Wikipedia:井戸端/subj/安全側に倒して削除
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無根拠な「安全側に倒す教」は止めてもらいたい。
[編集]よく「安全側に倒して」削除などと言う利用者がいる。しかし法的な根拠や具体的なリスクが考えつけないにも関わらず法への無知と畏怖心から盲目的に「安全側」(と思い込んでいる方向)に持って行こうとする姿勢は思考停止と対話拒否の典型であると感じており気に食わない。そうすることで今度は日本国憲法に規定されている表現の自由を侵害したとしてウィキペディアの管理者が訴訟を受けたとしたらどうするつもりなのだろう。もし資金に余裕ありその様なことが起きたのならば(馬鹿馬鹿しい話だが)喜んで法的な手段を取るだろう。--Sionnach 2007年7月11日 (水) 13:52 (UTC)
- おれは、誰が言ったとしても、論理的・法的などのいくつかの観点から検討して、正しいと思う主張には反対し、間違っていると思う主張には反対したいと思う。しかし、ときどき、「主張者のスタンスによって評価が変わる主張」というのがあり、それらについては「おまえが言ったのならば反対する。他のやつが言ったのなら、賛成するかもしれないし、見過ごして反対はしないかもしれないのだが、しかしおまえが言ったのだから反対する」というケースがある。
- 常に安全側に倒すのが正しいかどうかという指摘は、普段からそれなりに中庸な判断をしているやつが主張するのなら、同意するのが相当な主張だろう。常にほとんど根拠もなく危険側に倒してわけわからん制限をかけたがる馬鹿はいるからな、「安全側に倒す、という考え方」に対して異議を唱えておく価値はあると思ったりもする。
- しかし、普段から言論の自由側に倒れており、要するに危険側に倒れてるやつが、同様の主張をしたとしたら、それに同意できるかどうかは微妙だねえ。おれは、とりあえず反対しときたい。「なにがなんでも安全側派」の、たとえばMiya氏あたりを力づけたりしないよう、万全の注意を払わなければならないという二正面作戦を余儀なくされるってのがめんどくさくてかなわないがね。
- 主張するのは、ま、かまわないよ。自分の立ち位置を考えた上で、主張することが、その「主張」にとってプラスになるのかどうかを、考えたまい。考えた上で、時として沈黙を選ぶという選択ができる程度の大人の知恵を身につけ実践したまい。いいかげん迷惑だから。--Nekosuki600 2007年7月11日 (水) 14:02 (UTC)
- 有難う。こんな儂に真朋に返事を付けて呉れて。確かにいつも安全側に倒したい人とそうでない人間なら扱いを変えないといけなかった。最終的には対話なのだが、私情が絡むとそれすら機能しなくなるのは確かに困る。もっとこうコミュニティー全体で決を取るというなら誤差で済むかもしれないけれども今の依頼系ページの状況は参加者の増加に反して意図せず寡頭政治様になってしまっている気もする。--Sionnach 2007年7月11日 (水) 14:45 (UTC)
- たぶん、私の事を指しているんでしょうね。「法への無知と畏怖心~」と言う点は真摯に受け止めます。学生時代から生物バカで生きてきましたし、Wikipediaで活動していくには必要であると感じています。
- しかしながら、それに続く「思考停止と対話拒否の典型」と言うのはいただけないですね。全体の合意で動くべきプロジェクトであれば、様々な意見があるのは当然でしょう。現状では、保護解除でも件の人物については拮抗しています。コミュニティーとしてどちらが益かはっきりしない状態で、現状維持と安全側に判断する人間がいてもおかしくないでしょう。それをとって「思考停止と対話拒否の典型」と表現し、また日本国憲法まで持ち出すのはいかがかな?と思います。私としてはどちらが「対話拒否」か別の方に判断して欲しいと思います。--貘 2007年7月11日 (水) 14:25 (UTC)すいません若干修正しました。--貘 2007年7月11日 (水) 14:28 (UTC)
- いや。貴殿のことは知らない。対話が成立していて自覚がある限りは貴殿は熱心な「安全側に倒したい教徒」でもなければ対話拒否でもない。「いつでも安全側に倒したい人」に逆らって自由を勝ち取ったり奪われてきた経験があるので話題に出しただけだ。--Sionnach 2007年7月11日 (水) 14:45 (UTC)
- ここで、突っ込まれたものです。タイミング(貴方の履歴)からみて私の事を言っているのだと思いました。それでは申し訳ございません。--貘 2007年7月11日 (水) 14:51 (UTC)
- いや。貴殿のことは知らない。対話が成立していて自覚がある限りは貴殿は熱心な「安全側に倒したい教徒」でもなければ対話拒否でもない。「いつでも安全側に倒したい人」に逆らって自由を勝ち取ったり奪われてきた経験があるので話題に出しただけだ。--Sionnach 2007年7月11日 (水) 14:45 (UTC)
- ある程度知識があっても、実務上、はっきりしたことは言えないケースも多いです。そういう場合は、どこまで安全側に倒すか、というのは、参加者それぞれの感覚的な部分もありますから、「かなり安全側に倒す」というのも、問題のある古い版を削除すると、「以降」が削除されてしまう現状では、一つの意見でしょう。
- 実際に法的な問題が生じないなら、「法的な問題がない」と、筋道立てて説明することで、周囲の意見を改めてもらうことを試みるのが、第一だと思います。その判断と説明のためには、条文や法律関係の解説書をしっかりと読んでおく必要があって、根気強くいろんな局面で説明を繰り返して、その考えが浸透させるのが、好ましいと思います。大変ですし、独自の解釈に陥る可能性もありますから、そこは注意しないといけないですが、やる気があれば、だれでもできることではあります。法律に詳しい編集者は、そう多くないですから、その労力を惜しまずに、少しずつでも知識を蓄えていく編集者が増えれば、過度に安全側に倒して削除することで、情報や執筆者のやる気を失うことは避けられるはずですし、ウィキペディアに知識が蓄積されていくことにも繋がります。
