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Wikipedia:井戸端/subj/記事本文は必ず常体で記述するのか

Wikipediaの記事本文の文体について確認させてください。

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こんにちは、上記エキサイト翻訳でもふれられています常体、敬体に関してお伺いいたします。

  1. Wikipediaの記事本文は必ず常体(だ・である)で記述されないといけないのでしょうか。また、それは従わなければならない、推奨いずれでしょうか。現在、これについての規定の大本(ガイドなど)はどちらになりますでしょうか。
  2. 上記についてWikipedia‐ノート:日本語表記法以外に、過去の議論がありましたらその場所を教えていただけますでしょうか。

質問意図:実際の記事が常体(だ・である)での表記となっていたことと、Wikipedia:スタイルマニュアルから、私自身のWikipedia編集参加当初より、常体で記述しております。しかし、{{aimai}}や、{{anotheruse}}など、記事本文に表示されるメッセージは敬体(です・ます)です。わたしは、人に指図する言葉として敬体が使用されていることに管理者の方の選択の適切さを感じております。

一方、記事本文中にて使用される常体ことばづかいが、たぶん、不慣れなために、非常に高圧的な昔の官公庁スタイルの文章を使用しているものも散見されます。現在、大学の論文などでも推奨されている常体ですが、ある仲間内では当然の使用であっても、広く一般にその内容を啓蒙しようとするのであれば、常体よりも敬体のほうがふさわしいと個人的には思っております。官公庁でさえも、広く一般に告知される文章は敬体を使用するようにかわってきています。私自身もできるのであれば敬体で記事本文を記述したいと思っているものです。

Wikipedia:スタイルマニュアル#日本語に記述されているWikipedia:日本語表記法Wikipedia:日本語表記法#文体についてでは、『百科事典本体の記事については、全て「だ・である」体にて表記。』と、記載されておりますが、Wikipedia:スタイルマニュアルの冒頭に『{{guideline|[[WP:MOS]]}}』となっているので、これがWikipedia:日本語表記法にも適用されているのかなあと推測しています。そう解釈すると、常体文体使用は推奨であり強制ではないようにもとれます。以上、ご教示の程よろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2006年11月10日 (金) 05:48 (UTC)[返信]

岩波新書の『日本語の歴史』(山口仲美)という本のなかに、明治の言文一致が、「である」体の登場によって定着した理由として、「である」体は、客観的な記述を可能にする文体であって、それ以前の「です・ます」などの形では、どうしても客観性を求められるときにうまくいかないことがある、という趣旨のことが書かれていました。(図書館に返却してしまったので詳細な引用はできませんが)常体がマニュアルになっているのは、そうした文体上の特質もあるためだと思います。「です・ます」の記述は記事本文ではやはり避けたほうがいいのではないでょうか。 --ねこぱんだ 2006年11月10日 (金) 15:19 (UTC)[返信]

本文に敬体が使われた項目と常体が使われた項目がそれぞれあると、百科事典としての文章の統一性がなくなります。また、テンプレート中には敬体が使われているものの、これは記事本文ではありません。常体が使われていて高圧的な本文は、そうでないように書き換えれば良いだけだと思います。考慮すべきガイドラインは公式な方針ではないものの、多くの利用者が同意しており、使うことが推奨されているものです。強制ではないものの、普通は従うべきでしょう。--草薙 2006年11月10日 (金) 15:55 (UTC)[返信]
ねこぱんださん、草薙さん、コメントいただきありがとうございます。
お二人からのコメントではウィキペディアでは推奨しているということですね。また、過去の議論についてはコメントいただけていないのでいまだ不明です。
現在のところ、以下のように理解させていただいてよろしいでしょうか。どなたか、そうではないという意見がありましたら、(後者については特に、)いただきたいのですが、よろしくおねがいいたします。
--Pararinpooh 2006年11月11日 (土) 21:11 (UTC)[返信]

(インデントを戻します)「百科事典は常体で記述する」のが当然の前提であるという認識が共有されているから、今まで議論にもならず、約28万項目もの記事が常体でつくられたのでしょう。私としても今更議論になるのが不思議です。

また{{guideline}}ですが、これはWikipedia名前空間にある文書のうち、{{policy}}の次に効力がある文書であることを示しています。例外を適用すべきだと利用者間で合意がとれない限り、{{guideline}}には従うべきです。--Michey 2006年11月12日 (日) 08:36 (UTC)[返信]

何故こんなことが問題になるのか、私も不思議でなりません。百科事典記事というのは小なりと言えども論文です(百科事典の常識として)。Wikipediaは百科事典です。だとすればどんな文体で書けばいいか、ほとんど自明ではないでしょうか? 議論がなければ効力がどうのこうの(とまで仰ろうというつもりではないとは思いますが)、だなんていまさら言うようなことじゃないと思うのですが。

