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Wikipedia:秀逸な記事の選考/光厳天皇 20230422

賛成/条件付賛成/保留/反対 3/0/0/0 この項目の選考期間は、2023年7月22日 (土) 02:12 (UTC)(2023年7月22日 (土) 11:12 (JST))までです。

  • (推薦)2022年12月27日の査読を経て、2023年2月27日に良質な記事となったものです。以下、秀逸な記事に推薦した理由を簡潔に述べます。

1.話題ごとに節を設け、高い完成度でまとめられています。
2.注釈などを用いて、初学者にもわかりやすい記述になっています。
3.光厳天皇の評伝は勿論、歴史学や国文学の研究成果も記載し、評伝以上に充実した記事になっています。
4.通史から専門的な論文に至るまで、主題について良く調査されています。
5.意見が分かれているものでも、中立の観点から記述がなされています。
6.ほぼ全ての記述に出典が付けられています。(所謂"孫引き"をせざるを得なかった箇所や元の出典を参照できなかった箇所(例えば、出典元にて「ーーは〜〜である。(〇〇〇〇『△△△』)」とあるが、『△△△』が手元にない場合)は、出典にて「〜より」という形で明記しています。)
以上の理由から秀逸な記事に推薦しましたが、正直なところ、今回は秀逸な記事に選出されることよりも記事のブラッシュアップを重視しているので、是非ともアドバイスを頂きたいものです。(投票もよろしくお願いします)--ツムラ会話) 2023年4月22日 (土) 02:12 (UTC) 一部修正--ツムラ会話2023年4月22日 (土) 05:33 (UTC)[返信]

