Wikipedia:井戸端/subj/旧字旧仮名の使用について

旧字旧仮名の使用について[編集]

Wikipedia:削除依頼/国王神社で出た話ですが、旧字旧仮名の使用を強行するユーザがいくばくか存在します。前述の削除依頼中では『「旧字旧仮名」を、日本語版Wikipediaにゐる「他のひと」が判らない、といふことが信じられない。』と言われる始末なのですが、JAWP において『他の人が判らない、ということが信じられない』から使っていいのか? と疑問に思っています。

現代かな遣いも旧字旧仮名もどちらも日本語であることは承知していますが、百科事典においてそれの使用が推奨・許容されるのかどうかは別問題だと思うのです。旧字旧仮名を使うことを許容してもいいものなのでしょうか? --yfuruhata 2006年8月6日 (日) 13:06 (UTC)[返信]

利用者‐会話:Yfuruhata#Wikipedia:削除依頼/国王神社におけるコメントについてでも書かせていただきましたが、記事は現代仮名遣いで書くことが原則となっています。依頼自体の正当性については私からは何ともいえませんが、yfuruhataさんは不当な依頼で依頼自体が無効だと考えられているようですね。判断が長引くようなら依頼を取り下げていただいて、私が出し直してもかまいません。--Tamago915 2006年8月6日 (日) 13:18 (UTC)[返信]

これは日本語の表記法の歴史を踏まえないと十分な理解ができないトピックではあるのですが、このwikipediaでは項目本文を歴史的仮名遣で記述するのは許容されない行為であることは言うまでもないでしょう。ただ、ノートやwikipedia名前空間等での議論で歴史的仮名遣を使うことは、推奨はされないものの許容された範囲の行為であると思料いたします。なぜなら、現代仮名遣いは常用漢字と同じく、日本における国語教育として推奨されているに過ぎないものであり、歴史的仮名遣は日本語の表記法として完全否定されておらず、現代の日本人でも丸谷才一氏のように使用されている方も少なからずおられる他、例えば台湾や韓国などでは今でも歴史的仮名遣により日本語を表記したり読んでいる方々が多数おられるからです。もっとも、日本語が通常使用されている現場では、歴史的仮名遣よりも現代仮名遣いによることの方が圧倒的に多い訳ですから、そうした現状の中であえて歴史的仮名遣を使用することは、wikipediaでの議論では不利となる可能性があります。ですので、wikipedia(のノート・wikipedia名前空間など議論の場)における歴史的仮名遣の使用は、推奨まではされないが、許容される範囲にはある。ただし、議論などにおいて自分の意見が不利な立場に置かれる可能性はある。ということになろうかと拝察いたします。個人的意見としましては、いやしくも百科事典の執筆・編集に携わるウィキペディアンであるならば、歴史的仮名遣も普通に読みこなせる人であれかし、とは思いますけれども。--shimoxx 2006年8月6日 (日) 13:32 (UTC)ちょと追記shimoxx 2006年8月6日 (日) 13:37 (UTC)[返信]
これはあくまでも原則論です。つまりWikipedia名前空間に参加する場合には、旧字旧仮名を解さないとならない、という意味でしょうか。私にはそう読めます。
そりゃまあ、私だって旧字旧仮名はなんとか理解しますが、旧字旧仮名の使用は当然の権利だと言わんばかりに『「旧字旧仮名」を、日本語版Wikipediaにゐる「他のひと」が判らない、といふことが信じられない』という考えのもと使われるのも、それはそれで問題です。多数の人が参加するプロジェクトにおいて、現代仮名遣いが使用可能なのに、わざと旧字旧仮名を表記するような行為は、現に戒められるべき行為だと思うのですが。--yfuruhata 2006年8月6日 (日) 13:56 (UTC)[返信]
私は shimoxx さんに近い考え方を持っています。百科事典記事中では Wikipedia:スタイルマニュアル#日本語 にある通り、現代仮名遣い、常用漢字表にある字体のものを使うのが原則です。それに対し、ノートや削除依頼等で各利用者が発言する際は、ある程度は個人の嗜好や習慣が許されても宜しいかと思います。
程度問題であり一律に判定する訳にはいかないと思いますが、Wikipedia:削除依頼/国王神社で壽日さんが使われている程度なら、問題ない範囲かと思います。yfuruhataさん仰せの「依頼不備」は、Wikipedia:削除の方針Wikipedia:削除依頼の記述に照らしても理由がありません。
壽日さんには、できましたら、日本語を母語としない方、 {{User ja-1}} の方にも優しい書き方も考慮頂ければ有難いと考えます。ただ、あくまでもそれは壽日さんの自由であり、書き方を変える義務は全くないと思いますが、いかがでしょうか。 --Kanjy 2006年8月6日 (日) 13:45 (UTC)[返信]
建前から言えばWikipedia日本語版は「日本語版」であって「日本版」ではないのであり、日本語を母語とする人からも参照されている可能性があります。shimoxx様が指摘されるような旧仮名遣いを学んだ人との多寡はわかりませんが、日本語学校で学んだ人や翻訳ソフトを利用するであろう人をいたずらに混乱させるべきでないと考えます。私的なページはともかく、記事はもちろん記事のノートなどのパブリックな範囲でも通常使用される現代仮名遣いを用いるべきと思います。・・・・・・とは言え、実際にそのような利用者がどれだけいるかもわかりませんし、あえて禁止とするまでもなかろうと思いました。(書き込みのタイミングと議論の流れから、kinori様の前に書き込むことをお許し下さい。) けんち 2006年8月6日 (日) 14:25 (UTC)[返信]
こと削除依頼については、ルールにそっていないという理由で退けてはならない事情があります。ウィキペディアのルールに従わないことは、権利侵害を放置する正当な理由にならないのです。たとえば、権利者でない誰かが著作権侵害をみつけて削除依頼に持ち込んだが、手続き不備で却下されたとしましょう。その後権利者が直接訴訟にふみきると、ウィキペディアが敗訴します。知りながら放置したからです。どこか不備なところを見つけたら、気付いた人が補完してください。(この場合、本当に読みにくいなら訳をつけるなど) Kinori 2006年8月6日 (日) 14:02 (UTC)[返信]

「現代仮名遣いが使用可能なのに、わざと旧字旧仮名を表記する」のは、信念があるからです。そうでなければ、するはずがない。しかし、(これはここでも宣言したことなのですが)Wikipedia:スタイルマニュアルに書いてあるように認められてないようであるので、自分の利用者ページ以外ではやめました。標準名前空間ならわかります、元より記事に投稿するときは現行の仮名遣い、字体を選択する気でした。しかし、それ以外の名前空間でも使ってはいけないなんて意味わからんし、またそんな理由で依頼不備を訴えるyhuruhataさんも、どうかしていると思うのですが。--壽日 2006年8月6日 (日) 14:25 (UTC)[返信]