奇妙な文書ですが、英語版の基本方針文書のひとつにen:Wikipedia:Ignore all rulesという文書があります(日本語版は草案段階)。これは文字通りに「無視していい」と言っているのではなく、(1)ルールが定められていないなら、一般的な社会常識に従いましょう (2)ルールがWikipediaのプロジェクト進行にとって寄与するものでないなら(もちろん手続きを踏んで)変えることが出来ます、という趣旨の文書です。仮にガイドラインの拘束力が強制ではないという理解が正しいとしましょう(私はそうは思いませんが)。だとしたら、(1)に従うか(2)の方向で行動するか、ですよね。規定を変えることをご希望ではないようにお見受けしますから、そうすると、日本語で文章を書くことの常識からして、どっちが百科事典記事(客観的な事柄を述べる文章)の文体として適切でしょうか。

「非常に高圧的な昔の官公庁スタイルの文章」があって不適切だと思えば、編集対応でよいことです。素朴な話、「敬体で書いてある論文」なんて変だと思いませんか?--ikedat76 2006年11月12日 (日) 15:46 (UTC)微調整--ikedat76 2006年11月12日 (日) 19:03 (UTC)[返信]

Micheyさん、ikedat76さん、コメントありがとうございます。特にikedat76さんのen:Wikipedia:Ignore all rulesの紹介は非常に参考になりました。以下、長文となりますが、皆さんのコメントから感じたことです。井戸端ということで許していただければと思います。
Wikipediaは常に多くの人が参加してきます。常に新人を前提としたルールの解説も必要となると思うのです。「だ・である」体、「です・ます」体は、一般的にはどちらも同じ内容が記述できるとされており、その適不適に関しての普遍的な法則はありません。一般には、「一つのまとまった文章の中では、併用しないこと。」というくらいです。ケース・バイ・ケースなのです。このルールも、「適切に使用されれば併用も効果的であることもある」ともいわれます。
そこで、日本語版Wikipediaでは、どのような観点で、「だ・である」体がスタイルガイドに掲示されたのかを、確認したかったため、質問をしました。私が質問意図として、「それで書いてみたい」と記述したことに皆さんが引っ張られてしまっているようで申し訳なかったなと思っていますが、これは立場を明確にしたほうがいいかなとおもったためであり、わたしの質問2点は、「現状の確認」です。「議論」にはなっていません。『議論を蒸し返しているような』ニュアンスで多くのコメントがつけられたのには、私がびっくりしています。これが「議論」ではなく、「私の異論」というのであれば多少理解できますけれども。みなさんからいただいたコメントでの私を説得しようとしているその『根拠』は皆さんの私見であり、私の私見と同様のものです。常に新人がいるWikipediaなので、私以外にも、ガイドに対して質問がでてくることはあるでしょう。拝見させていただいている井戸端でも、「こちらに過去の『議論』があるので」とアドバイスがあるので、今回、自力で見つけられなかったために質問をしています。
言葉尻をつかんで申し訳ないのですがすでに経験と歴史を重ねている人から「いまさら言うようなことじゃない」ということは新人にとっては寝耳に水のようなものです。常に新人に開かれている場での質問に対する答えかなと思うのです。経験ある方は、「過去はこんな風になっていたからそのときを体験してください」という意味で、過去の議論につれていってくれるのが最良です。もし過去に何度も質問があって、”もういい加減にしてくれ”なら、「ここに過去のやり取りがあります」ですむはずです。しかしながら、今回いただいたコメントからは、過去にも議論がないことが伺えます。とすると「いまさら」ではなく「いまから」なのかとも思うものです。私は、普通の質問だと思っていますし、まして責められるようなものとは思えません。この質問は常にありえる質問です。Wikipediaは多くの人が執筆にきます。ある人の『常識』がすべての人の常識ではありません。中学生だって、小学生だって編集に来ることがあるでしょう。新人を的確にガイドできることが重要であり、もし、私がした質問をおかしいと思うのであれば、なぜそう思われるのかをもう一度考えて見てください。なにか暗黙の前提に立ってその視点から意見されているのではないでしょうか。よく『新人にきつい』と表現される場合がありますが、これらの態度はその原点だと思います。(私が新人とはいいませんが)
Wikipedia:基本方針とガイドライン#方針を決める方法に『慣習に基づく方針の見極めは難しいことがあります。その方針に特に反対がない場合、コミュニティの注意を長期間十分にその方針決定に向けるのは困難かもしれません。このような場合には、その慣習を適切なページに文書化しておくことが最善でしょう。文書化されていれば、その慣習についての議論などの基点となります。また、必要なときに、その文書をリンクとして提示することが可能になります。』とあります。
「「百科事典は常体で記述する」のが当然の前提であるという認識」も、Wikipediaは百科事典ですが、過去の百科事典にとらわれないものです。過去の百科事典がすべて「だ・である」体で記述されていたかどうかは知らないのですが、たとえそうであったとしても、過去の百科事典が持っている枠を超える可能性のあるWikipediaです。ということは、ある条件によっては、「です・ます」体というものが使用されることもありえると思っているのです。