  • (コメント)記事で出典として使われている下記の文献について、記事の記述と出典の記述を全て突合せ確認しました。
    • 深津睦夫『光厳天皇 : をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2014年
    • 岩佐美代子『光厳院御集全釈』風間書房〈私家集全釈叢書27〉、2000年
    • 岩佐美代子『竹むきが記全注釈』笠間書院、2011年
    • 岩佐美代子『宮廷に生きる : 天皇と女房と』笠間書院〈古典ライブラリー8〉、1997年
    • 次田香澄; 岩佐美代子『風雅和歌集』三弥井書店〈中世の文学〉、1979年
    • 亀田俊和『足利直義 : 下知、件のごとし』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2016年
    • 亀田俊和『観応の擾乱 : 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』中央公論新社〈中公新書(2443)〉、2017年
    • 秦野裕介『乱世の天皇 : 観応の擾乱から応仁の乱まで』東京堂出版、2020年
    • 亀田俊和『南朝の真実 : 忠臣という幻想』吉川弘文館、2014年
    • 小川剛生『二条良基』吉川弘文館、2020年
  1. 記事と出典は大体整合取れているようで問題なさそうです。明らかな不備と判断したところはこちらで修正しました。ただし、記事と出典の関係において、以下の点は疑問が残りました。(以下は 2023年5月27日 (土) 11:21‎ 版に対するコメント)
    1. 脚注29(岩佐 2000, p. 12. )が係る記述について、記事では「皇子は同年9月8日に親王宣下され、「量仁」(かずひと)と命名された」とあるが、出典では「8月17日、量仁親王と命名された」とある
    2. 脚注250(深津 2014, p. 217.)が係る記述について、記事中の「3月(3月)」「4月19日(3月29日)」という日付括弧書き併記の意味が分からない。出典は括弧書きで示されている方の日付。他の日付は一つだけ出典通りに記しているのに、なぜここだけ日付が併記されているのかよくわかりません。
    3. 脚注173(深津 2014, p. 264. )が係る記述について、記事では「貞和4年(1348年)10月27日」と示されているが、出典では「貞和4年(1348年)10月24日」とある。
    4. 脚注212b(小川 2020, p. 86.)が係る記述について、記事では「25日に北朝の神器が南朝に到着すると」と記されているが、出典では12月23日に三種の神器が接収されたとあるだけ(つまり記事中の前文と同じことが書いてあるだけ)のよう。
    5. 注釈16と脚注164に「飯倉 2015」という出典がありますが、参考文献一覧には「飯倉 2002」しかありません。
  2. また一部記述量が過剰なように思いました。具体的に言うと注釈、「御製」節、「肖像」節などです。ここまで記事が大部になってきたら、今度は記述量を絞ることも考えた方がいいと思います。
    1. 次の注釈は、後醍醐天皇の記事ならば書いた方がいいでしょうが、光厳天皇の記事に書く必要あるのでしょうか? 
      • 注釈11「後醍醐天皇は剣璽を笠置山潜幸に際して持ち出した[61]。しかし神鏡は持ち出されず宮中に安置されており、このことは『竹向きが記』や『花園院宸記』の記述からもわかる[64]。」 
      • 注釈24「「後醍醐上皇」が吉野に潜幸した理由は様々考えられているが、後醍醐本人は足利直義の行動が気に食わなかったことを挙げている[133]。」 
      • 注釈7「ただし、後醍醐天皇が後宇多上皇に、一代限りの「中継ぎ」の天皇と位置づけられたということに関しては異論がある。従来後宇多上皇の置文に基づいて邦良が嫡流で後醍醐は中継ぎの天皇とされてきたが、日本史学者の河内祥輔は、大覚寺統だけで皇位を独占するためには嫡流と定めた邦良親王の系統だけでは足りないから、後宇多上皇は後醍醐天皇の系統に皇位継承の可能性を残したとしている[34]。」
    2. 「御製」節の歌の引用は、もっと絞って量を減らすべきと思います。前半は光厳の思想信条と関連付けた解説が付いているので引用の必然性も分かりますが、後半は歌を単に載せているだけになっています。歌の一覧を載せるのは、リンクされているようにウィキソースなど姉妹プロジェクトの役割でしょう。
    3. 「肖像」節、単に画像を大きく掲示しているだけの節で不要だと考えます。
  3. 下記の文は、情報量が多いのに一文につめこんでおり、読みにくいです。文を分けて見直したほうがよいと思います。
    1. 治天の君となった光厳は、暦応3年(1340年)5月に、公家訴訟法を集大成したものとして高く評価されている[144]「暦応雑訴法[145]」を制定し[146]、1347年1月(貞和2年12月)に、倹約を命じる制符を発給した(最後の公家新制となる)[147]。
      → 例えばこんな感じで改善:治天の君となった光厳は、暦応3年(1340年)5月に「暦応雑訴法[145]」を制定した[146]。この訴訟法は、公家訴訟法を集大成したものとして現在では高く評価されている[144]。1347年1月(貞和2年12月)には、倹約を命じる制符を発給した[147]。これは結果的に歴史上の最後の公家新制となる[147]。
    2. 大覚寺統では既に恒明親王と後宇多天皇の二つの系統に分かれていたため、この際伏見上皇(後伏見・富仁の父)は、持明院統の分裂を危惧し、後伏見に将来嫡男が生まれた場合は富仁の猶子とするとした上で、その系統への皇位継承を厳命した[32]。
    3. 廃位の際は近江国より帰京し程無くして出家した後伏見法皇の出家の勧めを堅く断り、正平一統の際も光明の出家を「御迷惑」と批難して、幽閉生活となっても出家しなかった[237]。
  4. ここまで記事が大部になるならば、人名や専門用語には記事内で複数のリンクを用意した方が利便だと思います。例えば、「○○との関係」節では、各々の節の中で○○に改めてリンクを付けてくれている方が、「この人何だったけ?」となるレベルの読者にとってありがたいです。
  5. 必ずしも修正を求めるほどではないですが。記事本文中で<br>による改行が混じっているのが気になりました。普通の改行(いわゆる2回改行)にしても問題なさそうですが。
--Yapparina会話2023年5月27日 (土) 13:49 (UTC)[返信]
記事の検証ならびにアドバイス等々、誠にありがとうございました。1~5までのご指摘を受けた箇所は、先程編集してほとんど全て解決したと思います。--ツムラ会話2023年5月27日 (土) 16:11 (UTC)[返信]
早速のご対応ありがとうございます。
  • 脚注162に「飯倉 2015」が残っているようです。
  • 中村直勝「光厳天皇」1978年に埋め込まれているリンクが 中井裕子「『光厳院御記』にみる長講堂供花会とその装束」2002年 のリポジトリにつながるようです。
  • 「在位中の元号」節の「元弘2年(1332年)に後醍醐は隠岐へ遠流となり、」は誤記ですか?
--Yapparina会話2023年5月28日 (日) 07:54 (UTC)[返信]
こちらもミスでしたので修正しました。--ツムラ会話2023年5月28日 (日) 11:22 (UTC)[返信]
(賛成): 修正ありがとうございました。自分としては修正を求めるレベルの問題点は一通り直していただいたので選考に賛成します。--Yapparina会話2023年5月29日 (月) 10:53 (UTC)[返信]
一連のご指摘ならびに賛成票ありがとうございます。--ツムラ会話2023年5月30日 (火) 04:13 (UTC)[返信]
  • (コメント):あまり南北朝について詳しくない者ですが、一通り読み終えた後も気になった部分がありました。
  1. 誕生節 ~~誕生。"場所は権大納言一条内経の一条第[4]。"この権大納言一条内経の一条第というのが調べても出てこず、よくわからなかったです。
  2. 「六波羅探題が陥落」という言葉、六波羅探題の拠点が陥落ということでしょうか?(六波羅が陥落?)六波羅探題は職名なはずなので「六波羅探題が陥落」は少し変な気がします(例:六波羅探題の~~が陥落した)