("依頼自体が無効"という見解は行き過ぎだと感じますが)「依頼」「対話」を行うわけですから、書く側は相手にとって読みやすい文章・文体を心がけるべきでしょう。これは規則などではなく礼儀や常識といった問題だと思います。-- D.328 2006年8月6日 (日) 14:55 (UTC)[返信]
いやはや、わかりました。うっかり出ないように、気をつけます。(以下独り言。正字正仮名が読みづらい、というのがようわからんのです、別に言文一致以前の文体で書いているわけではないですし、なんていってみてもむなしいなあ。)--壽日 2006年8月6日 (日) 15:15 (UTC)[返信]
(御独り言に返信)読みづらいと「感じる/感じない」のは、単なる慣れの問題かと。上下が逆さまに映る眼鏡をつけて生活する実験 みたいなもので、使っているうちに正字正仮名にも慣れてしまって 読み書きに困難を感じないようになるのだと思います。
「読みづらい」の具体的感覚ですが、正字正仮名表記を読むとき、私の場合 若干のタイムラグを感じます。なんといいますか、「どうもすんなり読めない」という感触です。-- D.328 2006年8月6日 (日) 17:25 (UTC)[返信]

標準名前空間以外において、使用する言語や表記についての規制は全くありません。上のやうな方々は英語やドイツ語で残されてゐるノートの文章をも否定するのでせうか。ローマ字で日本語が書いてあつたこともあつたやうに記憶してゐます。削除依頼とは「依頼」「依頼者」「理由」についての審議をする場所ではなく、提案されたページ(もしくは版)が削除の方針に合致するか否かを検討する場所です。その意味で依頼不備といふ事態はそもそも存在し得ません(例外は対象のページ指定がない場合)。そこのところをはき違へないやうお願い致します>皆様。Tietew 2006年8月7日 (月) 06:24 (UTC)[返信]

ただ単に「使うな」と言っているわけではありません。「削除の方針に合致するか否かを検討する場所」において、『信念』を唯一の理由として旧字旧仮名の使用を強行する行為は問題ではないか言っているのです。対話が必要な場においてそれを強行する行為は、ただの対話拒否だと感じます。しょっぱなから対話を拒否しつつ依頼を投げ付ける行為は無効でしょう。
もちろん、必要があって他国語で会話を行う必要がある場合もあるでしょうし、そもそもJAWPに日本語を母国語としないウィキペディアンがいても当たり前の話でしょう。そこには日本語(現代仮名遣い)以外でノートなどに記載を行う必然性がありますから。 --yfuruhata 2006年8月8日 (火) 02:51 (UTC)[返信]
規制はまったくないと言っても、限度はあると思います。極端な話ですが、全部モールス信号で書かれていたり、投稿者が自分で創作した言語で書かれていたりしたら、どうでしょう。さすがに"依頼不備"と見なされるのでは?正字正仮名の話とはレベルが違いすぎますけれども(あくまで「たとえ」ですよ)。
いやがる人がいるところを「規制が無いならどう書いても自由だ」と押し通すのは、常識的に見てよろしくないのではないかと申しております。-- D.328 2006年8月8日 (火) 04:58 (UTC)[返信]

알았읍니다。標準名前空間外は特に規制がないということで理解しました。Himetv 2006年8月7日 (月) 07:12 (UTC)[返信]

是。規制はありません。しかし、読むかどうかは別問題です。ただし、読めないからと言って、依頼不備だなどという主張は根拠がありません。Tietew 2006年8月8日 (火) 14:20 (UTC)[返信]
ああなんだ、Wikipedia:スタイルマニュアルが適用されるのは、標準名前空間のなかだけなのか。 yfuruhataさんは、正字正仮名がよみづらいから、ということで依頼不備と仰ったのですか。なんだか、yfuruhataさんの「旧字旧仮名が嫌い」という気持ちと、私の「歴史的假名遣ひ、正字體をつかひたい」という信念のどちらが優先されるか、などというあほらしいはなしに思えてきました。「「削除の方針に合致するか否かを検討する場所」において、『信念』を唯一の理由として旧字旧仮名の使用を強行する行為」が、せめられることなのかどうか、がよく分からん。言いがかりとしか思えん。「旧字旧仮名」でも対話はできますしね。だで、そんなことで「対話拒否」を主張されても困る、というのが当方の主張です。(ところで、非常にどうでもよいことですが、yfuruhataさんの仰る「日本語(現代仮名遣い)以外」には、「旧字旧仮名」いいかえると、「歴史的假名遣ひと正字體で書かれた日本語」も含まれる気がします。)--壽日 2006年8月8日 (火) 14:22 (UTC)[返信]
> あほらしい言いがかり
最初からそうだと思っていたのですが、違うのですか? Tietew 2006年8月9日 (水) 03:19 (UTC)[返信]
たしかに「あほらしい言いがかり」なのですが、Wikipedia:スタイルマニュアルに現代仮名づかいがどうの漢字の字体がどうの、と書いてあって、私が、それが標準名前空間だけに適用されるものだと気づかず、これがWikipedia:削除依頼に適用されていたら、もしかしたら私の依頼も無効かしら、なんて考えたものですから、ってどうでもいいなあ本当全く。私も、もう過去ログにいれてもいいと思うのですが、ねこぱんださんと同じく移動方法がわかりません……。--壽日 2006年8月9日 (水) 10:13 (UTC)[返信]
> スタイルマニュアルでは、ウィキペディアで作成されるすべての記事が守るべき文章スタイルの指針を解説します。
Wikipedia:記事とは何かを参照してみてください。結構前から「記事」を「項目」に直しつつあるのですが、あまり気合いを入れていないのであちこちに残っています。なお、ログ化については心配要りません。SGreenさんが行ってくださっています。Tietew 2006年8月9日 (水) 13:38 (UTC)[返信]

もういいでしょう。過去ログへの移動方法がわからないので、どなたか移動おねがいします。 --ねこぱんだ 2006年8月9日 (水) 00:17 (UTC)[返信]