- 削除依頼は、そこそこ法的な根拠を示して審議されるようになってきましたし、存続で終了することも増えたように思うんですが、どうでしょう?--Ks aka 98 2007年7月11日 (水) 15:39 (UTC)
(2点コメントを。)1つは、表現の自由の守り方にもいろいろあると思います。とにかく表現の自由を重視して、書けるだけ書く、という方向も表現の自由のストレートな実現の方法論ですが、妥当でない表現と妥当な表現を区別するのも表現の自由の価値を維持するために大切です。表現の自由の御旗のもとに、不適切な表現を放置すれば、むしろ表現を制約する意見に合理性を持たせる原因にもなります。
もう1つは、Ks aka 98さんも触れているように、法的な根拠をもとに議論すべきですが、裁判で争って現実に負けるまでは譲らない、という方法論はウィキペディアでとるべきとは思いません。その意味で、懸念が100パーセント確実でなくても、ある程度以上あれば他者の人権に配慮する、というのであれば、それは妥当な「安全側に倒す」だと思います。結論は専門家内でも割れることは珍しくなく、専門家に限らずにコンセンサスの頭数に入るシステムなので、なおのこと議論は大変だと思いますが、表現の自由だけ、逆に名誉・プライバシー等だけに常に偏って考えていては、一番適切な答えはでない、ということを元に議論を進めていくことになると思います。--磯多申紋 2007年7月11日 (水) 16:03 (UTC)
- おそらく、批判の対象のひとりであろう私から、自分の考えを述べておきましょう。個人の名前を含んだ不名誉な事実については「報道されたからといって記載して構わない」とは全く逆の立場だと明言しておきます。Wikipediaは百科事典であってニュース速報ではない以上、また報道されてから時間の経過とともに記事や記載が自動的に削除される訳ではない以上、将来、知らされない権利を守る、あるいは侵害しないためにも、記載しないことを大前提としなければならないと考えます。犯罪被害者は例外なく、犯罪加害者も削除の方針にある例外を除いては(それも拡大解釈は避ける)記載しない方向でいくべきです。とにかくインターネットというメディアは、一度記載されたら完全に消し去ることは極めて困難だという点を踏まえるべきで、新聞、雑誌やテレビ、ラジオと同じ基準は適用できないはずです。--DEN助 2007年7月12日 (木) 01:22 (UTC)
- たとえばあなたが某国の政治的指導者ないしそれに近い立場の人で自分の国に都合のよい百科事典を作らせるというのならそれでも構いませんが。被害に遭った人たちが受けた被害を後世に伝えたいという心情があることを忘れないでください。あなたにとって都合の悪い既に知られている事実を後世に知られたくないという考えはそれだけで被害者の感情を傷つけます。お気をつけください。--Otaku is beautiful 2007年7月12日 (木) 09:12 (UTC)
- ではその被害者に希望をどうWikipediaでは汲み取るのでしょうか? 当たり前のことですが、すべての犯罪被害者が自分のことを世間や後世に伝えたい訳では絶対ありません。まぁ、例外なく犯罪被害者は書くなといいましたが、自ら希望して被害状況や個人情報を積極公開している方々(川田龍平氏の例など)は除外してもいいでしょう。--DEN助 2007年7月13日 (金) 00:30 (UTC)
- 韓国語版にはこの手の事件で被害を後世に伝える目的どころか、晒し目的で作られている人物記事があるようです。(最近済州特別自治道で起きた失踪殺人事件の被害者の記事もあるようです。)報道されたからと言って作ってよいと考えているようです。報道と百科事典の区別がつかないのかと。。。--hyolee2/H.L.LEE 2007年7月13日 (金) 01:25 (UTC)
- たとえばあなたが某国の政治的指導者ないしそれに近い立場の人で自分の国に都合のよい百科事典を作らせるというのならそれでも構いませんが。被害に遭った人たちが受けた被害を後世に伝えたいという心情があることを忘れないでください。あなたにとって都合の悪い既に知られている事実を後世に知られたくないという考えはそれだけで被害者の感情を傷つけます。お気をつけください。--Otaku is beautiful 2007年7月12日 (木) 09:12 (UTC)
[表現の自由を侵害したとしてウィキペディアの管理者が訴訟を受けたとしたらどうするつもりなのだろう] 憲法は原則的に私人間の直接契約関係を規定するものではないので、そんな訴訟は成り立ちません。wikipediaは公共空間ではないので、表現の自由が保障されている場所ではないのです。ですからSionnachさんの心配は杞憂です。気に食わないとおっしゃってもそれでは議論が成り立ちません。自由を勝ち取ったり奪われたりするのは、wikipediaにおける闘争の結果でしょう、表現の自由とは関係ありません。議論終了ですね。--PeachLover- ももがすき。 2007年7月12日 (木) 03:42 (UTC)
- それは如何かね。別に投稿者は日本人とは限らぬし(莫迦らしい考えだと思うが)、大体投稿時に投稿者に責任を負わせるための免責事項も表示されない。英語版では如何だ?
- それはともかく他の様々な紙媒体ないしオンラインの百科辞典のそういったプライヴァシーポリシーの範囲内で倣うのであれば儂はそれを「無根拠」として非難する心算はない。--Sionnach 2007年7月12日 (木) 21:56 (UTC)