問題視されることもないと思います。また、他言語版に記事があることが特筆性を証明することはないでしょう。特筆性の問題は緊急性がないものなので、直ちに問題の指摘が行われるとは限らないものだからです。ただ、優れた他言語版の記事があるなら、それを翻訳することによって問題を解決できることが考えられ、特筆性の判断を見送ることはありうるでしょう。--有足魚 2011年10月1日 (土) 17:29 (UTC)
- 私は日本語版が日本の事象を扱うページが増える事については全く問題を感じませんし、多言語間での特筆性を意識する必要性も感じません。
- また、Wikipedia:日本中心にならないようにに付いては、Wikipedia の三原則を補助するルールであると言う前提を置けば、中立点がどこに有るページなのか・・によって、このルールを重んじるべきかどうかが変わってくると思っています。例えば国家間で論争の有る領土問題などを取り扱うページでは、確実にWikipedia:日本中心にならないようにを意識する必要性が高いでしょう。国によって対立軸が生まれるトピックでは、中立性を重視し、日本の観点のみの記述にならず、どの国の人が読んでも「中立的だ」と感じる事が出来る様に書くべきだと思います。
- (そう言う意味ではむしろ英語版が酷い状況になってますけど・・・)
- しかし、中立点がその様な部分に存在しない場合は、日本人が一般的に特筆性が有ると思う日本の事柄はどんどん書くべきだと思います。
- --Toshi999 2011年10月10日 (月) 22:57 (UTC)
重陽様、Wikiemon様、Afaz様、有足魚様、Toshi999様、ご意見ありがとうございました。私的ながら「まとめ」的なものを以下に書かせていただきます。いやそれは違うだろうということがございましたらご指摘下さい。
有意な言及がないなら『他言語版の記事の存在とは切り離して個々のケースに応じてその都度判断するしかない』というご意見や『他言語版に記事があることが特筆性を証明することはない』『特筆性に関しては、多言語間でその閾値には差がある』……というご意見などを拝見させていただき、今回お尋ねさせていただいた件での、概ね皆様の主要なご意見であると受け取らせていただきました。
また、上記に加えて『特筆性の問題は緊急性がないものなので』、他言語版に存在する記事が日本語版での特筆性の有無の結論をそう急ぐ必要も無いかもしれませんし、記事によっては「Wikipedia:日本中心にならないように」を重視して、特筆性も中立的な立場に配慮する必要があると言うご意見に納得いたしました。
皆様、ご意見ありがとうございました。--Shigeru23 2011年10月12日 (水) 10:02 (UTC)