SGreenさん、移動くださり有難うございます。
日本語を母語としない方にとって旧字旧仮名遣いが優しくないと決め付けるような書き方をしてしまいましたが、行き過ぎでした。撤回します。現代語の語彙と文法を丁寧に使い、旧式なのは正書法だけですから。むしろ誤った言葉遣い(誤変換を含む)の方が障害になりやすいかもしれません。
私はドイツ語を少し学びましたが、それほど得意ではなく {{User de-1}} です。新正書法でドイツ語を学びましたが、例えば接続詞 dass を旧式に daß と書かれても何ら問題ありません。むしろ、正書法を逸脱して das と書かれるほうが、読解の難易度が上がります。日本語とは違う面もあるでしょうが、ご参考まで。 --Kanjy 2006年8月9日 (水) 18:19 (UTC)[返信]

ウィキペディアの「歴史的仮名遣」の項目にある通り、歴史的仮名遣は尊重されるべきものであり、義務教育の過程で古典を通じて習ふものである。よつて、個人の信念による、正字正仮名づかひは公の場で否定されてはならない。これは感情の問題ではない。以上の署名の無いコメントは、Tropicalia(会話履歴)氏が[2006年8月21日 (月) 21:35 (UTC)]に投稿したものです(ゆ~り☆ミによる付記)[返信]

康煕字典体や歴史的仮名遣は一つの規範ですが、『正』ではありません。お間違えなく。記事部分に関しては、Wikipedia:スタイルマニュアルに従うのがこの場のルールです。それもこの議論の中で確認されています。話を戻さないほうがいいでしょう。 --ねこぱんだ 2006年8月23日 (水) 23:58 (UTC)[返信]

その「正」ではない、といふ議論は、どこにあるのでせうか? 歴史的仮名遣ひを、「正かなづかひ」と呼称するのは、「現代かなづかい」が論争で敗れてゐる以上は、否定されない筈ですけど。福田恆存と金田一京助の論争はご存知なのでせうか?金田一が最晩年に、負けを認めたことも。 原則として、現代かなづかいだとしても、歴史的仮名遣ひの正統性を論破できない訳ですから、「正かなづかひ」の呼称は事実に基づくものであり、否定することはできない。Tropicalia 2006年8月27日 (日) 19:52 (UTC)[返信]

定家のかなづかいは、それなりの根拠と秩序をもって組み立てられています。現代かなづかいも、それなりの根拠と秩序(それを混沌だと主張する人もたしかにいますが)があります。「それなりの根拠と秩序」がある点では、みんな同格ではないでしょうか。 --ねこぱんだ 2006年8月28日 (月) 01:56 (UTC)[返信]

定家かなづかひは歴史的かなづかひの原型ではありますが、契沖によつて訂正された部分が多々あり、「正かなづかひ」とはいへません。私の言ふ「正かなづかひ」とは、時代に応じて変化してゆくものであり、現時点に於いて「議論を尽くされた上で」最もふさはしいとされたものを想定してをります。歴史的かなづかひ派の福田恆存と、現代かなづかい派の金田一京助の議論は、金田一の完敗であり、その後、目立つた議論はありません。何十年も前の話ですが、現代かなづかいが採用された以後の話です。数年前に、福田の弟子でもあつた、保守派で有名な西尾幹二氏が、自身のサイト内で、現代かなづかい擁護を試みたが、見事に失敗しました。「それなりの根拠と秩序」といふなら、極端な話、犯罪もしかりでせう。表記法をかうまで曖昧に放置してゐることは、知的怠惰である。何度も言ふやうに、福田恆存と金田一京助の論争をご自分なりにお調べになつた上で発言した方が宜しいかと存じます。Tropicalia 2006年8月28日 (月) 17:48 (UTC)[返信]

>私の言ふ「正かなづかひ」とは、時代に応じて変化してゆくものであり、現時点に於いて「議論を尽くされた上で」最もふさはしいとされたものを想定してをります。

それなら、議論の前提がちがいますので、これ以上の意見は控えます。 --ねこぱんだ 2006年8月29日 (火) 05:19 (UTC)[返信]

  • 歴史的仮名遣の項目に「歴史的仮名遣は尊重されるべきもの」とは書いてありません(あったらPOVです)。よく確認してください。同項目では"内閣から告示された『現代仮名遣い』において「歴史的仮名遣は尊重されるべき」とある" とだけ言っています。
  • 「尊重されるべきものである」から「公の場で否定されてはならない」とは言えません。公の場で用いる文章であるから「こそ」、現代仮名遣いで表記せねばならないケースはたくさんあります。
  • 個人の信念による、正字正仮名づかひ」 は、明らかに 「感情の問題」 であると思います。
  • 「一個人の信念」と「不特定多数の閲覧の不便」がぶつかったときに、どちらが折れるべきかは明々白々です。-- D.328 2006年8月29日 (火) 05:58 (UTC)[返信]

"内閣から告示された『現代仮名遣い』において「歴史的仮名遣は尊重されるべき」とある"

ここから「歴史的仮名遣は尊重されるべきもの」といふ根拠が、導かれる筈ですが。「べき」の後に「もの」があるかないかの違ひがどれほど重要性なのか、詳細をお願ひします。

>*「尊重されるべきものである」から「公の場で否定されてはならない」とは言えません。

公の場で否定されてしまふものが、どうして尊重されてゐるといへますか? 例へば、近現代作家の全集で、多くが「歴史的仮名遣ひ」を採用してゐるのは、何故ですか? 私は「否定される」ことを否定してゐるのです。 現代かなづかいで「表記せねばならない」といふ根拠を具体的にあげていただけますか?

>*個人の信念による、正字正仮名づかひ」 は、明らかに 「感情の問題」 であると思います。

私個人は、表記法の歴史に無知な方のために、敢て現代かなづかいを使ふことがあります。 「現代かなづかい」において「歴史的仮名遣ひは尊重されるべき」と内閣から告示があるにも関はらず、歴史的仮名遣ひを公の場で排除すべきといふのは、「感情の問題」ではないのでせうか? 何度も繰り返しますが、福田恆存と金田一京助の論争をご存知ですか? それはどちらがより合理的表記法なのか、といふ論争であり、「感情の問題ではない」と仰るなら、当然、ご存知の筈です。現代かなづかいは、論争では完全敗北してをります。

>*「一個人の信念」と「不特定多数の閲覧の不便」がぶつかったときに、どちらが折れるべきかは明々白々です。

それでは、戦前の軍部と同じですね。 ちなみにコペルニクス、或はガリレオといふ方をご存知ですか? 私は、個人的には、歴史的仮名遣ひと現代仮名遣いの共存を受け入れます。 歴史的仮名遣ひの方が、「正かなづかひ」としてふさはしいにも関はらず。 何度も繰り返しますが、福田恆存と金田一京助の論争をご存知でない方が発言されることは時間の無駄だと思ひます。Tropicalia 2006年8月29日 (火) 20:49 (UTC)[返信]

