伊地知彦次郎
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生誕 |
1860年1月6日(安政6年12月14日) 日本・薩摩国 |
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死没 | 1912年1月4日(51歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1883年 - 1912年 |
最終階級 | 海軍中将 |
墓所 | 青山霊園 |
伊地知 彦次郎(いぢち ひこじろう、1860年1月6日(安政6年12月14日) - 1912年(明治45年)1月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]薩摩藩士・伊地知季太の二男として生まれる。明治7年(1874年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。明治16年(1883年)に海軍少尉任官。「畝傍」分隊長、「鳳翔」分隊長、参謀本部海軍部第2局員、横須賀鎮守府長官伝令使、フランス出張、イタリア公使館付、海軍大学校教官などを経て、日清戦争では「橋立」分隊長として出征した。
その後、「大島」分隊長、「武蔵」副長、呉水雷団水雷艇隊司令、軍令部第1局員、「富士」副長、「龍田」艦長、海軍省軍務局第2課長、第1駆逐隊司令、常備艦隊参謀長、「松島」艦長などを歴任。日露戦争では、連合艦隊旗艦「三笠」艦長として従軍し、東城鉦太郎作の「三笠艦橋の図」にも描かれている(詳しくは東城鉦太郎を参照のこと)。
海軍教育本部第1部長などを経て、明治39年(1906年)11月、海軍少将に進級。兼教育本部第2部長、練習艦隊司令官、将官会議議員などを歴任し、明治43年(1910年)12月、海軍中将となった。馬公要港部司令官、将官会議議員を務め、現職で死去した。墓所は青山霊園(1ロ16-5)。
栄典
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 正八位[1]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正七位[2]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 従六位[3]
- 1898年(明治31年)3月8日 – 正六位[4]
- 1900年(明治33年)12月7日 - 従五位[5]
- 1910年(明治43年)12月20日 - 従四位[6]
- 1912年(明治45年)1月4日 - 正四位[7]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1905年(明治38年)5月30日 - 旭日中綬章[11]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、明治三十七八年従軍記章[12]
- 1909年(明治42年)5月25日 - 勲二等瑞宝章[13]
- 1912年(明治45年)1月4日 - 旭日重光章[7]
- 外国勲章佩用允許
- 1893年(明治26年)4月20日 - イタリア王国:王冠第四等勲章[14]
- 1895年(明治28年)3月14日 - イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章オフィシェー[15]
- 1902年(明治35年)6月30日 - イタリア王国:王冠第三等勲章[16]
親族
[編集]現在、軍事雑誌『Jウィング』『J-SHIPS』等を発行しているイカロス出版の創業者であり同社の現会長である伊地知猛は、彦次郎の曾孫である。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5232号「叙任及辞令」1900年12月8日。
- ^ 『官報』第8251号「叙任及辞令」1910年12月21日。
- ^ a b 『官報』第8562号「叙任及辞令」1912年1月8日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3866号・付録「辞令」1896年5月21日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月18日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第7775号「叙任及辞令」1909年5月28日。
- ^ 『官報』第2943号「叙任及辞令」1893年4月25日。
- ^ 『官報』第3515号「叙任及辞令」1895年3月22日。
- ^ 『官報』第5718号「叙任及辞令」1902年7月26日。
- ^ 『人事興信録 初版』(人事興信所、1903年)p.25
参考文献
[編集]先代 玉利親賢 |
馬公要港部司令官 第8代:1910年12月1日 - 1911年12月1日 |
次代 小泉鑅太郎 |