Wikipediaは多くの人が執筆し、多くの人に利用されます。さまざまな人がいます。大学の論文を書くような方ばかりではないことも確かです。啓蒙する対象は多方面にあるわけです。百科事典ではありませんが一例ですが消費者センターから出る自分の身を守る方法が「です・ます」で書かれるのは、意味がないわけではないとおもいます。多くの人を対象にしている場合の記述の一例ともいえます。多くの人を対称にする百科事典であれば内容によっては、「です・ます」が適する場合もあるかもしれません。新しい百科事典ですから過去の概念にとらわれると自ら枠を作ってしまうことになるかもしれません。
「考慮すべきガイドラインは公式な方針ではないものの、多くの利用者が同意しており、使うことが推奨されているものです。強制ではないものの、普通は従うべきでしょう。」についても、たとえば、ガイドラインの筆頭近くに挙げられている、「Wikipedia:常に要約欄に記入する」でも、わたしの活動している範囲ではほとんど守られていません。これと同列に(あるいはそれより後方部分として)あつかわれているガイドですから、「非常に縛りの弱いルール」ということで理解してしまうことも、あながち責めることはできません。「です・ます」体に関しては、+styだけの記述ですかさず修正していく方が多い中、要約なしに関しては技術的に後追いできないこともあり放任状態に近いなあといつも思っています。
日本語版Wikipediaではメインページ冒頭で『基本方針に賛同して頂けるなら、どなたでも記事を投稿したり編集したりすることが出来ます。』といって新人を誘っており、その『基本方針』のリンク先ではWikipedia:基本方針とガイドラインでは、基本方針とガイドラインは別扱いになっており、このあたりの区別も『新人』には難しいものに見えます。
『ガイドラインは推奨』というコメントをいただきましたが、『ガイドライン』というものの位置づけについての説明がしWikipedia:基本方針とガイドラインにない事もわかりづらくしていると思えます。今、私は{{guideline}}での表記以外には探せませんでした。また『推奨』という文字もWikipedia:基本方針とガイドラインにないのです。
この『推奨』ですが、日本語『推奨』は英語のrecommendationより制約がゆるく、(Wikipedia日本語版にはその解説記事はないですが、)たとえば、三省堂提供「大辞林 第二版」で作成されているgoo辞書では「ある事物または人をほめて、他人にすすめること。」となっています。一般の人には「推奨」という用語は、それほどの強制力のあるものとは思えません。日本語Wikipediaなりに解説があるほうがわかりやすくはないでしょうか。それがどのようなものかはWikipedia:基本方針とガイドライン#考慮すべきガイドラインの冒頭にあるのがよいとおもいますが、現在は『以下に挙げるガイドラインも知っておくと良いでしょう。』のみで、個々のガイドライン記述にまかされています。
以上、話を広げすぎてしまったようで申し訳ないですが、このあたりくらいまで説明させていただいて、やっと質問の意図がわかっていただけるのかなあとおもったためです。私自身も、もちろんここ一年ほど「だ・である」体で記述しています。しかしながら、Wikipediaの可能性という意味ではさまざまあり、その意味で、執筆の原点であり、『最も変更できないだろう』と思っているこの『文体』についての『規定の根拠』を知りたかったのです。以上、コメントいただいた方々に対して批判的な文章と見えるかもしれませんが、そのような意図はまったくありません。どちらかというと日ごろWikipediaに関して感じていることを「です・ます」禁止令に近いガイドラインの意図の確認というこの機会に記しただけです。コメントいただいた皆様には非常に感謝しております。いただけなければ、上記を記すこともありませんでした。ねこぱんださん、草薙さん、Micheyさん、ikedat76さん、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2006年11月13日 (月) 05:35 (UTC)[返信]

だいぶ収束してきたようですね。おおむね賛成です。以下細かい点を。

  • 常体が日本語論文の通常の文体であるということには賛成です、ですのでこれを原則として堅持することに賛成します。
    • ですが、執筆者のなかには学術論文を読んだことのない/ほとんど読まない人もそれなりの割合でいるように危惧します。初等中等段階ではレポートでも敬体を使うことはあるように思います。ですのでガイドラインに文体上の注意を明示することにはきわめて意義ありと考えます。
  • また「日本語論文の常識」にはあまりよりかからないのがよいのではないかと思います。慣行は分野によりだいぶん異なることがあります。たとえば日本史学の論文では、生存中の人には原則的に敬称がつくように拝察しております(●●氏、●●教授、など)。そのような場合にお互いの常識をめぐって激突するよりは、「ウィキペディアとしては敬称をつけない」と合意を書いたものにより適時修正をしていくほうが、協同作業のためにはよいように思います。--Aphaia 2006年11月13日 (月) 09:58 (UTC)[返信]