控えようと思いましたが、決着がつかないで話が長引いているようですから。
Tropicaliaさんが歴史的仮名遣を大切に思う気持ちはわかりますが、ここはWikipediaでの記事の書き方の問題を語る場です。Wikipedia:スタイルマニュアルに従うというコミュニティの合意にしたがって記事を書いてくださればいいと思います。
ただ、仮名遣はあくまでも社会のルールであり、太陽が地球の周りをまわるのか、地球が太陽の周りをまわるのかという、自然科学の真理の問題ではありません。前に「犯罪」とお書きになりましたが、(姦通罪)をとってみれば、犯罪の概念も時代や社会によって変化することはおわかりだと思います。福田さんも、新潮文庫のシェイクスピアの翻訳は新字新かなで発行していることですし。 --ねこぱんだ 2006年8月30日 (水) 02:00 (UTC)[返信]


ウィキペディアでの記事の書き方の問題と、日本語表記法の問題は、別なのですか? 私は歴史的仮名遣ひを大切にするといふよりも、真実を大切にしたいのです。 コペルニクスの話は、(「一個人の信念」と「不特定多数の閲覧の不便」がぶつかったときに、どちらが折れるべきかは明々白々です。)、このレスに対するものです。これは真実への冒涜です。 真理追求は、自然科学の特権でせうか?社会のルールは、真理を基準とすべきではないのですか? ねこぱんださんは、「それなりの根拠と秩序」といふ、なんとも抽象的な理由で、現代かなづかいと歴史的かなづかひを同格にしてをられます。私は次のやうに書きました。 (>「正かなづかひ」とは、時代に応じて変化してゆくものであり、現時点に於いて「議論を尽くされた上で」最もふさはしいとされたものを想定してをります) かつて歴史的仮名遣ひと現代かなづかいで、本格的議論があつたのです。現代かなづかいは負けたにも関はらず、「なし崩し的」に蔓延つてゐるのです。何度もいふやうに、福田恆存と金田一京助の論争を勉強してから出直して下さい。さういふ知的怠惰(私に対する失礼でもある)が、議論をむなしくしてゐることにお気づきにならないのでせうか?福田氏のその件について、本人は不服の筈です。つまり編集者の良心の問題ですが、突き詰めれば教育の問題であります。Tropicalia 2006年8月30日 (水) 18:53 (UTC)[返信]

ウィキペディアでの記事の書き方の問題と日本語表記法の問題とは、特に異なるものではないと思います。ただ、コミュニティーの同意というものは、それとは全く別に存在します。「真理」をさかんに主張しておられますが、そんなものは関係ありません。「本格的議論」も関係ありません。荒らしをしていたIP氏にも(おそらく)書いたことですが、全体による合意であるとか そういうものが理解できない方は、Wikipediaには相応しくないと感じます。ご自分でWebサイト等を持たれることをお薦めしておきます。
それから、コペルニクスの話ですが、この場でのたとえとしてはまったく不適切です(どうやって曲解したらそんな見当違いな答えが出るのか、非常に不思議です)。「公共の福祉」という言葉を勉強してから出直して下さい。「自分の信念である」といって禁煙場所でタバコを吸いますか? 「自由への押さえつけは、戦前の軍部と同じである」と主張して、人混みの中で "自由に" 刃物を振り回しますか? -- D.328 2006年8月31日 (木) 05:01 (UTC)[返信]

人ごみの中で刃物を振り回すことと、歴史的仮名遣ひの正統性を訴へることを混同されるやうな方に果たして、「公共の福祉」を語る資格があるのでせうかね?私には全く才能はありませんが、コペルニクスの気持ちが痛いほどわかりますね。何度もいふやうに、福田恆存と金田一京助の論争を勉強してから出直して下さい。福田恆存の主張を退けるほどの正論があつて、初めて「公共の福祉」といふべき百科事典たりうると思ひます。曲がりなりにも、百科事典の編集に携はらんとする人間が、母国語の表記法の歴史に無知だといふのは如何なものでせうかね?これも何度も言つてをりますが、あくまで私は現代かなづかいと歴史的仮名遣ひの共存は、「現状は」やむをえないといふ立場です。私に反対を唱へる方々は、歴史的仮名遣ひを排除したいといふ「感情」で反論されてゐるやうにみえます。歴史的仮名遣ひの排除は、古典軽視へと繋がる危険性を孕んでゐる。古典軽視は、文化を浅薄にする。これは「公共の福祉」には反します。Tropicalia 2006年8月31日 (木) 18:19 (UTC)[返信]

Tropicalia樣の「信念」は仲々「個人的」には賛同したきものでありますが、でしたらば漢字表記も『假名』、『氣持』、『國語』、『反對』、『淺』、『輕』を用ひて戴かねば説得力に欠けるやう存じますが如何なものでありませうか。(因みに私は記事の場面に於いて遣い分けすることが理想であると思ひ到るものであります)--Sandra-horn 2006年9月3日 (日) 00:57 (UTC)[返信]

その通りです。あくまで手段として、正字よりも正かなづかひを優先してゐます。本來は、同じ問題です。ただ實用的問題として、私はマック使ひで「契沖」が使へないので、不便なこと甚しいといふ事情はあります。(「説得力に欠ける」のでせうが、日常的に使ひ分けをしてゐますし。)それと信念は別のことです。「記事の場面に於いて遣ひ分けする」ことについてですが、古典は言ふに及ばず、明治以降に書かれたもので、現代かなづかいで書かれなかつたものは全て、原文通りに戻すべきではないでせうか?また、福田恆存の項などは、ウィキペディアに心といふものがあるなら(笑)、正字正かなに統一すべきであると思ひます。Tropicalia 2006年9月3日 (日) 23:49 (UTC)[返信]

Wikipedia:スタイルマニュアルを音読した上で、それでも福田恆存の項目を全面的に書き直すべきかどうかをご判断下さい。現時点ではただの合意形成の無視または記事破壊行為であると指摘いたします。 --yfuruhata 2006年9月10日 (日) 05:19 (UTC)[返信]

