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コンスタンティノス・パレオロゴス・ポルフュロゲネトス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンティノス・パレオロゴス・ポルフュロゲネトス
Κωνσταντῖνος Παλαιολόγος Πορφυρογέννητος
パレオロゴス家
コンスタンティノス(1678年の木版画)

称号 専制公
出生 1261年
東ローマ帝国コンスタンティノポリス大宮殿
死去 1306年5月5日(44歳没)
東ローマ帝国コンスタンティノポリス
埋葬 東ローマ帝国コンスタンティノポリス、リヴォス修道院
配偶者 イレーネー・ラオウライナ
子女 ヨハネス
父親 ミカエル8世
母親 テオドラ・ヴァタツァイナ
宗教 キリスト教正教会
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コンスタンティノス・ドゥーカス・パレオロゴス・ポルフュロゲネトスギリシア語: Κωνσταντῖνος Δούκας Παλαιολόγος Πορφυρογέννητος, 1261年 - 1306年5月5日)は、東ローマ帝国の皇族。

生涯

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1261年秋、皇帝ミカエル8世の三男としてコンスタンティノポリスに生まれる。母はテオドラ・ヴァタツァイナ英語版[1]。父ミカエル8世は同年の8月15日ラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回しており、その直後に帝都で生まれたコンスタンティノスは「真のポルフュロゲネトス英語版」であるとしばしば呼ばれた。現在のイスタンブール旧市街の北西部にあるポルフュロゲネトスの宮殿はコンスタンティノスにちなんで命名された。伝承によると、コンスタンティノスは父帝から専制公よりも上位の称号を与えられたという[2]

1280年、コンスタンティノスはマケドニアにいたセルビア人と戦った後に小アジアトルコ人略奪者攻略を命じられ、メンデレス川渓谷から略奪者たちを掃討した。後にコンスタンティノポリスにストウディオス修道院英語版を再建した。1293年6月、兄の皇帝アンドロニコス2世から帝位奪取の猜疑を被って捕縛された[3]1299年テッサロニキに連行された後、アタナシオスの修道名を名乗って修道院に入った。1306年5月5日、コンスタンティノポリスで死去[3][2]リヴォス修道院英語版に埋葬された[2]

結婚と子女

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1290年頃、ノルマン系貴族の出身とも言われるイレーネー・ラオウライナギリシア語版と結婚し[1]、1男、ヨハネス英語版を儲けた[2]

出典

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  1. ^ a b 杉村 1997, p. 72
  2. ^ a b c d Erich, Trapp; Hans-Veit Beyer; Sokrates Kaplaneres; Ioannis Leontiadis. “"21492. Παλαιολόγος Κωνσταντῖνος".” (ドイツ語). Prosopographisches Lexikon der Palaiologenzeit. 9. Vienna: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften. ISBN 3-7001-3003-1 
  3. ^ a b Nicol 1993, p. 123

参考資料

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