Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/三条維基
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藤原維基(ふじわら の これもと)、のちに三条維基(さんじょう これもと、元永3年(1120年)4月1日-寿永3年(1184年)4月1日)は、平安時代後期の公卿。従三位・中納言。政治的には長く不遇であったが、自らの屋敷に多くの書物・資料を集め、文芸の振興に力を尽くした。
前半生
[編集]維基は大納言であった藤原維力の長男として、1120年京都に生まれた。長承4年(1135年)、15歳にして叙爵し以後昇進を重ねたものの、やがて鳥羽上皇と対立し傍流に追いやられ、逼塞を余儀なくされた。このころより世にあるすべての知識の収集を志したとされる。やがて保元の乱が起こり、後白河法皇が院政を開始すると中央政界に復帰。平治の乱では平家側に立ち、これによって平清盛の知遇を得、漢文や中国に関する知識を買われて日宋貿易に参画し、巨万の富を得る。その富で維基は書籍を始め、あらゆる知識の収集を開始し、これを「百科」と名づけた。一般に知られる維基百科という名は、鎌倉時代後期以降に定着したとされる[1] 。
維基百科
[編集]維基の収集の特徴は、とにかくあらゆる知識の断片を貪欲かつ無秩序に集め蒐集したことにある。どのような身分のものでも執筆に制限を設けなかったため、維基邸には執筆を望むものが門前市をなしたといわれる。もっとも、そのままでは流言や誤りが紛れ込む可能性があるため、維基自身は書籍による出典を必ずつけるよう指示していたがこれは多くの場合守られず、「出典もつけずに立項とな!」という維基の叫びが維基邸から聞こえてこない日はなかったという[2] 。
維基邸には多くの知識が集積されるようになったが、知識の整理は必ずしもなされているとは言いがたく、また日々大量の知識が流れ込んでくるため、かなり雑然とした様相を呈していた。その惨状を見た他の貴族の間でひそかに「惨状殿」と呼ばれるようになるが、これを聞きつけた維基この名をいたく気に入り、「惨状維基」と名乗ろうとした。しかし家司・神保らの必死の説得により、惨状を三条と読み替え、以後彼は藤原姓の代わりに三条姓を名乗ることとなった[3] 。
維基の試みには多くの学者が参加したが、なかでも最も大きな貢献をしたのは在野の学者であった浮辺泥庵(うきべでいあん)である。泥庵は維基の考えに共鳴し、「世に浮かぶ 知識の辺にて われひとり 泥の庵を 結び住むなり」(世に浮かぶ数え切れぬほどの知識の辺にて、泥でできた(粗末な、質素な)知識の庵を作る)という歌を詠み、それを自らの号として、知識の蒐集に奔走した。娘の浮辺丹(うきべたん)も父に協力し、知識の蒐集に努めたという。もっとも、現在の研究は個人としての泥庵の存在を否定し、維基のもとに集まった知識人グループの総称として浮辺泥庵と号したのではないか、との説が中州産業大学の綿貫一によって提唱され、有力となっている[4] 。
また、維基の事業を進めるにあたっては家司の神保の協力も大きな役割を果たした。神保(名は不詳)は各地の荘園や有力者のもとを回り、事業への寄付を求めた。「以下、従三位中納言三条維基からの文をお読みください」と書かれた文を受け取った有力者たちは恐怖し、多額の寄進を争って行ったという[5]。
維基の名声は商人たちを通じて中国大陸の宋王朝にまで及んだ。大輪田泊に商船が入港すると、商人たちは「維基!」「維基!」と叫びながら先を争って維基の家人のもとへと走り、大陸からの書籍を売りさばいたという。もっとも、維基自身は自らを維基と呼ばれることをことのほか嫌っており、何度か「維基って呼ぶな」(別與維基招呼)との禁令を商人たちに発していたが、実効性はなくやがて立ち消えとなった[6] 。
維基黄門
[編集]また、維基は文字資料のほか、絵画をも積極的に集めたことで知られている。維基が集めた絵画は一流の絵師が手がけたものではなく、庶民の暮らしや身近な事物などを写実的に描いたものが多かった。これは維基百科と同じく資料性を重点に置いたためであり、維基はみずから各地へ足を運んで絵画を集めたという。
この絵画収集の様子は庶民の間で語り継がれ、江戸時代末期には講談として成立した。内容は各地で微妙に違いがあるものの、大まかな筋としては絵画収集のためにお供の神保と浮辺丹を連れて諸国を漫遊するうち、地元の受領と手を組んで悪事を働く商人(越後の縮緬問屋が多い)のたくらみを暴き、成敗するといったものである。題名は当初はさまざまであったが、やがて維基の官位である中納言の唐名である黄門から、「維基黄門」と呼ばれるようになった[7]。
没後
[編集]維基死後、彼のコレクションは散逸の一途をたどった。承久の乱によって多くが押収され、金沢文庫や足利学校へ運び込まれたと史書は伝えているが、その多くは現存しない。わずかに朱筆にて「要出典」といたるところに書き込まれた巻物が数点残されているにすぎない。また、神保が協力を求めた文書は1点のみ現存し、現在国宝として南大東島国立博物館にて展示されている。
現在でも、主に中国大陸において維基の評価は高く、21世紀初頭にネット上のオープンコンテントの百科事典が中国語圏に上陸した際、中国語での名称は「維基百科」の名が採用された。