私は基本的にそのマニュアルには從つてをります。ここでは議論の性質上、正字正かなを使用します。また、正かなづかひの私と現代かなづかいの皆樣との議論上は、なんら不都合がないやうに思はれます。百科事典の制作に關はらうとされる方々ですから、讀めない筈はないのです。私は、現時點での「合意形成なるもの」の脆弱性を指摘してゐるにすぎません。繰り返しますが、曲がりなりにも百科事典の編集に擕はらんとする方々が、母國語の表記問題にかくも小兒病的な反應しかみせることができない。これは大問題です。現狀をより良くするために「議論する」のです。ウィキペディアに限らず、この問題は社會全體の問題の筈です。かういふ現代日本の異常性を一人でも多くの方に認識していただきたい。私はその程度のことを考へてをります。ちなみに福田恆存の項目を書き直すかどうかは、現時點では「心」の問題でありませう。記事破壞行爲と仰るが、現代かなづかいが、國語破壞の側面すらあることをご存知ですか?それにしても、私を論破できない內に、「牽强付會な」幕引きを引かうとされるのは何故ですか?議論を盡くす心構へすらないのでせうか。Tropicalia 2006年9月10日 (日) 15:07 (UTC)[返信]

「百科事典の制作に關はらうとされる方々ですから、讀めない筈はないのです。」とおっしゃっていますが、そんなことはありません。Wikipediaは「基本方針に賛同して頂けるなら、どなたでも記事を投稿したり編集したりすることが出来ます。」としています[1]。百科事典を書こう者、執筆に使用する「言葉」について詳しくあってほしい(あるいはあるべきだ)というお気持ちはわかりますが、むしろWikipediaは(端的には)「無知な一般人を中心としたメンバーによる自由参加で百科事典を作ってみよう」という主旨のプロジェクトのはずなので、編集者に日本語の運用力についてのハードル(正字正かなで書けるかなど)を課すとそれは別のプロジェクトになってしまうとおもいますが、いかがでしょう。 ― TETRA 2006年9月25日 (月) 20:00 (UTC)[返信]

>「無知な一般人を中心としたメンバーによる自由参加で百科事典を作ってみよう」

なるほど、かういふ主旨ですか。一般人はともかく、「無知な」とは酷いですね。(笑)他のウィキペディアを利用する人はこれを同意されますか?それならば私としてはもう何も言ふことはありません。Tropicalia 2006年9月26日 (火) 17:47 (UTC)[返信]

「百科事典の編集にかかわるもの正字正かなを読めてしかるべき」という趣旨に反する形で「無知な」といわせていただきましたが多少刺激が強すぎたようですね。趣旨をとることを不明確にしてしまったようで申し訳ないです。もちろんWikipediaに投稿して下さる方の中には執筆される記事の分野の専門家の方もたくさんいらっしゃり、そうでない参加者と合わせてWikipediaをすばらしいものにしていってくれています。
前回の書き込みの趣旨を説明させていただく形で Tropicalia さんの今上げた例にこたえる形で書きますと、 Wikipedia の参加制限に「義務教育を受けたか」「学校で古典を習ったか」という項目はないんです。言いたかったのはそういうことで、それ以外に余計な誤解を与えてしまったならお詫びします。 ― TETRA 2006年9月26日 (火) 20:10 (UTC)[返信]
(補足)上記返信は2006年9月27日 (水) 02:47版のTropicaliaさんの発言にこたえたものです。編集競合の警告に対し、自分の加筆分のコピー&ペーストで対応してしまったので一部返信がかみあわない部分があります。上記履歴ご参照ください。 ― TETRA 2006年9月26日 (火) 20:19 (UTC)[返信]

上の事情(私の不手際ですが)があるので、再度投稿します。TETRA様の「勘違ひ」は、読んだ人には一目瞭然なので、一言だけ。 「Wikipedia の参加制限に『義務教育を受けたか」「学校で古典を習ったか」という項目はない』のは、それが大前提だからでは?日本人で義務教育を受けられない者は、ほとんどゐない筈ですから。TETRA様はよほど、「無知」なんですね。(笑)ウィキペディアの実体を思ひ知ることができましたし、かういふレベルの投稿には以後答へませんから、あとは好きにやつて下さい。Tropicalia 2006年9月26日 (火) 21:32 (UTC)[返信]

ですから編集・執筆者の要件に国籍条項も年齢制限もないのですが……。また、建設的な話をすると、今の「日本語現代仮名使い版ウィキペディア」とは別に「日本語正字正かな版Wikipedia」を作ることについて、別に議論してもよいと思います。参考まで。 他の方へ:できれば上記の発言を理由にTropicaliaさんのブロック依頼をなさらないようお願いします。 ― TETRA 2006年9月27日 (水) 00:08 (UTC)[返信]

日本語を読み書きできない者や赤ん坊が「日本語版」ウィキペディアを執筆することはありえませんよね。これはあくまで「日本語」の話です。TETRA樣の御提言ですが、それよりは「正字正假名遣ひ」で書くべき領域について、論議すべきだと思ひます。下にあるやうに、ここの議論に於ける、私個人の妥協点は、母国語表記問題の存在を共有できればよい、といふものです。決して`無知な一般人`に「正字正假名遣ひ」を強要することは断じてありません。ちなみに私自身は一般人のつもりでしたが、どうも`無知な一般人`といふ方々もいらつしやるやうで、これは一つ発見でありました。Tropicalia 2006年9月27日 (水) 19:26 (UTC)[返信]

編集の技術的問題ではなく、『母国語表記問題の存在を共有できればよい』ということ自体が問題です。それはあなたの主張の宣伝行為です。 何度でも何度でも言いますが、ここはあなたのためにある宣伝場所ではありません。今の時点では投稿ブロックを依頼する気はありませんが、あなたがここ以外の場所で宣伝行為を始めたら、それは明らかなブロック対象であろうと確信しています。 --yfuruhata 2006年9月28日 (木) 02:05 (UTC)[返信]

編集の技術的問題としては、現時点では、現代かなづかいで書くべきでせうし、私もそれに従つてをります。この場は議論の性質上、正仮名遣ひを使つてをります。ウィキペディアといふ百科事典は、自身より大きな問題には我関せずですか?「正字正假名遣ひ」で書くべき領域について、論議すべきだと思ひますが、それを否定する根拠は何ですか?Tropicalia 2006年9月30日 (土) 15:32 (UTC)[返信]

合意形成について[編集]