最初に言った通り南北朝について詳しくないので解釈がおかしいかもしれませんがそしたらすいません。--仙人です会話2023年6月20日 (火) 10:40 (UTC)[返信]

返信 大変有益なコメントありがとうございました。
  1.  「権大納言一条内経の一条第」とは、一条内経の子一条経通の邸宅が[1]より一条室町第だとわかるので、おそらく「一条室町第」(or一条室町殿)のことなのですが、出典に「一条第」とあったのでそれに則っています。
  2.  言われてみれば違和感があったので、役職としての「六波羅探題」と「六波羅探題邸」に書き分けました。
--ツムラ会話2023年6月21日 (水) 12:11 (UTC)[返信]
(賛成): 修正・解説有難うございます。いくつか南北朝の本を読んでみたのですが後醍醐天皇がやはり話の主人公で本自体が古いのもありますが光厳天皇に関する記述があまりなかったので、ここまで生涯について詳しく尚且つ人物についてもここまで詳しく書けるのは素晴らしいと思います。賛成です。--仙人です会話2023年6月22日 (木) 07:15 (UTC)[返信]
賛成票ありがとうございます。お言葉も大変ありがたく、今後の励みになります。--ツムラ会話2023年6月22日 (木) 10:14 (UTC)[返信]
  • 賛成 良さそうだと思います。ただ、「廃位」の節の後の方、同じ元弘3年に対して1334年と1333年と付いているところがあり、ユリウス暦と日本の太陰暦で年が完全に対応していないからこうなるのだと理解はしますが、どうにかならないものだろうかと思います。元弘3年は大半の期間で1333年なのですからそちらに統一してしまう、とどこかで宣言してしまっても良さそうに思います。--Tam0031会話2023年7月12日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
    賛成票ありがとうございます。件のご指摘、承知しました。ご指摘の他の箇所も訂正しました。--ツムラ会話2023年7月13日 (木) 08:44 (UTC)[返信]

賛成3票、反対0票。賛成票が3票以上かつ賛成票が全体票数の3/4以上の状態を満たし1週間経過したので選考通過。--Family27390会話2023年7月19日 (水) 15:08 (UTC)[返信]