 最後の議論投稿から一週間ほど経過していますので、本項を立てた者としてひとつ。
 元々この議論を投げかけたきっかけは、一部の利用者がウィキペディアの正式な方針や考慮すべきガイドラインを無視し、上記のような論争のもと歴史的仮名遣いの使用や記事の破壊を強行する懸念を持っていたことによります。
 が、歴史的仮名遣いに関する議論が一旦はじまると、結局のところ上記のような経過をたどってしまいます。「福田恆存と金田一春彦の論争」を持ち出されるのは歴史的仮名遣いの使用を強行なさる向きには常套のようですが、結果的に自己が支持する議論の優越性を補強するためだけに持ち出されるに過ぎません。一部の利用者に至っては公共の福祉まで持ち出されました。これじゃ一歩間違えればただの牽強付会です。
 最後に。「現代かなづかいは、論争では完全敗北してをります。」とは申しますが、ウィキペディアの記事を歴史的仮名遣いに書き直すような行為は、記事破壊行為に等しい行為であることは広く合意されています。ここには議論の余地はないでしょう。
 合意の形成は、ウィキペディアにとっては非常に重要な方針です。それを無視して議論を進めないことを強く勧奨します。 --yfuruhata 2006年9月10日 (日) 05:09 (UTC)[返信]

きつかけがなんであらうと、議論の成行上、より大きな問題に直面してゐるのです。どうやら議論する前から、結果ありきとお考へだつたやうで、假にも百科事典の編集に擕はる方としては、實に甘いと言はざるを得ない。母國語表記の論爭の歷史を土臺とせずに、かくも大問題を議論されようといふのですから、「牽强付會」そのものではありませんか?繰り返しますが、現代かなづかひには國語破壞の側面があります。上記しました通り、私はこの大問題の存在を一人でも多くの方に認識していただきたい。私にも當然落ち度はありませうが、Yfuruhata樣にも、この國語上の大問題を`無視して議論を進めないことを强く勸奬`させていただきます。「戰爭に負けるとはかういふことなのか」と、福田恆存は嘆きました。「福田恆存と金田一京助の論爭」をお調べになれば、この言葉の意味するところがよくおわかりになると思ひますよ。Tropicalia 2006年9月10日 (日) 15:24 (UTC)[返信]

旧字体は文字化けします。現在のコンピュータの仕様で作業する限り、文字は現行の自体を使ってください。現に、上の文章は読めないところが出ています。

「破壊」とまでいいきることはないでしょう。なら、〈ア行の「エ」とヤ行の「江(仮に翻字しましたのでご了解を)」とを区別しない歴史的仮名遣はどうなのですか?〉というような水掛け論になりますよ。 --ねこぱんだ 2006年9月10日 (日) 15:47 (UTC) [返信]

いや、そこまで原理原則にこだわるつもりはないです。たとえばヱビスビールなどは「ヱ」の字を使っていますが、これを「エ」とすべきだという議論に賛同なさる人は少ないでしょう。わたしだって嫌です。無論、これには「ヱ」の字を使う相当の理由(この記事名の場合は、商標がこうなっている)があるからですが。
言い切りすぎだったことが誤解を招いたようで、その点をまずお詫びします。もう少し正確に書くと、まず大前提として、『(通常の記事空間において)歴史的仮名遣いを無条件で使用することの合意は存在しない』という点です。現在の合意やガイドラインを参照する限りにおいては、歴史的仮名遣いを合意や合理的な理由なしで使用・編集することはウィキペディアの記事破壊に等しい行為だ、という意味合いで申し上げました。(個人的には、Wikipedia名前空間内での使用強行も、ある種の対話拒否に等しいものを感じているのですが…)
まず、編集の原則はWikipedia:スタイルマニュアル#日本語にある通りです。その上でもし歴史的仮名遣いが使用される場合、そこには「合理的な理由」があるべきでしょう。 --yfuruhata 2006年9月11日 (月) 01:03 (UTC)[返信]

屁理屈は止めてくれませんか?今は、二つのかなづかひでの議論ですよ。破壞でないと仰る?現代かなづかい、は何故、現代かなずかいと書かないのですか?正字正かなに不都合がある現狀の異常性について私は訴へてをります。ワープロで漢字は打てないから、漢字を廢止しようとまで言つた馬鹿がをりました。水掛け論は、終始あなた方、現代かなづかい支持者(といふよりも現代かなづかいしか知らない)から繰り出して來られるやうですが。 そろそろ母國語表記問題の歷史を學んだらどうなんですか?例へば、三島由紀夫、川端康成、小林秀雄、谷崎潤一郞、たかだか祖父の世代の代表的文學者の多くが、正字正かなを支持してゐます。知的怠惰を正當化するなどと、全く言語道斷。百科事典の編集に擕はる人間としては失格です。恥を知れと言ひたい。Tropicalia

この議論は無駄です。「無駄」。Tropicaliaさんが、いくら「正字正假名づかひ」の正しさを説いても、全くの無駄です。yfuruhataさんのこの節における二番目の意見のように(一番目のは、私の主張に対して誤解に満ちていることを指摘しておきます。yfuruhataさんが、「一部の利用者がウィキペディアの正式な方針や考慮すべきガイドラインを無視し、上記のような論争のもと歴史的仮名遣いの使用や記事の破壊を強行する懸念を持っていた」なんて……、心底あきれました)、記事名前空間では現代仮名づかいでかく、それ以外の名前空間ではどんな表記をしても、どんな言語でも問題はない、ただこの日本語版では現代仮名づかいに慣れしたしんでいて、その仮名づかい以外の文字表記法でかかれると、理解できない、またはしづらいかたがい、よって議論の進行がとどこおりやすい、ということで表記法によっては不利になる、または軽んじられるようになりやすい、ということが確認されました。
Tropicaliaさんが記事名前空間以外で「歴史的假名づかひ」で書こうが、またはそれ以外の何かで書こうが、なんら糾弾されることはない、妨げるものはないのです。ならば、あとは何も議論されることはないはずですが。「正字正假名づかひ」の正当性を説くのは、各々のサイトですべきことですので、Wikipedia:井戸端で説いたって、なんの意味もありません。--壽日 2006年9月11日 (月) 05:07 (UTC)[返信]
この問題については、『合意形成がひどく軽んじられる傾向にある』『Wikipedia内で延々と演説・アジテーションをされかねない』という事情が再確認できたことで、まるっきりの無駄ではなかったと思います。今後類似の議論が発生した場合、議論に際し他の参加者へ注意喚起を行う材料になるでしょう。「恥を知れ」とか「馬鹿」とか「知的怠惰」とか、そういうタームがばしばし飛び交う低俗な話題である、という点においても。
なお、上記の「意見」は壽日さんを念頭に置いたものではないことを明言します。その懸念がないことは、壽日さんの編集履歴を参照し、傾向を把握すれば明らかなことです。むしろそう思われていたことについて少々驚きました。 --yfuruhata 2006年9月11日 (月) 08:27 (UTC)[返信]

母國語表記の本質的議論が「無駄だ」とは、驚かざるを得ない。ウィキペディアは、そのレベルだといふことでいいんですかね?「正字正かな」の正統性の議論が一向に進まないのは、あきらかに「私はいまさら馴れない表記法の勉强をするのは厭だ」といふ極めて俗物的知的怠惰に他ならない。福田恆存と金田一京助の論爭も一向に勉强しない、それは歷史への冒瀆である。何故、「現代かなづかい」は、「現代かなずかい」と表記しないのですか?誰もまともに答へられないのですか?これは母国語表記問題の基本中の基本です。かういふ基本的なことさへもまともに對應できないのなら、「馬鹿」だといはれてもしかたないでせう。Tropicalia 2006年9月11日 (月) 16:21 (UTC)[返信]

私が歴史的仮名遣を〈正〉ではないと言ったことが、ごたつきの一因でもあるようですが、こういうことなのです。これで了解していただけないのなら、もう議論にはならないのですが。

まず、かなづかいというものは、同じ発音であらわされることばを、どういうかなで書くのかという問題ですね。それは大丈夫ですか。

それで、8世紀の記紀万葉の時代には、甲類乙類も、書き分けるものだとされていたわけですね。(実際の音価については議論があるようですが)これもごぞんじですね。

そのあと、〈あめつちの歌〉の時代がきます。これは、甲類乙類の区別はなくなっています。そのあと、〈いろは歌〉の時代がきます。この段階で、ア行の〈e〉とヤ行の〈ye〉の区別が落ちました。これもご存知ですね。源氏や枕はこのころですね。

ここまでは、いちおうこうした手習い歌が、書き分けるかなと音との関係を反映していたわけですが、12世紀のおわりごろの藤原定家の時代には、ワ行が変化してしまっていたわけです。そこで、定家は、規範をつくる必要を感じて、後世〈定家かなづかい〉といわれるものを編み出したわけですね。そのときに、〈お〉と〈を〉との書き分けを、アクセントを基礎にして決めたわけです。これもご存知のことと思います。

そうすると、歴史的仮名遣以前に、可能な規範として、

  1. 万葉レベル
  2. あめつちレベル
  3. 定家かなづかい

を考えることが可能です。このうち、定家かなづかいは、いろは歌レベルですので、歴史的仮名遣との比較をして、切り捨てることはありえるでしょうが、万葉とあめつちとでは、比較のレベルがちがいます。五十音図を重んじるならば、あめつちレベルは、当然考察対象になるでしょう。そのとき、現在の歴史的仮名遣も、あめつちレベルにあわせて改定すべきだという議論が出てきてもおかしくありません。いかがでしょうか。

これが、現行歴史的仮名遣を〈正かな〉と呼ぶことに承服できない理由です。

なお、現代仮名づかいは、複合語は〈ぢ〉〈づ〉を使うというルールですから、〈かなずかい〉ではないわけです。ルールの問題です。(これも、稲妻が〈いなずま〉なのはおかしいという意見があるのは承知のうえですが)

また、wikipediaで標準記事に現代かなづかいを使うというスタイルマニュアルでの合意は、現代かなづかいがいまの日本語表記法として広く用いられているからです。百科事典は、基礎的な知識を与えて、より専門的な分野にいざなうものです。専門のレベルでは、作家が使ったかなづかいが重んじられることは当然です。プロレタリア文学小林多喜二宮本百合子の全集は、普及を目的に新かなで出版されましたが、〈多喜二・百合子研究会〉がその会報で、全集未収録文献を翻刻紹介する際には、旧かなをつかっています。研究の分野はそういうものです。

最後に、余計なことでしょうけれど、プレビューをおせば、旧字体の一部が翻字されないのはおわかりでしょうに、あえて使うというのはいかがなものかと思います。対話にも議論にもならないではないですか。 --ねこぱんだ 2006年9月12日 (火) 01:42 (UTC)[返信]

順序としては、「現代かなづかい」か「歴史的假名遣ひ」の議論が先ですね。どちらが「正かなづかひ」としてふさはしいか、と言へば「歴史的假名遣ひ」だと何度も申し上げてをります。「現代かなづかい」は論爭では敗北してをりますから、現時點でより普及してゐること以外は、「正かなづかひ」にふさはしい理由が、私には見當たりません。表音に關する基本的な議論もある程度盡くされてをりますので、そちらを參照していただいて、「表記法は語に從ふべきだ」といふ主張に關しては如何ですか?ヤ行の「え」は、ア行の「え」で代用してをり、ヤ行の「え」を復活させるかといふ議論もありうるでせうが、それはあくまで「歴史的假名遣ひ」レベルの話で、「現代かなづかい」とは全く次元が違ひます。表記法のレベルから專門向けと一般向けと峻別すべきとお考へといふことで宜しいですか?しかしまあ、生きてゐれば81歳の三島由紀夫の美文が、たかだか二、三世代を經ただけで、一般人には原文で讀めなくなつたりするんですかね?「現代かなづかい」は突然變異的、邪道であり、母國語表記問題と眞摯に向き合ふ限り、將來のためにすみやかに廢止すべきものだと個人的には考へてをります。「正字」のどれが翻字されてゐないのですか?私の方で確認できませんので、ご指摘いただければと存じます。金田一春彦と金田一京助を勘違ひしてゐたので、そこだけは後日訂正しました。どうしてはじめからこのレベルの議論にならなかつたか、非常に時間の無駄でしたね。ちなみに、この程度の議論はすでに盡くされてをります。「私の國語敎室」(福田恆存著)をお讀みになつて、福田が間違つてゐると思ふ點などございますか?Tropicalia 2006年9月12日 (火) 16:51 (UTC)[返信]

自宅のマックでは表示に問題はありませんでしたが、ウィンドウズで見ると文字化けしてゐますね。では便宜上、以前の投稿もできる限り対応し、以後は略字にします。しかし、このことが正字の正統性を覆すものではありえず、つまり言葉の問題ではなく、あくまでも技術の問題に過ぎません。Tropicalia 2006年9月12日 (火) 23:34 (UTC)[返信]

おそらく「略字現代かなづかい」が「正漢字歴史的假名遣ひ」に論争で勝つことはありえないので、その事実を踏まへた上で、この項の本題に移ります。合意形成とはすなはち「妥協」だが、「妥協」は議論を尽くした上で導かれた「道筋の合意」でもある方が望ましい、と前提して以上のやうに発言してきました。「道筋の合意」には「母国語表記正常化」が含まれます。異論はありますか?Tropicalia 2006年9月14日 (木) 13:17 (UTC)[返信]

ウィキペディア全体で、〈「道筋の合意」には「母国語表記正常化」が含まれます〉という合意は無理ではないでしょうか。それはひとつの主張となってしまうので、執筆しようとする人すべてにそれを要求するのはまずいのではないでしょうか。そうすると、 Tropicaliaさんは、また議論を戻すのかとおっしゃるのかもしれませんが。 --ねこぱんだ 2006年9月16日 (土) 22:35 (UTC)[返信]

「道筋の合意」には「母国語表記正常化」が含まれない、といふ、これも主張です。何が正しいのかを追求し、より正しいところで合意するのが、合意形成だと私は考へてをります。新村出は、現代かなづかいと歴史的仮名遣ひで同文になるやうに、広辞苑の序文を書きました。彼は略字現代かなづかいで、広辞苑が印刷されることに反対でした。私の経験から「略字歴史的仮名遣ひ」はそれほど難しくありません。では正字が難しいかといふと、敗戦直後までは使用してゐたわけで、これも私の経験から「慣れ」の問題であると思ひます。この辺も福田の「私の國語教室」をご一読下さい。まづはこの母国語表記問題の存在を共有できれば、そこで私個人は「妥協」したい。ウィキペディア上で、「現代かなづかい」と「歴史的仮名遣ひ」の共存を認められば、尚良い。私は今現在、ウィキペディアでは、現代かなづかいで執筆してをり、もし歴史的仮名遣ひを使はうものなら、ここの最冒頭にあるやうに「排斥」されてしまふことに多いに不満があります。Tropicalia 2006年9月17日 (日) 18:57 (UTC)[返信]

Tropicaliaさんは一度 Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありません をお読みください。次に、『あなたが支持する人物や団体、思想や信条を宣伝するためにウィキペディアを利用してはなりませんし、逆に対立する相手や不愉快なものを非難・攻撃したり、あるいは読者を扇動するためにウィキペディアを利用してもなりません。』の部分について、あなたが支持を表明する表記法が、イデオロギに基づくものではないことを説明してください。これまでの議論をどう読んでも、あなたが何らかの思想信条のもとで仮名遣いの表記法について主張をしているとしか思えません。Wikipedia は、歴史的仮名遣いを普及させるために使ってよい場所ではありません。 --yfuruhata 2006年9月20日 (水) 12:00 (UTC)[返信]

「現代かなづかい」派が「歴史的假名使ひ」派を弾圧してゐるのが、この国の現状です。私にイデオロギーといふものがあるとすれば、それに対する抗議以外の何物でもありません。Yfuruhata様は、「対立する相手や不愉快なものを非難・攻撃したり」してをりませんか?私の理論的支柱は、福田恒存の「私の國語教室」ですが、それは「現代かなづかい」が表記法として如何に出鱈目かを指摘してゐるに過ぎません。また、今に至るまで、「現代かなづかい」が「歴史的假名使ひ」に論争で勝つたことがありません。「歴史的假名使ひ」は長い期間をかけて営々と築かれてきた。対して「現代かなづかい」は、敗戦後混乱期のどさくさにまぎれた、こともあらうにGHQの伝統破壊政策の一環ですらある。かういふ歴史を踏まへれば、どちらがイデオロギッシュなのかは明白ではありませんか?この母国語表記問題の存在を共有することさへ、理不尽にも否定されるおつもりなのでせうか?Tropicalia 2006年9月20日 (水) 18:22 (UTC)[返信]

はい。「Wikipediaにおいて、この母国語表記問題の存在を共有すること」は否定されるべきだと確信します。間違えてはならないのは、まずひとつめに、母国語表記の問題自体が存在しないというわけではない、ということ。その上でふたつめに、その論争に Wikipedia が巻き込まれる必要はどこにもないということです。何度も何度も言いますが、 jawp では、記事本文に歴史的仮名遣いを使用することについての合意形成は存在しません。Tropicalia氏がやらなければならないことは、その合意形成を覆す以外に方法はありません。他のユーザを説得し、jawp にて歴史的仮名遣いを使用することについて合意を形成しなければなりません。『歴史的仮名遣いは正しいものだから従え』と言うだけでは、誰も賛同しません。
あなたはおそらく Wikipedia を通じて「間違った日本語を正し」「間違った日本語を使う jawp の編集者を糾弾し」「歴史的仮名遣いを使用させる」ことを目的としているのでしょう。それ以外には見えません。はっきり言いますが、そういうことを Wikipedia を通じてやらないでください。もう一度言います。 Wikipedia は「歴史的仮名遣い」を宣伝する場でも布教する場でもありません。--yfuruhata 2006年9月27日 (水) 17:20 (UTC)[返信]

さて、日本語表記問題は、日本語の根本問題です。『日本語版」ウィキペディアではその問題が消えるのでせうか?「日本国語表記の問題」は確かに存在します。とどのつまりは、あなた自身が、その問題から目を逸らせたい、といふことでは?Tropicalia 2006年9月27日 (水) 19:45 (UTC)[返信]

jawpでやるな、他でやれ、と言っているだけです。 --yfuruhata 2006年9月28日 (木) 01:59 (UTC)[返信]

では最後にお尋ねしたい。ご返答いただければ幸ひです。Yfuruhata様は、日本語表記問題の存在は認識されてをりますね?Tropicalia 2006年9月30日 (土) 15:18 (UTC)[返信]

jawpではやるべき議論ではない、との考えは既に示しました。わたしが言えるのは「そんな質問にここでは回答しない。他でやれ」だけです。私の利用者ページには連絡手段が記載されていますのでそちらへどうぞ。 --yfuruhata 2006年10月1日 (日) 04:46 (UTC)[返信]

この議論の合意としては、「日本語表記問題の存在をなるべく見ないやうにする」ことに決定しませう。私はここで妥協します。Tropicalia 2006年10月1日 (日) 12:16 (UTC)[返信]

なぜそういう結論を導き出すのでしょうか? はっきりと書かなければならないようなので書きますが、わたしはそのような「合意」には同意しません。 --yfuruhata 2006年10月1日 (日) 23:51 (UTC)[返信]

大変失礼いたしました。うつかり皮肉を言つてしまひました。Yfuruhata様の発言にある通り「母国語表記の問題自体が存在しないというわけではない」、このことが確認できました。「母国語表記の問題自体は存在する」ことを前提して、現時点では、記事は原則として現代かなづかいで書くことで、お互ひ妥協できるのではありませんか?Tropicalia 2006年10月2日 (月) 11:55 (UTC)[返信]